見出し画像

アラン・ベネット 『やんごとなき読者』 : 〈読書〉は、 娯楽か?

書評:アラン・ベネット『やんごとなき読者』(白水Uブックス)

「読書は、娯楽なのか?」という問いに対して、「娯楽である」とか「娯楽ではない」といった回答は、無意味である。なぜなら、「読書には、娯楽の側面もあるが、それがすべてではない」というのが、明らかな事実だからである。

「読書は、娯楽なのか?」という問いを示された時、多くの人は、その「読書」の対象として「小説」を思い浮かべるだろう。なぜなら「小説」には、「娯楽」提供の意図がハッキリと込められているからだ。

しかし「娯楽」と言っても、ピンからキリまであるのは言うまでもない。
つまり、私が言うところの「(娯楽でしかない)駄菓子のような小説」もあれば、読むのに苦労し、理解するのに苦労するけれども、そこに秘められたものを読み取れた時には、目の前でパーッと新しい世界が開けるような「文学作品」もある、ということだ。

そして、「読書」と言えば、何も「小説」だけを指すわけではなく、「哲学」「思想」「歴史」などの人文系、「物理学」「数学」「天文学」といった理数系など、各種の「学術書」や「専門書」がある。
これらは一般に、「娯楽」として読む本ではないけれども、しかし、好きな人なら、これらの本を「娯楽」としても読むし、事実「小説本などとは到底代えがたい魅力的な書物」として楽しむことができる。そして、そんな読者も、一定数は確実に存在する。

だが、「純文学」を含めた各種「専門書」と「娯楽書」との間には、確実に「違い」がある。それは、読者の側に、相応の「構え」や「能力」が求められるのか否か、だと言えるだろう。

駄菓子なら、誰でも、それなりに美味しく食べられるように作られているけれど、私などのように「舌の訓練」が出来ていない(子供舌の)人間には、その「(複雑微妙で深い)味がわからない」上質な料理というものも確実に在って、その事実は否定できないし、否定する必要もない。人間は万能ではないし、「能力差」というものは厳然として存在するからである。

「読書」でも「食道楽」でもそうだが、人間には「能力差」というものがある。
人間としての「権利」は「平等」でも、「能力」というのは「平等」ではないのだ。

もちろん、「能力」には「先天的なもの」と「後天的なもの」があって、人の努力とは、もっぱら「後天的なもの」についてということになるわけだが、いくら「先天的なもの」を持って生まれてきても、まったく努力しなければ「能力」は伸びず、結果として、何者にもなれない。

○ ○ ○

本作『やんごとなき読者』は、エリザベス女王が「読書にハマったら、こうなったかも」というお話である。

日本でもそうだが、世間の注目を浴びながら、しかし、どの方面にも角が立たない存在であることが求められる「ロイヤル・ファミリー」は、あまり「才気煥発」であったり「個性的」であったりしては、政府が困る。「個性的な人」「才気煥発な人」「自己主張をする人」を嫌う一般国民は、少なくないからだ。
ましてや、「思想」を持ったり「忌憚のない意見表明」などされては困る。こうした人たちは「すべての国民」から愛されるような、「無難な存在」でなければならないのだ。だからこそ、日本だと、天皇や皇位継承者が、大学まで行って研究しているのは、「草花」とか「古典文学」とかいった、「党派性」などないに等しい「無難な研究対象」になってしまう。そうせざるを得ないのである。

本作の中でのエリザベス女王も、当初はそういう「無趣味」な人であった。それは彼女が「女王」として、公務に専念しなければならない人だったからであり、それを宿命づけられた人間だったからである。

しかし、そんな彼女が、ひょんなことから「娯楽としての読書」にとり憑かれてしまう。そして、それまでの「単調で広がりのない生活」に疑問を持つようになる。

無論、だからと言って、女王を辞めてしまうわけにはいかないのだけれど、ただ公務を果たし、責任を果たすだけの生活の中で見てきた「世界」は、あまりにも広がりや深みの欠けたものであったことを、書物は彼女に教えてくれた。
実体験は貴重だが、あまりにも多くの制約がある。だが、読書による頭の中での体験は、自分という一個の人間の小さな枠を軽々と超えて、より広い世界を教えてくれる。そのことを、彼女は知ったのだ。

