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赤坂真理 『東京プリズン』 : 「TENNOU霊」という 〈危険なレトリック〉

書評:赤坂真理『東京プリズン』(河出文庫)

私はなぜ、今このような人間なのか。私たち日本人はなぜ、このような国民性を持っているのか。

一一「普通」の人たちは、こんなことを問うたりはしない。
なぜならば、今このように在ることが「普通」であり「自然」であり「基準点」だからだ。「普通」に生活しているかぎり、私たちは「今ここ」を疑うことなどできない。

だが、私たちは読書を通して、私たちの「普通の生活」とは、「縁も所縁もないもの」と思えるものに接して、自身の「今ここ」であり「普通」が、絶対的なものでも、一般的な「基準点」でもないことを知る。

読書だけではない。例えば、外国人や異文化の人たちと接することでも、私たちは、私たちの「普通」や「当たり前」が、決して一般性を持つ、どこでもいつでも通用するものではないと知ることになる。

一一そして、「私はなぜ、今このような場所で、このような生活をしているのか。はたして、私はなぜ、いまこのような人間なのか」と問うことになるのである。
そして、そこから「世界」が開かれ、足下で「歴史」が蠢動しはじめる。

本作は、先の大戦における「天皇の戦争責任」を問うことを契機として、私たちが何を忘却していたのかを、気づかせようとする作品である。

私たちは、「普通」に生活しているかぎり、私たちの今の生活が、先の敗戦の影響を受けているなどとは考えない。また、アメリカの歴史が、私たちの生活と関係があるとも思わない。
それはちょうど、北極の永久凍土が溶け出しているというニュースに接しても、「温暖化だね」「どうなるんだろう」と言って、すこし不安になったとしても、自分の子や孫がこのさき体験しなければならないだろう、リアルな生活を想像することは出来ない。核廃棄物の蓄積がまねく事態を、本気で考えたりはしない。それは「先の話」だからだ。
そうしたことはちょうど、近年毎年のように発生している自然災害によって、家族や家財を失った人たちが、呆然としながら「まさか、自分がこんなことになるなんて思わなかった」と語るのと同じことである。

実際のところ、私たちは、自分自身が痛い目に遭ってみなければ、その遠因となっている問題について、真剣に考えることはない。
たとえそれが、テレビニュースなどでくり返し報道されていても、警鐘を鳴らされていることであっても、「困ったもんだなあ」「怖いなあ」「どうなるんだろう」「政府が良くないよ」「みんな問題意識が無さすぎるよ」などと言ってみても、我が事として実感することはなく、それに本気で備えようとはしないだろう。

それと同様で、先の「日本の戦争」や「天皇の戦争責任」や「戦後の国際社会を睨んだ東西大国の思惑」といった「遠い」問題について、我が身や、子や孫に、直接関係する問題だとは考えないだろう。
じっさい「私たちのような一般庶民が考えてどうなる?」という気持ちもあるし、「いや、それでも私たち個々には、歴史を受け継ぐ者としての責任がある」と言っても、やはり、こんな「遠くて大きい」問題を考えるのは、とてつもなく面倒でしんどいことなのだから、できればそんなことは考えたくないし、また考えなくても、特に不都合もなく生きていけるのである。

だから、私たちは、「日本の戦争」や「天皇の戦争責任」といった問題について、真剣に考えては来なかった。それは所詮「他人事」なのだから、せいぜい少しは知識があって、コメントの一つもすれば、それで「義理は果たした」と思えるのである。

そして、そうしたことの積み重ねが、今のこの「情けない痴呆国家・日本」であり「日本人」なのだ。

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本作もまた、私たちに「考える契機」を与えてくれるし、それは私たちの負うべき「責任」であったことにも気づかせてくれる。その意味では、本書は多くの人々に気づきを与えてくれる、優れた作品であると言えるだろう。
決して、高所大所からそれを教えてくれるのではない。一人の少女の「違和感」から始まるこの物語は、決して「上から目線」ではないからこそ、私たちにも共感しやすいものとなっている。

ただし「共感のし易さ」というのは、小説作品においては確実に「美徳」ではあれ、同時に「諸刃の剣」でもあろう。
つまりそれは、大西巨人言うところの「俗情との結託」にもなりかねない。「理解」してもらうための「妥協」や「誤摩化し」が、そこに入りこむ怖れがあるのだ。

私が本作において引っかかったのは、「TENNOU霊」なる「小道具」だ。

本書のクライマックスに登場し、主人公の口を借りて語る「TENNOU霊」の言葉に、多くの読者は感動し、現実に存在した昭和天皇が、このようなものであったなら、と感じたことであろう。

もちろん、著者は「TENNOU霊」を、単なる「天皇の理想像」としてではなく、「私たちすべての、あるべき姿」として描いており、宗教的な意味を込めているわけではないだろう。
しかし、その一方で、私たちは「誰もが物語を必要としている」とし、物語なしには生きられない、と論じているのだが、そこにこの「TENNOU霊」というスピリチュアルなイメージの入りこむ怖れがあり、それによって、歴史的な誤りの「同じ轍を踏む」怖れもあるのだ。たとえ「フィクション」であっても、危険なのである。

本作でも語られているとおり、私たちが求めるべき物語は「個々の物語」であるべきで、一つの「特権的な物語」であってはならない。それこそが危険なのである。
だから「TENNOU霊」といった、日本人に受け入れやすいフィションは危険なのだ。多くの人はそれを、自分で鍛え上げ、汲みだすべき「心」だとは考えず、安直に「依存対象としての権威」へと変造してしまうからである。

私たちが生きるために必要な「物語(フィクション)」とは、「絶対的権威を有する他者」であってはならず、私たち個々にとって権威のある(他者にとっては、さほど権威的ではない)「私の一部」であるべきだろう。

それは例えば、「人に優しく」とか「フェアであること」とか「恥を知る」といった「信念」や「思想」といったものでもいいし、それが抽象的で物足りないという向きには「仮面ライダーのようでありたい」とか「プリキュアのようでありたい」でもかまわない。
一一これを「子供っぽい」と内心で嗤う人は少なくないはずだ(一方、「TENNOU霊」は、子供っぽくなく、外聞が良い)が、そうした人は、知らないうちに自分が、そうした「子供向け作品」で描かれるところの「悪役」に似た「大人」になっていることに気づいていないはずだ。「現実はそんなに甘くはないよ」「それはキレイゴトだよ」「結局、人は、他者を食い物にし、犠牲にすることで生きているのだ」などと、賢しらに考えてはいないだろうか。

私たちは弱い。一人で立つこと、世間の流れに抗って立つことは、言うまでもなく、容易なことではない。
その時に、おびえるわが心を励ましてくれるのが、こうした「物語」である。
だから人は、神仏を作り、「神話」や「宗教」を作り、「イデオロギー」を作り、「カリスマ」に依存してきた。できるだけ多くの人の信じる「権威」の方が安心できるから、多くの人はそうした「物語」の下に結集して、安心して「悪逆非道」にも手を染めてきたのである。

だから私たちに必要なのは、「私」個人を支えてくれる「物語」であって、私を都合よく正当化してくれる「権威」ではない。そうであってはならない。
一一そのように考えた時に、スピリチュアルな臭いを濃厚に漂わせて、日本人好みな「TENNOU霊」というフィクションは、たとえ小説の中であろうとも、危険なのである。

本作は、フィクションの力を発すると同時に、フィクションの危険性をも発しているという点に、充分留意すべきであろう。

初出:2020年11月20日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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