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阿満利麿 『人はなぜ 宗教を必要とするのか』 : ベタをネタにして ベタになった 阿満利麿

書評:阿満利麿『人はなぜ宗教を必要とするのか』(ちくま新書)

そもそも、この『人はなぜ宗教を必要とするのか』というタイトルからして、読者をミスリードするものでしかない。
なぜなら、当然のことながら「宗教を必要としない人」も大勢いるからで、正確には「なぜ宗教を必要とする人がいるのか」というのが、正しい現実認識による設問なのである。

しかし、こう言うと著者は「私が自著『日本人はなぜ無宗教なのか』で示したとおり、宗教を必要としない人、つまり無宗教の人というのも、厳密に見ていけば、宗教的なものに惹かれる心理的側面を持っており、その意味では、全ての人が、多かれ少なかれ宗教を必要としている、と言えるのだ」と反論することだろう。
しかし、これは典型的な「欺瞞(ペテン)」である。

例えば「信仰を持たない理想主義者」をその「理想」の故に「宗教的な人」と呼ぶことが、果たして妥当だろうか? 「宗教は阿片だと主張するマルクス主義者」もその「信念」の故に「宗教的な人」であり、さらには「信仰も思想も理想もなく、趣味に淫した生活に満足している趣味人」も、その「趣味」の故に「宗教的求道者」と呼ぶことができるだろうか?
もちろん、そのような「恣意的な解釈」も可能ではあろうが、それが許されるならば「あらゆる信仰者は、その本質において、じつは功利主義者に過ぎず、その意味で非宗教的人間である」という「解釈」も十分に成り立つのである。

つまり、「宗教」や「信仰者」、あるいは「非宗教」や「非信仰者」という言葉の定義を行わずに、自由な解釈が行われるところでは「白いは黒い」「高いは低い」などというのは容易なことであり、文学的レトリックよって、物事は如何様にも言えるのである。
そして、本書で著者のやっていることは、半ば無自覚で半ば自覚的な、この種のレトリックによる「宗教勧誘」に他ならない。
本書は、それ以上でもそれ以下でもない代物なのである。

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西本願寺の末寺に生まれた著者・阿満利麿は、やがて自覚的に浄土宗・浄土真宗系の仏教に帰依した信者なのだが、彼はもともと「日本的な宗教や民族文化」に魅せられた人であった。そして、学者になった後も、それらを相対化できなかった文化信仰家であり、それが本物の宗教信仰者へと発展した人だったと言えよう。

彼は、そういう「趣味嗜好」を持った人なので、自己の愛する対象の研究には純粋熱心であり、そのため、そうした研究には高く評価してしかるべきものもあった。
しかし、そこから外れたものに対する無関心が、そのままに「無知」と「決めつけ」になってもいる。

私は、阿満の著書『日本人はなぜ無宗教なのか』のamazonレビューのなかで、阿満の文章を引用した上で、次のような疑義を呈しておいた。

----------------(以下引用)----------------

『 日本人の宗教心は、「無宗教」に終わるものではないし、また「無宗教」も子細に見てみると、豊かな内容に満ちていることも分かってくる。大切なことは、自分たちの歴史を正確に知るということであろう。自分たちの宗教心のあり方を、事実に即して正確に認識することなしに、日本人論も日本文化論も、またさまざまな国際比較論も成立はしない。「無宗教」という以上は、日本における本格的な「無神論」の系譜も、尋ねる必要があることはいうまでもない。だが、本書ではあえてそれにはふれなかった。本書では、あくまでも日常生活のなかで、ごく普通に使用される「無宗教」という言葉の内容を確かめることに焦点を絞った。』(P199)

『 本書では、「無宗教」という言葉が生まれてくる事情を、二つのレベルのちがった歴史をたずねることで明らかにしようとした。一つは、明治以来の近代史であり、もう一つは、もっと長期にわたって持続されてきた、いわば民族的心性にかかわる深層の歴史である。こうした複眼的な説明を必要とするほど、日本人の「無宗教」の根は深い。書き終えてあらためてそのことを実感する。』(P206)