しかし、周囲は、そんな彼女の「変化」を喜ばない。自分たちの「政治的思惑」の中で無難に動いてくれる「女王様」であることを期待するからだが、一度、読書の喜びを知ってしまった彼女は、もはや元の「ロボット」に戻るわけにはいかなくなり、彼女なりの抵抗を始め、内面の自由を取り戻そうとする「普通の人間」へと、成長していく。

○ ○ ○

と言っても、本書は決して堅苦しい作品ではない。

むしろ、読書家の「あるある」が散りばめられており、クスクス笑いながら読める作品である。
例えば、それまでは(日本で言う)「園遊会」などで、そこに集まった「選ばれた人たち」に声をかけるのも「どちらから、いらしたの?」というのが、決まり文句だった。なぜなら、それは誰に対しても使えるし、いちばん無難な話題だからだ。
ところが、本にとり憑かれるようになった女王は、そんな「中身のない会話」が嫌になってきて、「今、どんな本を読んでらっしゃるの?」などと質問しては相手を困惑させたり、周囲の宮殿職員にも同様の質問をして、はかばかしい返事が返ってこないと、オススメ本を貸し与え、さらには数日後に「読んだ?」「どうだった?」などと質問しては、相手を困らせるなんてことを始めたのだ。

けれども、女王は馬鹿ではないから、やがて、そうしたことの無理や限界を理解して、そうしたことはしなくなる。
しかしその一方、彼女は単に「好きな作家の小説」を読むだけではなく、その小説家についての「評伝」や「作家論」も読み、それからそれへと読書の幅を広げ、読書家としての「能力」と「喜び」を深めていく。
最初は、かったるくて仕方がなく、読みながら、つい「さっさと先に進みなさいよ」などとつぶやいてしまった、ヘンリー・ジェイムス晩年の小説についても、その「味」を堪能できる「読み巧者」にまで成長していく。そして、そうした中で、「人間」に対する理解を深め、自立した人間として、成長していくのである。

『「今日は何のご用?」
 サー・クロードが用件を思い出そうとしているあいだに、女王は彼のコートの襟の下にふけが薄く積もり、ネクタイには卵のしみがつき、垂れた大きな耳の穴には垢が溜まっているのに気づいた。昔だったらこのような欠点には気づかなかったはずだが、なぜかいまは目に飛びこんできて、心が揺さぶられ、胸の痛みさえおぼえた。かわいそうに。第二次世界大戦中は激戦地のトブルクでも戦った人なのに。書いておかなければ。
「読書ですよ」
「何ですって」
「陛下は読書を始められたそうで」
「違うわ、サー・クロード。前から読んではいたの。ただ最近になって読む量が増えたのよ」
 いまや女王には彼が来た理由とそれを仕組んだ者の正体が見えてきた。彼女の半生に立ち会ってきたこの老人は、ひたすら気の毒な存在から彼女を迫害する側の一員になった。同情は吹き飛び、女王は落ちつきを取り戻した。
「本を読むのは何も悪いことではありません」
「それを聞いてほっとしたわ」
「やり過ぎが問題なんです。そうすると困ったことになる」
「読書を控えめにした方がいいということ?」
「陛下は実に模範的な生活を送ってこられました。たまたま読書がお気に召しただけでしょう。なんであれ同じように熱中すれば、顰蹙を買うことになったはずです」
「そうかもしれないわね。でも私はこれまで人の顰蹙を買うことなく生きてきたのよ。それはたいして自慢できることでもないような気が時々するの」』

(P117~119)

