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岡田祥子『夫婦幻想 子あり、子なし、子の成長後』 : 快楽主義独身者の〈極論〉

書評:岡田祥子『夫婦幻想 子あり、子なし、子の成長後』(ちくま新書)

夫婦生活というものが何かと大変だろうというのは、早くから認識していたように思う。決して、いろんな人生経験を積み、知恵をつけた今の視点を、過去に投影してるということではないはずだ。

私は現在56歳の、独身男性である。これまで一度も結婚したことがない。結婚したいと思ったこともない。これは負け惜しみではないと思う。

私は昔から、趣味人であり、絵を描いたり、プラモ作りに凝ったり、アニメに入れ込んだりした。「オタク」という言葉が生まれる以前の話である。
高校生の頃は、漫画家かアニメーターになりたいと真剣に考えたが、客観的に見て、力量不足だし、才能もないと思ったので、自ら諦めた。

私は、決められたことはきちんと守る、いわゆる優等生タイプの真面目な人間なのだが、しかし、勉強だけは嫌いだったし、嫌いだからやらなかった。
いや、やらなければと思っても、出来なかったのだ。私は、面白くないことを無理してやる、ということが、どうしても出来なかったので、勉強はしている振りで誤魔化し続けたし、就職してからも「本職は趣味で、仕事は給料をもらうための方便」だと割り切っており、立身出世になどまったく興味がなく、もらった給料は、ひたすら趣味につぎ込んだ。

社会人になってからの趣味とは、読書であり蒐書(初版本蒐集)であり、後には絵画を買ったりもした。また、小説書きや漫画描きの才能は無かったが、批評文は無理なく書けたし、評判も上々だったので、三十数年間、趣味で批評文を書き続けている。
酒もタバコも賭け事も一切やらなかったので、職場では「金が貯まってしかたないだろう」などと冷やかされたりしたが、内心では「結婚してるお前らの十倍以上費っているよ」と内心では笑っていた。文章書きの趣味は、職場では一切、口外しなかった。同僚には、趣味はもっぱら読書とカラオケだと言い、それも嘘ではなかった。

そんな具合なので、積極的に結婚したいとは思わなかった。思う存分趣味に淫し、満足している今の生活を変える気にはならなかった。
子供は嫌いではないが、子供のために、趣味を捨てて働こうなどとは思わなかった。結婚しなければ、余裕の独身貴族生活だが、結婚すれば、そうはいかないというくらいのことはわかっていた。

一度、結婚してもいいと思えるほど好きになった、つまりのぼせ上がった女性がいたが、振られてしまい、それ以降はそこまでのぼせ上がるほどの女性には出会っていない。
もちろん自分が、人並み以上に女性にモテる人間ではないと自覚していたが、だからと言って、自分から結婚相手を探そうとは、一度も考えなかった。
三十を過ぎた頃に、親がしきりに見合いをすすめたが、面倒なので断り続けて、一度だけ親の顔を立てて見合いをしたが、双方、気がすすまなかったようで、それでお終いだった。その後、見合いの話も出なくなって、スッキリした思いだった。

さて、こんな確信犯的独身者からすると、結婚する人というのは、かなり無謀に見える。
惚れた腫れたは最初のうちだけだという話はよく聞くし、実際そんなものだろうと思ったし、いくら好きな人でも、一緒に暮らせば、粗も見えるし飽きも来るだろうと思った。子供は欲しい気もするが、自分の趣味を犠牲にし、子供を作るために結婚しようとまでは思わなかったので、「縁があれば、嫌でも結婚するだろうし、無ければ無いでかまわない。歳をとって後悔するかも知らないが、そこまで先のことを心配して、無理に結婚するわけにもいかないしな」と考えて、結局、今日まで独身のままだったわけである。

だから、こんな私にすれば、結婚する男女は、将来に対する見通しが、あまりにも甘いと思える。と言うか、考えなしに結婚しているとしか思えない。
もちろん私だって、恋愛感情にのぼせ上がって、結婚してもいいと考えたことがあるのだから、そういう場合は仕方ないとも思うが、結婚するのが当たり前だとか、結婚できないと恥ずかしいなどという、世間の常識や他人の目を意識しての結婚というのは、バカじゃないか、としか思えなかった。
人にどう思われようと、別にそれで損をするわけではないのなら、無理に結婚などする必要はない。わざわざ大変な責任を引き受け、自分の好きな生き方を犠牲にするのは、無考えの愚かしさだとしか思えなかった。

したがって、本書に登場する夫婦たちもまた、結婚生活について、あまりにもナイーブだとしか思えない。
世間一般はそんなものなんだろうとは思うものの、その考え無しの行動を納得することは出来ない。
きっと、私の方が、とても変わった人間だということなのだろうが、私が間違っているとは、どうしても思えないのである。

私は、個人的に「宗教」の研究をしているのだが、その根本的な動機である「疑問」とは、「なぜ、あんな絵空事としか思えないような教義を信じることが出来るのか」しかも「かなり教養のある人たちまでもが」というものであった。
私は、主にキリスト教を研究してきたが、結局「なぜ、信じられるのか」という疑問に対する、完全に合理的な答は見つかりそうもない。どんなに賢い人でも、信じる時は信じてしまうのだとしか言いようがない、というのが現実のようだ。

だとすれば、「結婚」というのも、結局は、同じようなことなのではないだろうか。
進化生物学的に「種を残そうという本能から、オスメスが惹かれ合い、つがいを作って子供を成すようにプログラムされているから、結婚するのだ」と言われれば、たしかにその通りなのだろうが、しかし、私のように、本能に逆らって、別の快楽に価値を認める個体もあるし、こちらの方が、本能を凌駕するものを持つという点で、人間らしいとも思う。
しかし、それはやはり例外的存在でしかないということなのだろう。
この差は「個体差」ということなのだろうが、それにしても、具体的で論理的な説明ではなく、一般論の域を出ないものなので、どうにも納得しかねる。

著者も独身だそうだが、どうして、よその夫婦について、ここまで気長に興味を持てるのか、それも私には謎である。

なにしろ読書が趣味なので、自分の知らない世界についての知識を得るために、本を数冊読むくらいのことはするが、宗教とは違って、夫婦の問題については、著者のように熱心にはなれない。
きっと、著者にとっては、逆に宗教など、さほど興味を惹かない対象なのだろう。
これも「個体差」だと言ってしまえばそれまでで、結局のところ、人は他人を理解できないのだ、ということになるのかも知れない。

初出:2019年9月23日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2019年9月25日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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