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〈意志薄弱〉の果てに : 佐々木閑 の仏教

書評:佐々木閑の4冊

・『別冊NHK 100分de名著 集中講義 大乗仏教 ブッダの教えは変容した』(NHK出版)
・『出家的人生のすすめ』(集英社新書)
・『宗教は現代人を救えるか』(小原克博との共著、平凡社新書)
・『ゴータマは、いかにしてブッダになったのか』(NHK出版新書)

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おしなべて「宗教」というものは、「唯一絶対の真理を語るもの」であるという大前提に立っている。だから、信仰者やその教派の認識とは、基本的には「わが教派が、唯一絶対の真理を語っている。おのずと、他の教派の語るものは、不完全なものであるか、間違っている」ということになる。

しかし、現代社会においては、こういう率直な物言いは難しい。俗人(一般人)の奉ずる「平等主義」が「宗教」に対しても安易に適用される結果、こういう率直な言い方をすると、「独善的」「狂信的」「鼻持ちならない上から目線」などと嫌われてしまい、世間からそっぽを向かれてしまうからだ。
だが、それでは「布教」ができない。自分たちが護持している「救済のための、真の信仰」を人々に教えることが出来ない。つまり「民衆救済の使命」を果たすことが出来ない。ならば、どうするのか。

「嘘も方便」である。「本音と建前」を使い分け、本音では「わが信仰こそ唯一絶対。他の宗教は間違い」だと思っていても、口では建前として「それもいいですね。それぞれに長所と短所があって、それぞれの角度から真理に迫っていると言えるでしょう」なんて、気持ち悪いくらい物分りの良い言い方をするのだ。この方が「俗受け」するからである。

だが、無論こんな建前など、実際には「嘘」でしかない。だから、こうした言い方がいかに「耳ざわり」がよかろうと、それを「真理」だなどと考えるのは、大間違いだ。そんなものを真に受けるのは、端的に言って、愚かである。
そもそも、真理についての無知ゆえに「迷妄の闇」に囚われているはずの、無信仰の一般大衆(俗人)が、どうして「深遠な真理」を、正しく判断して選択することなど出来ようか。それができるほどの「真の叡智」の持ち主(覚者=ブッダ)なら、もとより「信仰的真理や叡智」など、必要ないのである。

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だが、そんなことにも気づかないほど「無知ゆえの迷妄の闇に囚われている、無信仰の一般大衆」が、「宗教」というもののごく一部をかじっただけで、「この宗教が正しい。あっちは間違っている」などと評価してしまうとは、まさに「群盲」の所業ではないか。
「あなたたちは、いろんな宗教教派の教理を読み比べてみて、そう判断したのか」と問うてみればいい。そんな人など、一人も見つからないだろう。

そもそも、各宗教宗派の信仰者自身、いろんな宗教の教義教理を調べ検討した上で、自身の信仰を選んだわけではないし、「この信仰が正しい」などと言っているわけではない。また、専門家を名乗る「宗教学者」だって、すべての宗教宗派を研究しているわけではない。まして、自身が「信仰者であり、かつ宗教学者」である人の言うことなどに、「客観性」を見るのは、あまりにも愚かであろう(つまり、自党派への依怙贔屓があると考えるべき)。
しかし、「宗教」に対する一般的な認識とは、その程度のもの(不用意な軽信)であるからこそ、おそらくは、人類が滅ぶまで「宗教という自己慰撫的な幻想」は生き続けるのであろう。

もちろん、佐々木閑という「浄土真宗僧侶にして、宗教学者」の語る「釈迦の仏教」などというものも、ご都合主義的にでっち上げられた「フィクション」に過ぎない。
そもそも、釈迦の「悟り」がどのようなものであったのか、そんな記録などどこにも残っていないのだ。残っているのは、「人間」釈迦(ゴータマ・シッダールタ)の表面に現れた「言行録」に過ぎず、あとは、それに続く「人間」たちの「解釈」に過ぎない。言うまでもなく、「悟り」とは、「文献解釈」で得られるようなものではないのである。