著者の意見はハッキリしている。『事実に即して正確に認識すること』が何より必要であり、その上で『複眼的』な検討しなければ、「宗教」の問題を正確に評価することはできない、というものだ。

それにしても、著者の著作リストを瞥見すれば、著者の研究が「日本」国内に限定されている、という事実も否定できない。
例えば、著者がユダヤ教やイスラム教について、詳細かつ十二分な知識を持っているとは思えない。

----------------(引用以上)----------------

実際、本書を見ても、日本文化と関連の薄い、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教などについて、阿満には、語るに値するような知識があるようには見受けられない。明らかに阿満の知識は、宗教を含む「日本文化」に偏しているのである。
そして、そうした偏りが露骨にあらわれるのが、「科学」についての紋切り型な認識に基づく批判だ。

『 さきにのべたように、「死ねば一切が無になる」ということは、「科学」では証明できないことです。「科学」とは、ごく素朴にいえば、実験によって証明された事実を基に、そうした事実の間に法則を見いだす営みだといえますが、死後の世界は、「科学」の対象となる事実を提供できません。死後の世界は、実験によってつくりだすことはできないのです。死後の世界とは、生きている人間が、他人の死を見て、ひたすらあれこれ想像するだけの世界なのです。
「死ねば一切が無になる」ということは、死んでみなければ分からないことでしょう。「一切が無だ」という蓋然性は大変高いように思われますが、それも所詮、人間の浅知恵なのかもしれません。要するに、死後の世界は、人間の理性では理解することができない世界なのです。そして、人間にできることは、その死をどのように「納得」するかということだけです。それは、科学的証明とは無関係な営みです。』(P26〜27)

阿満のこの「説明」を素直に呑み込める人は、自身の「認知症」罹患を疑ってもいいだろう。すくなくとも、詐欺被害に遭う怖れは十二分になるので、くれぐれも気をつけてほしい。
阿満のここでの議論は「この壷に、特殊な霊力があるということは、今の科学では否定も肯定も出来ないところであり、要は貴方が、これを信じるか否かにかかっているのです。ただ、私どもが、事実としてお伝えできるのは、この壷によって、奇跡的な幸運に恵まれた方が大勢いる、あの有名人もこの有名人もそうだという事実です」という口上や〈「ウルトラマンは実在しない」ということは、「科学」では証明できないことです。宇宙は無限だからです。「科学」とは、ごく素朴にいえば、実験によって証明された事実を基に、そうした事実の間に法則を見いだす営みだといえますが、ウルトラマンの存在は、「科学」の対象となる事実を提供できません。ウルトラマンの実在は、実験によってつくりだすことはできないのです。ウルトラマンの実在とは、生きている人間が、テレビを見て、ひたすらあれこれ想像するだけの世界なのです。〉と、何ら変わらない。

そもそも、阿満の議論は「死後の世界」が存在することを前提としたものだが、それは「論点の先取り」でしかない。「死後の世界」を論じるためには、まずその実在を確認しなくてはならないのだが、阿満のような宗教家は『(※ 死ねば)「一切が無だ(※ 死後の世界は、存在しない)」という蓋然性は大変高いように思われますが、それも所詮、人間の浅知恵なのかもしれません。』と、高い蓋然性を『人間の浅知恵』呼ばわりして、自らの信ずる、より蓋然性の低い「浅知恵」を、同列以上の扱いにしてみせるのだ。

ともあれ、「科学には限界がある」というこの種の「科学」批判は、宗教家が好んで口にする紋切り型、つまり「科学」についての知識や理解の無い者のそれでしかない。
言うまでもなく、「科学」を含め、人間の営みには「すべて限界がある」のは当然であり、大切なのは、その方法論の確かさなのだ。だが、阿満のような宗教家は、極めて恣意的である点で方法論的に不確かな「宗教的想像力」がもたらす「フィクション」の方が、知恵と手間のかかる「科学」より、誰にでも「納得しやすい」から有り難いという、危険な論理を弄ぶのである。