『「私はこれまでに大勢の国家元首に会い、さらには彼らをもてなしてきましたが、中にはとんでもないいかさま師や悪党もいて、夫人も似たようなものでした」少なくともこれには何人かが浮かぬ顔でうなずいた。
「白い手袋をはめた私の手を、血塗られた手に与えたこともあれば、みずから子どもたちを殺戮した男たちと礼儀正しく話を交わしたこともあります。私は汚物と血糊のなかをくぐりぬけてきました。女王に必要不可欠な装備は、腿まである長靴なのではないかとよく思ったものです。
「私はよく常識に富んでいると言われますけど、裏を返せば、それ以外のものはたいして持っていないということで、そのせいでしょうか、歴代の政府の要請に応じて、無分別な、往々にして恥ずべき決定に、消極的ながら関わらざるをえなかったのものです。時おり、自分が体制の香りづけのために、あるいは政策の臭いを飛ばすために送りこまれた香りつきの蝋燭のような気がしたものです一一近頃の君主制は政府支給の脱臭剤にすぎないのではないかしら。
「私は女王であり、イギリス連邦の元首ですが、この五十年のあいだには、そのことに誇りよりも恥を感じざるをえないような出来事が数多くありました。でも」
一一と言って立ち上がる一一「優先順位を忘れてはいけないわね。なにしろ今日はパーティーですから、話を続ける前にまずシャンパンを飲みましょうか。』

(P147〜148)

女王は「読書」を通して「私には声がない」(P127)ということに気づいた。

無論、それまでも、彼女には彼女なりの考えがあり、女王論があって、彼女なりに女王の務めを立派に果たし、その中で必要な「声」を発してきた。しかし、その「声」は、彼女の声ではなかった。

彼女は「読書」を通して、いかにそれまでの自分が、何も知らず、何も考えていなかった、空っぽな人間であったかに気付かされたのだ。彼女は、空っぽだからこそ、無理なく「役割としての女王」の「声」を、台本に書かれたセリフのように発してこれたのだ。そして、それを自分の声だと思い違えていたのである。

どうして、多くの人の「声」は、「紋切り型(ありきたり)」であり「無難」なのだろうか。
エリザベス女王の場合は、女王というその「特別な立場」のせいであったと言えようが、しかし、そんな重大な「しばり」など与えられていないはずの「一般大衆」の声だって、実に「紋切り型」に「無難」で「似たり寄ったりの正論」を出るものではないのは、どうしたことか。

ことに、右見て左見て、空気を読んで、それに感染してから、やっと自信を得て発言するといった気味のある日本人(マスクが「顔パンツ」にすらなりかけている日本人)は、それが顕著なのではないだろうか。

例えば、アメリカ人やフランス人のように「俺は俺」「みんながどう言おうと、俺はこう考える」と平気で自己主張することが、なぜ日本人にはできないのだろうか。

また、そんな日本の国民性だからこそ、現在ベストセラーとなっている、鈴木忠平の『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』で描かれた落合博満は、その「オレ流」ゆえに、多くの国民から嫌われたのではなかったか。
同様、戦時中に「戦争反対」「人殺しはしない」と主張した者は、「赤」だ「非国民」だと排斥されたのではなかったか。袋叩きにされ、村八分にされたのではなかったか。

本作の中で女王は、「読書」を通して「自身を耕し、自分を成長させる」ことで「自分の声」を、初めて手にした。これこそが、「単なる娯楽」ではない、「読書」の効用である。

この作品を「読書小説」として「楽しく読む」だけでは、十分な「読書」ではない。
本作には、「痛み」を伴いながらも、しかし「人を開かせる」力が秘められている。一一そこまで読んでこそ、この作品を「読んだ」と言えるだろう。
だが、そんな読者は、決して多くはないはずである。

イエス・キリストは言った。

『求めよ、さらば与えられん。 尋ねよ、さらば見出さん。 門を叩け、さらば開かれん。 すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。』

(マタイによる福音書)

一一しかし、人々は、すぐに「娯楽」の中に眠り込んでしまうのである。

(ゲッセマネの祈り)

(2021年12月16日)

○ ○ ○




 ○ ○ ○



















 ○ ○ ○











 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

#読書感想文

189,937件