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まず最初に言っておくと、私は「唯物論者」であり「無神論者」である。「神や仏」の存在など、かけらも信じてはいない。それと同時に、「悟り」などという「特権的な認識論的境地」も信じていない。それは、個々が「悟った・つもり」になっただけ、としか考えていない。特殊な運動や訓練あるいは薬などによって、脳内物質が過剰分泌(あるいは、異常抑制)された結果、脳内に発生した、きわめて珍しい「科学的変化による快楽」を「悟り」だと思った、に過ぎないと考える。

「釈迦が悟った」とか「キリストは神だ」とか言っても、彼らの「内面」を、他者が正しく知ることなどできないし、出来ないことを出来たと思うのは「願望充足的な幻想」に過ぎない。つまりは「気持ちの良い、誤認」でしかないのだが、それで幸せになれる人が大勢いるということ自体は、否定できない事実である。それが「宗教」なのだ。

したがって、私は「宗教」を、「気持ち」や「考え方」の問題とするものなら、認めることもできる。「釈迦の教えとは、過剰な欲を捨て、執着を捨てる努力をするところにこそ幸せが存する、ということだ」とか「イエスは、超越的な神の化身などではなく、優れた人間であり、人生の教師である」という考え方なら是認できるし、支持することも推奨することもできる。

だから「大乗仏教」についても、「すべての人を救えという、博愛の教え」だということでなら支持できるし、素晴らしいと思う。
逆に、そうした「宗教の思想哲学化」を否定するような、「宗教の特権化」を要求するような考え方には、「宗教」独特の「独善性」や「狂信性」を見ずにはいられない。

私が、佐々木閑の『別冊NHK 100分de名著 集中講義 大乗仏教 ブッダの教えは変容した』の「ブッダの教えは変容した」という言葉に引っ掛かったのも、そういうことからである。
明らかにこの言葉は「大乗仏教は、ブッダのオリジナルの教えではなく、改変された偽物ですよ」という批判としか解し得ないものであり、要はそこに「他教派批判」としての「私だけが、オリジナル(真理)を知っている」という、宗教的な「独善的誤認」を見たのである。

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『別冊NHK 100分de名著 集中講義 大乗仏教 ブッダの教えは変容した』(以下『大乗仏教 ブッダの教えは変容した』と略記)を読めば、すぐに気づくことだが、これは非常に「奇妙」な本である。
この本で語られているのは、タイトルにあるとおり「大乗仏教とは、釈迦の教えから大きく変容してしまった、ほとんど別物の宗教ですよ」というものである。しかし「奇妙」な点は、そんな「釈迦の教えを騙る、偽物仏教である大乗仏教」について、著者は「それもありだ」と繰り返して、擁護是認してみせるところである。

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「オリジナルの釈迦の教え」がわかっているのであれば、「偽物」をわざわざ是認する必要はない。これは理の当然である。ならば、日蓮のように「その教えは間違いであり謗法だから、その信仰を捨てて、わが信仰を持ちなさい」と言う方が、よほど理に適って、筋が通っている。

ところが、『大乗仏教 ブッダの教えは変容した』で、著者の佐々木閑は「大乗仏教は、釈迦の教えとは違いますが、それで救われる人もいるのだから、それはそれでいいではないですか」という立場なのだ。
だが、これはいかにも「胡散くさい、物分かりの良さ」だ。佐々木は「間違った宗教」で、人生をあやまる人の存在を知らないのだろうか。無論、そんなことはあるまい。
ならばなぜ、佐々木は、こんな「見えすいた嘘」をつくのだろうか。

単に、臆面もない厚顔無恥な「嘘つき」だからなのだろうか。いや、そんなことはないだろう。本物の嘘つきなら、もっと上手に嘘をつくはずで、佐々木の「嘘」は、あまりにも見え透いており、その意味で、十分に自覚的な嘘だとは思えないのである。

