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大谷栄一 『日蓮主義とは なんだったのか 近代日本の思想水脈』 : 日蓮と 創価学会の 〈失われた環〉

書評:大谷栄一『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』(講談社)

珍しいもの、貴重なもの、美しいものなどを見る幸せを「眼福」と言うが、珍しい、貴重な、美しい文物を読む幸せならば、「脳福」あるいは「心福」とでも呼べばいいのだろうか。
そんなことを考えたくなるほど、本書は深く「読書の喜び」を感じさせてくれた、極めて貴重な研究の書である。

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私は、小学生の頃に両親とともに創価学会に入会し、イラク攻撃(戦争)を公明党・創価学会が支持・容認したことをもって、創価学会を辞めた人間で、今は「宗教」に対して問題意識を持つ、一人の「無神論者」である。

二十数年間、創価学会にいたわけだが、その間、熱心な活動家ではなかったものの、真面目な会員であり、積極性は無いものの、会合や勉強会に誘われれば素直に参加するという、平凡な一会員であった。ただ、私が、創価学会員であることでイヤだったのは、とにかく時間をとられるということだった。
私は子どもの頃から、趣味に淫する人間で、絵を書いたり、専門誌を購読するほどプラモ作りに凝ったり、同じく専門誌を定期購読するほどアニメにハマったりして、将来は漫画家かアニメーターになりたいなどと、大マジメに考える子供だった。
学校でも、決められたことはキチンと守る優等生的態度の学生だったが、いかんせん勉強は嫌いだった。単純に、強いられてする勉強が面白くなかったからであり、常に面白い趣味を持っているので、面白くないことはやれない、どうしてもやれない人間だったのだ。
で、これは創価学会での活動においても、まったく同じだったのである。

「日蓮仏法を広めることで、世界平和を実現する」という目標は、立派なことだし、それに文句はなかった。できれば協力したいし、しなければという気持ちもあった。しかし、義務的に行っていた朝晩の勤行や、大小の会合への参加に、時間をとられるのがイヤだった。
また、毎日届く「聖教新聞」や月刊の「大百連華」、それに創価学会のバイブルである小説『人間革命』や、その他の池田会長の著作を読むことも大変だし、もちろん宗祖日蓮大聖人の御書(遺文)集成である「御書全集」も、信者としては、いずれ通読しなければならないものだったが、やたらに字が細かく、薄い紙に印刷された分厚いもので、とうてい手がつけられず、ずっと「宿題」を抱えているような気分だった。

後年私は、「趣味としての宗教研究」のテーマをキリスト教に定め、最初に「聖書」の通読をした。
そして、その後に知ったことだが、クリスチャンだからといって、皆が聖書を通読しているわけではないことを知った。これは、創価学会時代の私と同じことだったのだが、しかしまた、「御書全集」にくらべれば「聖書」など圧倒的に薄く(テキスト量が少ない)から「これくらいのものなら読めよ」という気持ちにもなった。

ともあれ、そんなわけで、創価学会員というのは、マジメにやると、とにかく趣味に時間をかけるような生活ができない。しかし、私は子どもの頃から今に至るまで、根っからの趣味人なので、創価学会員としての当時の生活は、性格的にどうにも無理があったと言えよう。

また、もうすこし真面目な問題として、私が創価学会の信仰に馴染むことのできなかった大きな理由は、「なぜ、この信仰が正しいのかが、理解できなかった」という点がある。したがって、心の底から、創価学会の日蓮信仰を信じることができなかったのだ。

その典型的な事例が、本書でも日蓮仏法の特徴的な理論として言及されている「四箇格言」への疑問だ。
「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という、鎌倉仏教の他宗派に対する四つの批判的評価をまとめて表した言葉だが、「なぜそう言い切れるのか」が分からなかった。

創価学会では当時、「折伏教典」というハンドブックがあり、それには、なぜ「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」なのかの説明が、簡記されていた。
そして、そのハンドブックを持って、他宗の信者を「折伏」するというのが、当時の創価学会員の、当然の勤めだった。なにしろ、唯一正しい、日蓮仏法を広めなければ、完全な世界平和は実現しないんだから、他宗派の信者を論破して、日蓮の信仰につけるようにする布教の努力は、信者として当然やらなければならないことなのである。

