『左川ちか詩集』 : 「みんな、仲良くしてね」という 皮肉な遺言
書評:川崎賢子編『左川ちか詩集』(岩波文庫)
「左川ちか」という昭和初年代の夭折詩人が、にわかに注目されている。
もちろん、現代詩の世界や地元北海道ではそれなりに知られた人だったのだろうが、一般的な知名度は極めて低かったと言っても良いはずだ。
そのために、詩人の死の翌年1936年に刊行された初の個人詩集以来、一般の読者が手に取りやすいかたちでの出版はなされず、この初版本である昭森社版『左川ちか詩集』(並製版と特製版の2種を刊行)とて、決して部数が多いわけではなかったので、詩人の評価の高さというよりは、その個性的な詩風と、なにより「稀覯本」として、古書価が高騰したことで一部に注目され「探求書」となったようだ。
このあたり、古書や初版本の世界には、それなり程度には詳しい私でも、詩歌にはまったく興味がなかったために、「左川ちか」の名前さえ、知らないままで来たのであろう。
左川ちかの詩集を最初に復活させたのは、古書と言うよりは「初版本・稀覯本」の世界に近いところの人によってであった。
「森開社」という海外文学専門(主にフランス文学)の個人出版社の社主で、おのずと趣味人的な傾向を強く持った小野夕馥が、フランス詩歌の翻訳を行なっていた左川ちかに注目し、昭森社版『左川ちか詩集』から漏れていた未収録作品を探し集め、文芸書に強い神田の古本屋である田村書店から、1983年に『佐川ちか全詩集 森開社版』を刊行したのである。
しかし、この森開社版『全詩集』とて限定550部でしかなく、やはり古書価が高騰していたようだ。
そうしたことから、2010年には『左川ちか全詩集 新版』 が、今度は森開社から刊行されたのだが、そもそも「昭森社の本」ということで、蒐集の対象になるような、取次さえ通さないマニアックな小出版社からの刊行なので、これもまた、現代詩関係者かコレクターのための本になっていたようだ(この「森開社版」にも、並装版と別装版などの数バージョンがあり、しかも編者である小野夕馥のサイン入りだとか…)。
ともあれ、詩集とはもともと、新刊書店にどんと積まれるほど大量に売れるようなものではないのだが、一般人が聞いたこともないような、マイナーな出版社からしか刊行されたことがない詩集の著者が、これまで一般の注目を集めなかったのは、むしろ当然のことであったと言えよう。
ところが、歌集の出版などを主に手掛けてきた福岡の出版社「書肆侃侃房」から、昨年(2022年)『左川ちか全集』が出版されたあたりから、佐川ちかの出版をめぐって、その界隈がにぎやかになってきたようだ。
これはたぶん、これまでは、「現代詩」関係者以外では、ほとんどコレクターズアイテム扱いにされていた佐川ちかの詩集が、手軽に誰にでも読めるようになったからに違いない。
誰でも手軽に読めるようになったこと自体は、大いに結構なことであり、何も問題はなさそうだが、しかしながらこれは、少なくとも「私は持っているぞ(所蔵しているぞ)」というのが喜びの大部分であるコレクターにとっては、決して嬉しい話ではない。「読めない稀覯本」として何万、何十万も払って購入したのに、少なくとも「読めない」という部分でのありがたみが、なくなってしまったからである。
もちろん、最初の刊行された昭森社版『佐川ちか詩集』は「初版本」としての価値を持ち続けるからいいのだが、その後の新旧2度刊行された「森開社版」の場合は、この版でしか読めない作品を含む「増補決定版」として意味が無くなり、「歴史的意義」こそあっても、所詮は「過渡的な出版」として、その実質的存在意義を薄めてしまうのは避けられない。また、端的に言って「古書価」が下がるのも目に見えている。
だから、「森開社版」まで蒐めていたコレクターが、書肆侃侃房の『全集』を喜ばないというのは、わかりやすい心理だろうし、ましてや、さらにお手軽なかたちで佐川ちかが読める「岩波文庫版」が出たとなっては何をか言わんや、ということである。
例えば、「岩波文庫版」のAmazonのカスタマーレビューに、レビュアー「モイーズ」氏が、「5点満点の3点」をつけた上で、『文庫で、佐川ちかが読めること』と題する、次のようなレビューを投稿している。