一一そこで私は、佐々木閑の著書を何冊か読んで、そのあたりの謎の解明を試みた。
私が、読んだのは次の4冊で、この順に読んだのである。

 (1)『別冊NHK 100分de名著 集中講義 大乗仏教 ブッダの教えは変容した』(2017/2/25刊)
 (2)『出家的人生のすすめ』(2017/2/25刊)
 (3)『宗教は現代人を救えるか』(小原克博との共著、2020/4/17刊)
 (4)『ゴータマは、いかにしてブッダになったのか』(2013/2/7刊)

4冊も読めば、ほぼ「謎」は解けた。

「なぜ佐々木閑は、大乗仏教を、釈迦の教えに忠実ではない偽物仏教だとしながらも、それもありだと肯定是認するのか?」という「謎」だが、その解答は、当人の自己申告である「それで救われる人もいるのだったら、それでいいじゃない」というような「いい加減で無責任な考え」に発するものでは、なかった。

彼が「大乗仏教」を真っ正直に批判否定できないのは、彼の場合、理論的には「大乗仏教は、偽仏教」だと確信しながらも、実生活においては「大乗仏教に、食わせてもらっているから」なのである。

佐々木閑は、浄土真宗の寺の長男として生まれ、長じて「仏教学者」となり「大乗仏教は、偽仏教」だという確信を持った後になっても、その寺を世襲して、今も住職を務めている。言うまでもなく、浄土真宗は「大乗仏教」であり、彼の理論からすれば「偽仏教」なのだが、彼は、一方で「浄土真宗を含む大乗仏教は、偽仏教だ」と言いながら、一方では「阿弥陀如来の救い」を門徒たちの前で説いているのである。
これは、絵に描いたような「ダブル・スタンダード」であり「偽善」であり「嘘つき」であり、それでお布施などをもらっているのだとしたら、いっそ「詐欺」と呼んでも良いことなのではないだろうか。

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それだけではない。彼は、禅宗系の大学である「花園大学」で宗教学を講ずる、大学教授である。言うまでもなく、彼の理論からすれば「禅宗もまた大乗仏教であり、偽仏教」であり、彼はその大学で「禅宗もまた大乗仏教であり、偽仏教」であると説きながら、しかし「禅宗は、大乗仏教の中では、比較的マシな方」だとか「それで救われる人もいるのだから、それもありだ」などと説いてもいるのだ。

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要は、彼は「大乗仏教」を「釈迦によるオリジナル仏教とは似ても似つかない、偽仏教」だとしながらも、実生活においては、浄土真宗や禅宗に依存し、それに食わせてもらっているのである。
だから、彼の立場としては「それで救われる人がいるのならば、それも良いではないか」という言い方しかしようがないのだ。自身の「ダブル・スタンダード」で「不誠実な生き方」を容認するためには、「それで救われる人もいるのならば、それも良いではないか」と言うしかないから、「自己正当化」のために、嫌々そう言っているだけなのだ。

しかし、そんな佐々木閑が『大乗仏教 ブッダの教えは変容した』などの自著の中で、自分は「釈迦の本来の教え」に生きている「釈迦教徒」だと主張している。つまり「大乗仏教徒」ではない、と主張している。これはどういうことなのか?

何のことはない。「心では、釈迦の教えが唯一だと思っているが、実生活ではそれが実践できておらず、方便として大乗仏教を利用している」という「自己弁護的自己正当化」でしかないのだ。

では、肝心な、佐々木閑の言うところの「釈迦の本来の教え」とは、いったいどのようなものなのか。
それは「釈迦の教えにしたがった生活をおくるための集団であるサンガに入って、その生活律法たる〈律〉を守りながら、もっぱら、悟りを得るための修行生活に専念すること」だ、ということになる。
だが、ここには、明らかな「論理矛盾」がある。

というのも、ここで語られているのは、「悟りを得るための、方法論」であって「悟りとは何かという、本質論」ではないからだ。
「方法論」は示されていても、肝心の「目指すべきもの」が示されていない。「この道を行けば、救われますよ」とは言っているが、そもそも「救い」とはどういうものなのかが、まったく示されていないのである。