それはわかる。よくわかるのだが、しかし「なぜ、この信仰が正しいのか」の説明が、十分になされているとは、私には思えなかった。
たしかに「折伏教典」には「何宗の教えには、これこれと言うことが書かれているが、これは日蓮大聖人の教えからすると虚偽である(あるいは釈尊の教えを曲げたものである)から、間違いである」といったような、きわめてシンプル、忌憚なく言えば、「日蓮の教えが正しい」ことを自明の前提とした理屈(循環論法・同語反復)でしかなかった。
つまり、「日蓮の教えが正しい」ということの客観的説明にはなっておらず、「他宗の教えは間違っている」ということの論証にもなっていなかったのである。

これは、創価学会内の身近な大人や先輩や幹部に尋ねても、ハッキリした説明は得られず、最後は「それを知るためには、しっかり唱題して、池田先生の本を読んだり、教学の勉強をしないと無理だよ」などと言われて「そこまでは面倒くさいて出来ないなあ」と、いつもうやむやにしてしまったのである。
しかしまた、その一方で「他宗には他宗なりの言い分(正当化の理屈)があるはずだ。それを僕は、そして多くの創価学会員は知らない」という、ぼんやりとした懐疑も、消えることなく残ったのである。

そして、そんな創価学会員時代が二十数年つづいた後に、かの「イラク戦争」が勃発した。さらにそれを、公明党・創価学会が支持・容認したことで、私は「これまでの絶対平和主義は嘘だったのか!」と反発し「本来の姿(日蓮の教え)に戻れ」と批判したが、それが「蟷螂の斧」でしかなかったのは言うまでもない。
私は、創価学会に失望して、と言うよりも、やっぱり「創価学会の信仰が唯一正しいというのは、独り善がりな自己主張でしかなかったのだな」と納得して、創価学会を去ることにしたのである。

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本書で、私が特に興味深く思ったのは、創価学会では知ることのできなかった部分、つまり「日蓮と創価学会の〈失われた環〉」の部分を、まとめて知ることができた点である。

一般的な創価学会員にとって、創価学会の歴史とは、小説『人間革命』第1巻の冒頭で描かれているとおり、戸田城聖第2代会長が、戦時中に不敬罪に問われて下獄した豊多摩刑務所を出るところから、実質的に始まる。
もちろん、その前には「創価教育学会」の設立者で初代会長である牧口常三郎時代の歴史があるのだが、そのあたりは「教育者であった牧口が、日蓮正宗に入信し、自己の教育論をより根底的に支える哲学としての日蓮仏法に目覚め、戸田とともに創価教育学会を設立し、会員を増やしていくも、軍国政府の神札強制を拒んで下獄し、終戦を待たず獄死してしまう」という程度の「簡単な歴史」しか教えられないからである。

しかし、高校生の頃から趣味の読書にめざめた私は、歳をとるに従い、いろんなジャンルの本を読むようになると、親鸞や空海のほうがメジャーな今どきとは違って、戦前戦中には「日蓮」に傾倒した重要人物が、結構いたことを知るようになる。
だが、宮澤賢治を除くと、彼らは軍国日本や政治テロリズムにかかわった「危険な人たち」という印象があり、どうして、そういう人たちと、「反権力」的な(あるいは、庶民派的な)日蓮がつながるのかという、ぼんやりとした疑問を持つようになった。

それでも、創価学会員時代は、そんなことをつき詰めて考える余裕は無かったし、創価学会を辞めてから、あらためて「宗教とは何だろう?」と考えるようになった時にも、私がまず読み始めたのは「オウム真理教事件」を扱った各種の研究書であった。オウム真理教を扱った本なら、宗教の本質的な問題点を解き明かしてくれるのではないかと期待したからである。
しかし、宗教の問題点を研究するのに、最悪の宗教を研究しても、宗教一般への批判的研究にはならないことに、やがて気づいた私は、ある個人的なきっかけもあって「宗教を研究するのなら、普遍性のある宗教を研究しないといけない。となると、キリスト教がもっとも一般的だろう」と考えて、キリスト教の素人研究に取り組むことにしたのである。