もちろん、宗教家なら「科学」に無知でも、専門外ということで、ある程度は大目に見ることもできようが、阿満は「学者」なのだから、自身の専門である「宗教」と多くの点で対立的な「科学」について、完全に無知であることは許されない。何故ならそれは、自身の専門たる「宗教」を相対視(客観視)できない、という事実を意味するからである。

例えば、キリスト教を素人研究している無神論者である私でも、キリスト教の神学書や歴史研究書を読むのは無論、それを批判する「科学」についても専門ではないので、双方を読み較べるということをする。
具体例を挙げると、『利己的な遺伝子』で知られる科学者リチャード・ドーキンスに宗教批判書『神は妄想である』があると聞けば、それを読むと同時に、ドーキンスという科学者を知るために『利己的な遺伝子』も読む。そして、ドーキンスの『神は妄想である』への反論として書かれた、著名なプロテスタント神学者マクグラスの『神は妄想か?』を読み、「宗教と科学の住み分け」論を主張して、ドーキンスを立場を異にした進化論学者スティーブン・J・グールドの本も読んだし、グールドが「創造論」と対決した経緯を紹介した本も読んだ。また、キリスト教信仰を持つ科学者の本も読んだし、さらに「科学とは何か」を知るために科学哲学の入門書を読んだり「科学的思考とは何か」といった類いの本も読んだ。
それでも、これは「宗教と科学の対立」を考えるための、ほんの序の口に過ぎないのは、言うまでもない。

しかし「宗教」の問題において『さまざまな国際比較論』などとということを口にする宗教学者である阿満が、世界最大の宗教と言っても良いキリスト教に無知なまま、日本の宗教を持ち上げるなどといったことは許されない。
例えば、阿満は、ゴーガルデンを知っているだろうか? ラーナーを知っているだろうか? トレント公会議で何か議決されたかを知っているだろうか? これが難しすぎるというなら、前ローマ教皇の名は? いや、四福音書の名は? これでも難しければ、聖書を通読したことはあるのか、と訊きたい。
言うまでもなく、ここで挙げたことはいずれも、キリスト教についての初歩の知識でしかない。しかし、人口の1パーセントしか信者がいない日本では、一般に、この程度の知識も無いのは当然だ。
だが「宗教学者」の肩書きで、阿満がキリスト教を云々するのであれば、この程度のこと、知らないでは済まされない。
しかし、たぶん阿満は知らないだろう。もちろんネット検索して取り繕うことは出来ても、私が面と向かっていろいろ質問すれば、かならず返事に窮するはずだ。それほど、阿満の読書や研究は、日本文化に偏しており、偏頗なものでしかない。

まして、そんな阿満が「科学」について、世間並み以上の知識があろうとは、私にはとうてい思えない。
例えば「量子力学」についての本を読んだことがあるか? 「マックスウェルの悪魔」について説明せよ。「ハイゼンベルグの不完全性定理」について、概要を説明せよ。「反証可能性」について説明せよ。こんな具合に問うたら、どうだろう。たぶん、阿満には答えられまい。
しかし、この程度のことは、科学者でも何でもない、SF小説マニアだって、ある程度は説明できるほどポピュラーな議論なのである。
そして、そんな「科学に関する初歩の知識、あるいは常識」すら持たない(持とうともしない)阿満が、「宗教」と「科学」を比較することなど、出来ようはずもない。
知らないことは語り得ない(認知できないことは語り得ない)のだ。そして、そう(過渡的に)結論するのが、身の程を知った(謙虚な)「科学的思考」なのである。

ところが、その「語り得ないこと」を現に語っているのが、本書であり、著者の阿満利麿なのである。

では、阿満はなぜ「知らないこと」を語れるのだろうか。
それは「知らないこと」を「知っていると勘違いしている」からに他ならず、「宗教」的思考とは、まさにこれなのである。

つまり、阿満の本質は「信仰者」であって、「学者」ではない。
カトリックの「神学者」が、所詮は「信仰者」であって、価値中立的な「学者」ではないのと同じなのだ。
よく言えば、自身の「宗教家的憶断」に気づかないまま、「趣味の信仰」を擁護し賛嘆しているだけなのである。