一一つまり、佐々木閑の言う「釈迦の本来の教え」とは、底が抜けている、のである。

肝心な「釈迦の本来の教え」自体は、まったく語られることがなく、ただ「律を守って、もっぱら悟りを目指して修行する、サンガの生活は素晴らしい」と繰り返すばかり。
だが、言うまでもなく、これも「嘘」である。

と言うのも、仮に、彼自身「釈迦の本来の教え」がわかっておらずとも、ただ「サンガの生活をすることだけが、釈迦本来の教えにいたる道だ」と確信しているのならば、彼は、やましさを抱えながら「真言宗寺院の住職」を務めたり、さらに「禅宗系大学の教授」を務めたりなどせず、さっさと「サンガ」に入れば良いだけだからである。

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しかし、彼はそれをしない。
もちろん、今の日本には「サンガ」は存在しない。なぜなら「サンガ」というのは、自分の生活を支えるための仕事、つまり糊口をしのぐための仕事を一切せず、そこはもっぱら他者(在家信者)からの「お布施」に頼って、ひたすら修行に専心するものと、「律」で決まっているからだ。
「サンガ」における「出家僧侶」というものは、修行実践の専門家であらねばならず、キリスト教の修道院のように、自分たちの食い扶持として田畑で作物を作ることさえ、してはならないのである。だが、そんな「サンガ」の生活は、今の日本社会では成り立たない。出家の全生活の面倒を見てくれるような在家信者など、実質的に、存在しないからである。

だが、日本の現状がそうであるならば、佐々木閑は、そうした習慣が今も生きている、憧れの小乗仏教国(スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなど)へ移住して、そこで出家すればいいだけの話である。
実際、ミステリ小説家であった笹倉明は、業深き浮沈の人生の果てに、2005年にタイへ移住し、2016年にはチェンマイのパンオン寺で出家を果たした。めでたく、出家僧プラ・アキラ・アマローとして生まれ変わったのである(『出家への道 苦の果てに出逢ったタイ仏教』、2019刊)。

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だから、本気で「釈迦の本来の教え」を知っているつもりなのなら、生家である寺院を捨て、大学教授という職業も捨てて、タイへでも移住をして出家すればいいのだ。
実際、釈迦だって、すべてを捨てて出家したから「悟り」を得ることができたという話なのだから、それを信じていると主張する佐々木閑は、当然、それに倣わなければならないし、倣えないはずがないのである。
一一なのに、それができないのは何故か?

それは無論、佐々木閑の言う「釈迦本来の教え」だとか「釈迦の悟り」といったものが、所詮は「願望充足的虚妄」あるいは「願望充足的フィクション」でしかないということを、佐々木自身が知っているからである。だから、今の「安定した生活」を捨ててまで、出家にすべてを賭けることなど出来ないのだ。
だからこそ「大乗仏教は、釈迦の本来の教えとは似ても似つかない偽仏教ではあるが、それで救われる人もいるのであれば、それもありなのではないか」などという、素人じみたデタラメを口にして、自身の「覚悟のない信仰」を正当化しなければならなかったのである。

したがって、結論として言うならば、こんな佐々木閑の語る「仏教」あるいは「釈迦本来の仏教」とやらを真に受けるのは、大いに愚かなことであろう。
まともに日本語の読める人ならば、佐々木閑が説くところの「明らな矛盾」に気づくはずだし、そこに気づけば、その点に疑問を持って、佐々木の「論」を鵜呑みになどできないはずだからである。

しかしながら、この程度の「破綻した妄説」を安直に信じられる人が大勢いるからこそ、宗教は、人類が滅ぶまで延々と延命し続け、それを信じて幸せになったり、不幸せになったりする人が、引きも切らせず生まれてくるのである。
そしてこれは、「人間」というものの「知的な不完全性」からすれば、やむを得ないことなのだ。