「モイーズ」氏が言いたいのは、煎じ詰めれば、これまでマイナーだった佐川ちか作品の出版にたずさわった「先人」への「敬意」が足りないということだ。
そして、高価でも『左川ちか全詩集 新版』(森開社版)に触れるべし。それでこそ、左川ちかを読んだと言えるのだ、と。
これまでのマイナーな版で佐川を読んできた「マニア」の気持ちとしては、これもわからないではないのだが、しかし、書肆侃侃房の『全集』にしろ、今回の「岩波文庫版」にしろ、その最大の目的は「リーズナブルなかたちで、佐川ちかの作品を、一般読者の手元に届ける」というところにあるというのは明白であり、そうした本に「先人への敬意」表明まで求めるのは、いささか筋違いなのではないだろうか。
要は「先見の明のあった、われわれを顕彰せよ」っていうのが「モイーズ」氏の気分なのだろうが、端的に言って「佐川ちかは、もうあなた方だけのものではない」ということでしかないのである。
「モイーズ」氏は、このレビューの中で『限定550部の『左川ちか全詩集 森開社版』を刊行したことが、詩人左川ちかの詩才が世に知られるきっかけになった』『『左川ちか全詩集 新版』 が森開社から再度刊行され、より広く知られるようになった。』と書いているが、これは高価な『左川ちか全詩集 新版』(森開社版)に『是非、一度、触れてみていただきたい。』などと気やすく言ってしまえる同氏の「主観的なイメージ」をよく表している。
つまり、客観的に見て「小部数のコレクターズアイテム」でしかなかった森開社版『全詩集』が、はたして『世に知られるきっかけになった』とか『より広く知られるようになった。』とまで言えるのか、それは「世間の狭い人」の、主観的な自己過大評価ではないのか、ということだ。
たしかに、多少なりとも功績のあったことは事実だが、一部マニアが「先に唾をつけたのはこっちだぞ」と言わんばかりに、自分たちの功績をみずからアピールするのは、いかにもみっともないだけであろう。そんなに「良き理解者」だったというのであれば、自分で「左川ちか論」でも書いて、左川ちかの、より正当な評価に貢献すれば良いのである。
さて、こうした「マニア」側から言い分がある一方で、「普及版」の刊行を目指した側にも、これまでの「マニア」的な佐川ちか需要に対する反発があったようだ。
書肆侃侃房の『全集』の編者である島田龍は、ウェブサイト『日本の古本屋』に、「なぜ『左川ちか全集』は生まれたか―書物としての「左川ちか」と解放の企図―」という文章を投じており、『全集』刊行の意図を詳しく語っているから、ぜひ読んでほしい。
この文章で、ポイントとなるのは、最初の昭森社版『左川ちか詩集』の古書価が、「稀覯本」として無闇に高騰していたという事実である。
安くなったとはいえ、このような値段で、最近まで取引されている本だということである。
ちなみに、私が以前、その「稀覯本蔵書自慢」を皮肉った「長山靖生」の名前がここにも見えたが、「やっぱりな」という印象であった。
話を、島田龍のエッセイに戻すと、島田は『全集』刊行の意図を、こうした「書痴」による囲い込みから、佐川ちかの作品を「解放」するためだった、と語っている。
見てのとおりで、島田は『マニアックな復刻本を有難がりながらその真贋に関心がない、書痴を気取るマニアたち。先人の書誌学に裏打ちされた校訂の術を無視する素人編集と、これをバックアップする古書店の存在。』を苦々しく思っていた。
そして、そんな島田にとっては、Amazonレビュアーの「モイーズ」氏なども、そうした「仮想敵」のうちに含まれていたというのも間違いないところだろう。
今回の「岩波文庫版」は、明らかに島田の編集によるリーズナブルな『佐川ちか全集』の流れを汲んだものである。
この手の本としては異例の売れ行きを見せている、この『全集』の評判を受けての文庫化だというのは明白なことであり、文庫版なのだから、当然「マニア向け」ではなく、「より多く」に向け「佐川ちかとの新しい出会いのために」といったことが意図されているのも当然のことであろう。