そして今では、キリスト教にかんしてなら、一般信者は無論、そこらの神父・牧師相手でも論争ができるぞ、というくらいに詳しくはなったのだが、「日蓮の同時代」と「戸田出獄」の間をつなぐ部分(特に、明治維新から太平洋戦争終戦までの時代の、日蓮受容)については無知なまま、長らく放置していたのである。

ところで、宗教研究とともに、私の趣味的なライフワークとなったのは、ネット右翼問題などを含む「戦後の保守政治の問題(あるいは、さらに広く、日本の近現代史)」であった。
端的に言えば、ネット右翼が大嫌いで、ネット上でケンカを繰り返しながら、泥縄式にその背後にある、日本の歴史と思想を勉強することになったのである。

そのようなわけで、今回、書店で本書のタイトル『日蓮主義とはなんだったのか』を目にした時、「これだ、この本が、これまで私に抜け落ちていた重要な知識を与えてくれるはずだ」と直観できた。私が個人的に興味を持って研究している二つのテーマ「宗教」と「日本の近現代史」にまたがる問題を、理想的なかたちで語ってくれる本だと確信できたのである。
そして、その期待は十二分に満たされた。

「あとがき」で著者が『本書は、前著(※ 博士論文を元にした、2001年刊行の第一著作『近代日本の日蓮主義運動』)とその後の研究をベースに書き下ろした作品であり、私の四半世紀を超える日蓮主義研究の中間決算というべき成果である。』(P664)と書いているとおり、本書は、著者のこれまでの研究を凝縮的に詰込んだ、渾身の1冊である。
670ページにもおよぶその分厚さに、怖じ気づく人もいるかも知れないが、その内容の豊富さと質の高さからすれば、分厚すぎるということはなく、むしろ味読すべき作品に仕上がっている。

しかしながら、「日蓮主義」という、かなりマニアックなテーマに興味を持つ読者は、とうぜん限られていよう。本書を手にするのは、同系統の研究者か、日蓮宗関係のごく一部の人だろう。だが、それではあまりにももったいない。
本書は、篤実な研究者が、丹念な研究を積み上げた結果の、きわめて優れた思想史研究書なのだから、宗教、歴史、思想の研究者なら、もれなく迷わずに、本書を手にして欲しい。

そしてさらに、本気で自身の信仰を理解したいと思っている「創価学会員」は、是非とも本書を読むべきである。
本書には、創価学会が、それまで「前史」として、ぼかしてきた「創価学会」の出自が、日本の近代史の中で、公正に解き明かされている。

・戦後昭和前期の創価学会員には、「四箇格言」を振りかざしての「折伏」による布教こそが、その「地湧の菩薩」としての使命だとされていたのに、なぜ、今では「折伏」ということを言わなくなったのか?
・戸田第2代会長の語った「国立戒壇」の建立という目標と、池田第3代会長の「世界平和」という目標は、どういう関係になるのか? またを「国立戒壇」建立という大目的が、いつの間にやら語られなくなったのは、なぜなのか?
・そして、反権力的で庶民的なはずの日蓮が、どうして先の大戦時には、国粋主義者や軍国主義者あるいはテロリストによって信奉されたりしたのか?
一一そうした疑問に、本書は答えてくれるはずである。

そして、本書を通読して、私が確認できたのは、キリスト教研究を通して知ったのと同様の「人間の歴史的真理」であった。

それは「宗教的真理とは、アプリオリに存在するものではなく、人間が歴史的に作り上げてきたものでしかなく、決して不変の真理などではない」のだということ。
そして、理の当然として、天皇も「歴史上の一人間(ホモ・サピエンス)」であり、日蓮もまた同様に「歴史上の一人間(ホモ・サピエンス)」でしかなかったという、凡庸かつ冷厳な事実である。

初出:2019年9月4日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)

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