だが「一般論としてはそうかもしれないが、私個人は、そのレベルに止まるものではない」という自負がある人なら、もう少し、ちゃんと本を読み、疑うべきところは疑い、疑問点の解明を試みることくらいはすべきであろう。
そうした作業に一生を賭けろとは言わないが、例えば、佐々木閑の「おかしな仏教論」の「謎(疑問点)」を解明するくらいのことなら、佐々木の著作を数冊読むだけでも可能で、1ヶ月もかからないことなのだから、決して無理な話ではないのである。

それが誤った信仰だと気づいていながら、その信仰にしがみついている自分を正当化するというのは、佐々木閑が「生家である寺院の住職」という地位、「大学教授」という地位にしがみついて、持論である「サンガに入っての修行生活専心」ができないのと同様の、意志薄弱な「自己欺瞞」であり「他者欺瞞」の「嘘」だと言えるだろう。それは、社会に「害悪」を垂れ流すものですらあって、決して個人的な問題では済まされないのである。

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以上は、佐々木閑の著作を読む上で、基本的に押さえておくべき「佐々木閑」論である。

以下では、私が読んだ、佐々木閑の著作4冊について、それぞれ簡単にコメントを付しておきたい。

(1)『別冊NHK 100分de名著 集中講義 大乗仏教 ブッダの教えは変容した』(2017/2/25刊)

私のような仏教初心者が、「大乗仏教」の大きな流れについて知るには、大変便利な本ではある。
ただし、本書は「小乗仏教=上座部仏教」の立場から書かれた、一面的な「大乗仏教」論であり、当然のことながら「大乗仏教」を否定的に語るための本だということを前提にして、眉に唾して読むべき本だとも言えよう。

(2)『出家的人生のすすめ』(2017/2/25刊)

「釈迦の教えにしたがった生活をおくるための集団であるサンガに入って、その生活律法たる〈律〉を守りながら、もっぱら、悟りを得るための修行の生活をすること」こそが「真の釈迦仏教」であるという、著者の個人的な「理想」を、社会一般にも通じるものとして、正当化しようとした著作である。
佐々木閑には『ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出』(角川新書、2018/8/10刊)という著書もあり、本書でも、その問題に触れている部分があるが、その論調が少々「病的なまでに被害妄想的」である。全然わからない話ではないものの、この病的なまでの「インターネットに対する、怖れや憎悪」は、佐々木個人のネットでの被害体験によるものではないかとさえ疑われる。
と言うのも、前述のとおり、佐々木の信仰には「明らかな矛盾」があるので、それを批判する人も決して少なくはないだろうし、そのことについては佐々木自身、内心に「やましさ」を抱えているだろうからこそ、余計にその批判が堪える、という部分もあるはずだからだ。
佐々木閑という人は、ある意味では「正直な人」であり、だからこそ「無理な言い訳」を表明しなければならないという、繊弱さを持っている。決して図太くはなく、鉄面皮ではいられない人なのだ。だからこそ、ネットというのは「傷口に指を突っ込んでこね回すようなメディアだ」と、その負の面を強く感じてしまうのではないだろうか。

(3)『宗教は現代人を救えるか』(小原克博との共著、2020/4/17刊)

