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亀井士郎、松永寿人『強迫症を治す 不安とこだわりからの解放』 : 〈強迫症〉を学ぶことは、己を知ること。

書評:亀井士郎、松永寿人『強迫症を治す 不安とこだわりからの解放』(幻冬舎新書)

抜群に面白く、ある意味では「万人向け」の本なので、是非とも多くの人に読んでほしい。

さて、「強迫症」というのは、読んで字のごとく「嫌でもしないではいられなくなる精神の病」である。
よくあるのが「徹底的に手を洗わないと気が済まない」とか「鍵を掛けたかどうか心配になって、何度も確認する」とか「物事が、決められた位置にきちんと収まっていないと気が済まず、徹底的に整えてしまう」とかいったことだ。

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こうしたことは、誰しも多少はあることなのだが、こうした傾向が亢進して「生活に支障をきたす」ほどになると「病気」ということになる。また、そこまでいくと、本人に自覚はなくとも、周囲から見れば「あの人の行動はおかしい」ということになる。

こうした「心の病い」は、判断主体である「心」自体が病んでいるのだから、なかなか本人は気づきにくい。
また、軽ければ、それは「性格」や「癖」の範疇なので、はっきりと「異常」のレベルに達しないかぎり、周囲もなかなか気づかない。また、本人が半ば気づいていても、逆にそれを隠そうとするから、いっそう周囲にも気づかれにくくなる。
つまり、本人が隠そうとしても隠しきれないほどの、酷い状態にならないかぎり、本人も周囲も、それが「治療」を必要とする「病気である」とは認識しにくいのである。

本書のユニークな点は、もともと精神科医だった亀井士郎が強迫症を患い、「強迫症」の専門医である松永寿人にかかって治癒した結果、自身の「経験」から得たもの(理論)を、当事者であり医師として本にした点だ。

もちろん、「強迫症」の理論書なら、これまでもそれなりに書かれてきたし、本書の共著者である松永自身が日本を代表する「強迫症」の専門医なのだから、それなりに論文や専門書も書いてきた。
だが、それらはあくまでも専門書であって、読むのは専門医だけだし、その専門医自体が日本では少なければ、その全員が勉強熱心というわけでもない。ところが、「強迫症」(とその周辺の関連疾患)を患う患者なら、大勢いる。ならば、これまでは存在しないに等しかった、患者の読める「強迫症」の「実践的な理論書」を、亀井は、専門家である松永の協力を得て、書くことにしたのである。

だから、本書は「生な実例と理論的な対処方策」が示されていて、とてもわかりやすいし面白い。そして、何より私が強調したいのは、本書が「強迫症」患者ではない読者にも、役立つし面白い、という点なのだ。

と言うのも、前述のとおり、「強迫症」というのは、もともと誰にでもある傾向が、あることをきっかけにして、止めどなく亢進して、生活に支障をきたすようになった病的状態を指すものであるから、そこまではいかないまでも、人間の「心」が、どういう「癖」を持つものかを教えてくれて、とても参考になるのである。

例えば、私の場合だと「コレクション趣味」である。
普通、「コレクション趣味」というのは、医学的な意味での「病気」ではない。しかし、他人から見れば、場合によってそれは「異常」であり、しばしば「ビョーキ」だと評されたりする。

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(※  評論家 日下三蔵氏邸。ここまでではないが、量的には大差はない)

こうした、徹底した「コレクション趣味」が、医学的には「病気」とされないのは、基本的には、本人がそれを困ったこととは感じておらず、むしろ好きで喜びを感じてやっていることだからであり、多少家族に迷惑をかけることくらいはあっても、犯罪になるわけではないし、他人に甚大な迷惑をかけるわけでもないから、一応は「正常」の範疇とされているのである。そもそも、少々あるいはかなり過剰であったとしても、他人に大きな「迷惑をかけない」のであれば、その程度のことを「犯罪」だの「病気」だのとされたのでは、不自由きわまりなくて、たまったものではないからだ。

しかし、そんな「コレクション趣味」も昂じてくると、本人にも多少は「苦痛」に感じられる部分が出てくる。まず、置き場所が無くなり、生活スペースが減ってきて、生活に支障をきたす(このあたりが「ゴミ屋敷」問題と近似的だ)。そこで「ある程度は処分しなければな」などと思っても、なかなか処分する気になれない。それどころか、例えば蒐書癖なら「もうこれ以上買うのは止そう」とか「月に30冊買うところを10冊にしておこう」と思っても、欲しい本を目にすると、結局はほとんど全部を買ってしまい、買うスピードが読むスピードの何倍にもなって、未読の蔵書は増える一方である。しかも、2階に本を溜め込みすぎると、床が抜けてしまう恐れがあり、1階で生活をしていれば、圧死する恐れだってないわけではない。事実、ごく稀だが、本の重みで床が抜けたというニュースが報じられることもあって、もはや他人事でもなければ笑い事でもない。

愛書家で知られるフランス文学者の鹿島茂は、当然のことながらその蔵書量の多さでも知られるが、彼の著書には『子供より古書が大事と思いたい』という、シャレにならないタイトルの本がある。その鹿島は、先日、東京古書組合が刊行した『東京古書組合百年史』(定価8,000円税込)にエッセイを載せている。この本に原稿を頼むとしたら「この先生しかいない」ということだったのであろう。ちなみに私は、前記二書を所蔵している。