無論、阿満が学者として、自分の興味のあることに集中して研究を行い、事実関係の報告をする分には、それは立派な学問だが、それによって強化された、個人的な価値観を語るのなら、それはもはや学問の名には値しない。

『なぜ日本人は無宗教なのか』は、まだしも学問に止まっていたけれども、それが予想外に売れたために、阿満は自分が何者なのかを勘違いし、「啓蒙家」になれると思ったのだろう。
だが、阿満にとっては、好きな「宗教(ベタ)」を「方便としての文化(ネタ)」として正当化しているうちに、いつのまにか、自分がその「方便(ネタ)」を信仰するようになってしまった(ベタ)。
宮台真司は「ネタがベタになる」という卓抜な表現を使ったが、阿満の場合もまさにこれで、要は「ベタをネタにしてベタになった」ということだった。
言い換えれば「(ミイラ好きの)ミイラ取りがミイラになった」のだ。

阿満のこうした「誤った自己誤認=勘違いぶり」は、次のような部分にも、端的に表れている。

『 「凡夫」とは「煩悩」に束縛された存在であり、自己可愛さのあまりつぎつぎと欲望を追って、あたかも「煩悩の犬」とともに生きるしかない存在だ、ということになります。ここでまた、なんでもかんでも「煩悩」に還元するのは耐え難い、という非難の声が、世界のエリートたちからあがってきそうです。』(P136)

『 欲望のコントロール、悪くいえば欲望の抑圧が、あたかも宗教であるかのような俗論には、私は強く反対したいと思います。しかし、その一方で、「才能もまた煩悩だ」という視点を大切にしたいのです。大切なことは、自己の内部に巣くう欲望をできるだけ冷静に、また客観的に見つめることができる、余裕のある視点の確保なのではないでしょうか。』(P137)

『 人はややもすれば、自分の全体を知っていると思いがちです。自分がいだいている欲望も、だいたい把握しているつもりになっています。しかし、おっとどっこい、私のなかには、私自身もよく分からない自分が住んでいるのです。』(P138)

ここで阿満が言っているのは「私は、わかっている」という「自慢」話に他ならない。
つまり「一流の学者である私もまた、凡夫であり、自身が誤りのある存在だと謙虚に自覚しているから、世間の凡夫と同じ立場に立って、自身が凡夫であることに無自覚なエリートたちの主張する禁欲主義には反対する」と言っているのだが、これは「私は、自分が阿呆だと自覚しているから、そのぶん他の人より賢い人間なのだ」と言っているだけである。
ただ、その「自覚」が無いからこそ、「私は(欲望にまみれた)凡夫」だという本来なら恥ずべき事実をも「自慢」げに語り、阿満にすれば「無自覚」に見える他の「(知的)エリート」の意見を、軽く見ることも出来たのだ。

そして、阿満の根底にこうした「知的慢心」があるからこそ、「外国の宗教」や「科学」についての十分な知識が無くとも、宗教の「国際比較論」がどうしたとか、「科学」とは所詮その程度のものだ、などという「傲慢」極まりない「浅知恵」を、恥もせずに語れたのである。

無論、そんな阿満には「自分が愚かだと自覚している私は賢い、と思っている私は愚かであるが、そのことに気づいている私は賢い、と思っている私は…」という「自己言及のパラドックス」など、想像もできないのだろう。

したがって読者は、本書に書かれていることが、阿満の研究による「客観的事実」なのか、研究対象についての「阿満の個人的解釈」でしかないのかを、しっかり見極め、区別する必要がある。

決して難しいことではない。
阿満の議論は宗教家によくある「論点先取り」が多いので、普通に論理的な人なら、その宗教家らしい非論理性は、容易に看取できるはずだ。

本書における、阿満の語り口が、宗教勧誘者のそれにそっくりなのは、決して偶然ではない。
しかし、阿満自身はそれに気づいていないというところが、信仰者の信仰者たる所以なのである。

【関連推薦図書】
・ 中村圭志『西洋人の「無神論」日本人の「無宗教」』(ディスカバー新書)

初出:2019年5月10日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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