プロテスタントの牧師である、小原克博との対談本。
小原は『地域における住民運動にも関与しており、滋賀県の旧志賀町における広域廃棄物処理施設建設計画に反対する住民運動組織「志賀町産廃施設計画問題・住民ネットワーク」(現在の「しが廃棄物問題住民ネットワーク」)が2002年に結成された際にはその代表となり、2003年に施設反対の立場から山岡としまろが町長選挙に出馬した際には後援会長を務めた。』(Wikipedia)という、活動的な牧師であり、「サンガに入って、もっぱら修行をするのが正しい釈迦仏教」だと主張する「ひきこもり願望」のある佐々木閑とは、ある意味で「対極的な信仰観」を立ったキリスト者である。
本書を読んですぐに気づくのは、小原の「したたかさ」であろう。小原は、事前に、佐々木の著作に止まらず、浄土真宗がらみのかなり専門的な本も読み込んでいて、仏教についての予備知識をしっかりと持った上で、この対談に臨んでいるのだ。ところが、佐々木の方は、そうではない。キリスト教に関する通り一遍の知識しか持たないまま、この対談に当たっている。
年齢的には、佐々木の方が九つほど年長なので、この対談でも、基本的には、小原が質問し佐々木がそれに答え、その答えを受けて小原が議論を膨らませるという、佐々木を「年長者として立てた」形式で進行していく。だが、小原の方が、本音では佐々木の信仰のあり方に疑問を持っているのは、読む人が読めば明らかであろう。
小原は、佐々木の持論について、しきりに「~と考えてよいのでしょうか(と受け取ってよいのでしょうか)」という「確認」の言葉を繰り返しているが、これはそこに「疑問」を覚えていたからであり、この対談を成功させるためには、そうした「疑問」点を、肯定的にクリアしなければならなかったからである。
つまり、小原は初めから、佐々木の信仰に問題のあることを見抜いている。言い換えれば、信仰的には優位に立っているという認識に立ち、その「余裕」を持って、佐々木仏教の「良いところ」に光を当てて、この対談を「優劣討論」ではなく、傍目にも「実りのあるもの」にしようと努めたのである。一一私は、小原のこういう姿勢を、さすがは社会性のある「運動家」であり、「したたか」だと思わざるを得なかったのだ。
だが、「信仰者」としては、自身を律しきれない「弱さ」と「矛盾」のある佐々木閑の方が、まだしも「救いがある」ように思える。なぜなら、無神論者の私にとって、小原の信仰的確信の強さは、そのまま「迷妄の深さ」に他ならないからだ。在りもしないものを、深く確信するというのは、それほど「病膏肓」ということにしかならないからである。

(4)『ゴータマは、いかにしてブッダになったのか』(2013/2/7刊)

佐々木閑の「仏教研究者」としての成果を語った部分が、いろんな意味で面白い。
単純に「仏教の歴史」に関する説明がわかりやすくて、勉強になり面白かったのと、佐々木がなぜ、生家の宗派である浄土真宗を否定するような「サンガの出家仏教=小乗仏教=上座部仏教」の研究にのめり込んだのかが、何となく感じられて、とても興味深かったのだ。
佐々木は、もともと「科学」に惹かれた「京都大学工学部工業化学科卒」の人であった。つまり、もともと「阿弥陀様の救いで、極楽浄土へ行く」などという「生家の信仰=浄土真宗」の信仰教義など、真に受けることのできなかった人なのである。しかし彼は「寺の長男」として生まれたために、いやでも「寺を世襲」せざるを得ず、科学者の道を進むことなどできなかったので、止むを得ず「仏教研究」の道に入り、「本来の仏教とは何か」を学ぶことで、「生家の宗派」を乗り越えようとしたのであろう。
しかし、結局のところ、彼は「弱かった」。「大乗仏教である浄土真宗が、釈迦本来の仏教ではなく、偽物」だと知っても、すべてを捨てて、自分の信じる「釈迦本来の仏教」に身を投じることができなかった。彼は「ぬるま湯の世俗生活」を選んだのである。
彼の「信仰」とは、結局のところ「学問」の中にしか存在し得ないものとなってしまった。だから、彼の著作は、初期のものほど、比較的「活き活き」しているが、後に行くほど「翳り」を帯びてくる。徐々にその「自己欺瞞」を自覚し始めたからである。
そして彼はついに、『犀の角たち』(大蔵出版、2006年刊)のようには、生きられなかった。
「犀の角」とは、『犀の角のようにただ独り歩め。』という 『スッタニパータ』(『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 17頁)から採られた言葉であり、それは「信じるところにしたがって、一人であっても、悠々として真っ直ぐに歩むゆく人生」の「象徴」だったのである。


初出:2021年2月1日「Amazonレビュー」
  (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年2月18日「アレクセイの花園」

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