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そんなわけで、ここまでに立ち至った「コレクション趣味」は、はたして、単なる「趣味」なのか、はたまた「病気(強迫症)」なのか? そもそも「趣味(愛好的執着)」と「病気(強迫症)」に、線引きなどできるのだろうか? 一一無論、そんな線引きなどできない。それは状況依存的で、便宜的なものでしかないのである。

本書でも紹介されているとおり、いわゆる「ひきこもり」だって、それが「生活に支障がない」かぎりは「治療対象としての、ひきこもり」にはならない。
それが「ひきこもり」として問題になるのは、そのことで患者自身や家族の生活が破綻をきたす恐れがあるからで、「伝説の大富豪」ハワード・ヒューズが晩年に「ひきこもり」になっても、彼には莫大な財産があったから、それで困ることはなかったし、それが「謎の大富豪」というロマンティックな色彩を加えただけであった。

ともあれ、このように「趣味(愛好的執着)」と「病気(強迫症)」に線引きなどできないし、その意味では「正常と異常」の間にも厳密な線引きなどできないのであり、両者の間には、段階的に混じり合ったグラデュエーションがあるだけなのだ。だからこそ、「強迫症」を知ることは、人間一般の「不自由な心」や「心の面白さ」を知ることにもつながり、「ああ、そうか。あれは一種の強迫症的なものだったのだな」という気づきを、読者に与えるのである。

例えば「強迫症」の治療方法として、本書では、こんな実践的提案がなされている。

『 こだわりを諦めざるを得ない状況に追い込むことも有効です。それを好機として、それまで停滞していた治療が大きく進むことがあるからです。たとえば結婚や出産、育児といったライフイベントです。自分ひとりでは制御できない強い力が働いたり、自分より大切なものができたりすることで、諦めざるを得ない状況にするのです。』(P144)

これは、私には実感を伴って、とても納得できるところだ。
本書のここの部分では、実例として「汚染恐怖」の強迫症患者が、出産によって、嫌でも子供の汚物に触れざるを得なくなり、そのことによって「汚染恐怖」を乗り越えていったという事例が紹介されいるのだが、私の場合は、「強迫症」ではないものの、似たようなことをしばしば経験している。どういうことか。一一それは「ネトウヨとの喧嘩」である。

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(※  芥川賞受賞作・李琴峰『彼岸花の咲く島』対する、ネトウヨのお仕事。読まずにレビューが書かれ、こんなものに多数の「役に立った」が投じられる)

あちこちで書いているとおり、私は20年以上にもわたって、のべ1000人以上ものネトウヨと喧嘩をしてきた。これだけでも、普通の人からすれば「病気だ」ということになるだろう。
しかし、私の場合、それを「好きでやっている」のだし、それで社会生活に無理や破綻が生じるわけでもないのだから、これは「病気」の範疇ではなく「趣味の範疇だ」ということになる。実際、医者だって、そう判断するだろう。

しかしながら、私自身、この懲りない「ネトウヨとの喧嘩」を「時間の無駄」だと思うことはしばしばあり、「この時間を読書に回せば」と思わないこともない。
「読書」の方も多分に「強迫症」気味であるとは言え、「ネトウヨとの喧嘩」の方が、世間一般の評価からしても、よほど「病気」の印象が強いだろう。たとえそれが、世のため人のためになる、稀有な「善行」であったとしても、である。

しかし、「時間の無駄だなあ」「馬鹿なことをやっているなあ」「できるだけ喧嘩は止めておこう」と思っても、いざ目の前に「ネトウヨ」が登場して、くだらないことを書いていたら、どうにも我慢ならず、結局は相手が退散するまで、一週間でも半年でも、攻撃し続けてしまう。
やるからには、徹底的にやらないことには気がすまない。中途半端で止めることなど到底できないのであるが、一一このあたりが、結構「強迫症」的なのだ。
つまり「完全主義」であり「ピッタリ、シックリいくまでは止められない」「汚物は、徹底的に洗浄しなくては気がすまない」というのと全く同じで、その徹底性が、他人には「気持ちはわかるけれど、ちょっとビョーキ」ということになってしまうのである。

ともあれ、自分ではなかなか止められない。
ところが、時々『こだわりを諦めざるを得ない状況」に追い込まれることがある。

何かと言えば「mixiのアカウントを止められる」「twitterのアカウントを凍結される」「Amazonのカスタマーレビュー利用権限を制限される」といった、物理的強制力が働いた場合だ。
こうなっては、いくら文句を言ったところで、どうにもならないことは「経験」上よく知っているので、「まあ、このへんにしといたるわ」ということで、「ネトウヨいじめ」は嫌でも中断せざるを得なくなるし、まあ仕方がないだろうと、私自身も納得がいくのである。

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本書で示された「理論的実践方策」は、私のように人一倍「こだわりが強い」人間には特にわかりやすく実感的に納得しやすいだろうし、そうではない普通の人にだって、多かれ少なかれ「こだわり」はあって「止めたいのに止められない悪癖」というのもあるはずだから、そんな「心のどうしようもなさ」を考える上で、本書はとても役に立つはずだ。

「強迫症」とは、「こだわり」が極端化した事例なのだけれども、そこまで行かないまでも、自分の「思いどおりにはならないこだわり」があるなら、ぜひ本書を読んでみるといい。「ああ、そういうことか」と納得がいくだけでも、ずいぶん楽になるのではないかと思う。

無論、本書は「強迫症」を患っている人の、強い武器にもなる「実践(実戦)の書」でもあるから、「強迫症」の有無にかかわらず、多くの人に読んで欲しいと心よりオススメするものである。

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(2021年10月25日)

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