そんなわけで、「モイーズ」氏が、文庫版編者である川崎賢子に対し、「先輩ヅラ」であれこれ注文をつけたくなるのは、人情(コレクターの感情)として当然なのだが、その先には『全集』編者である島田龍への敵意があるのもまた明らかなのである。
物言いの強弱はあれ、こうした「マニア=書痴」筋から、初版の昭森社版と同様の「旧字旧仮名」で「あってほしかった」とか「新字新仮名」表記は「冒瀆だ」といった、うるさい「注文がつく」というのも、それはそれで想定の範囲内であっただろう。なぜなら、「マニア」である彼らは、一種の「保守主義エリート」だからである。
だが、左川ちかを「広く一般の手に届ける」「次世代に引き継ぐ」というのが、『全集』や「岩波文庫版」の目的なのだから、所詮、マニアの「原理主義」は、「筋違いの難癖」としか、私には思えない。
かの「聖書」だって、最初は「神の言葉は翻訳不能。したがって、翻訳は冒瀆である」と、禁止されていたのである。
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私も、古書だの初版本だの稀覯本だのというのが嫌いな方ではないし、事実そうしたものも多少は所蔵しているから、「マニア」の気持ちもわからない。
けれども、私は「コレクター」や「マニア」である前に、「読書家」としての自負や矜持があるから、「マニア」の「知ったかぶりだけのエリート気質」には心底うんざりさせられているため、気持ちとしては、『全集』編者である島田龍の方に共感するところが大きい。
実際、ヤフオクなどでも、最近刊行されたばかりの「人工的な稀覯本」が高値で「転売」されているのを見ると、「こいつらには、中身は関係ないのだな」と思い知らされて、心底うんざりさせられる。
「中身は大したことないが、諸事情により一般の手には入らない稀覯本」を、蒐めたり、転売したり、あるいは、そのあたりまで当てこんで「少部数出版」しているような輩に対しては、嫌悪以外のなにものも感じない。
こうした輩は、「オタク的知識」こそ豊富にコレクションしているものの、「本を読めない・文章を読めない」というのも、まず間違いないところなのだ。実際、彼らが、そうした作品を褒める言葉とは、確実に、権威筋の言葉からの「受け売り」でしかなく、およそ「自分の読み」などというものは微塵もないのだ。
したがって、私は、佐川ちかが「解放」されるのは、大いに賛成である。
読まれるべき作家の本は、まず読みやすい環境が整えられた上で、それでも「初版本までほしい」「旧字旧仮名で読みたい」というのなら、それはそうした一部の人が、そうしたものを高価に贖えばいいのであって、一部のコレクターに「珍しい本を自分は所蔵しているし、理解もしているぜ」みたいな顔をさせておくためだけに、彼らに、優れた作家を囲い込ませておくべきではない、と考える。
また、裕福ではなかった左川ちか自身、自分の詩が、コレクターの慰み物になることなど、寸毫も望みはしないだろう。
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さて、ここまでは、佐川ちかの「詩」そのものについては、まったく触れてこなかったが、それは、もともと私自身が「詩オンチ」であると自認公言している人間だからで、私には適切な評価は不可能だろうと思うからだ。
無論、多くのアマチュアの「感想文」のような、「先人の評価の切り貼り」みたいなもので、もっともらしく語ることくらいなら容易にできるけれども、そんな「ライターさんのファストレビュー」みたいなものには一文の価値も認めていないから、それをやる気はなかった、ということだ。
ただ、今回岩波文庫に入った『詩集』を読んでみて感じたのは、やはりこの詩人は、決して難解ではなく、きわめてビジュアル的な作風だから、今の若い人が「面白い」と感じるのは、ごく自然なことだといったところであろうか。
無論、作家の自意識の有り様だとかセクシャリティとか、戦争へと傾く時代背景だとか、何より、その夭折に至る「病弱」といった問題まで検討するならば、詩オンチの私でも、それなりに語りうることはあるだろう。だが、そこまでして、私のような門外漢が、「知ったかぶりのコレクトマニア」と張り合っても仕方がない。
ひとつはっきり言えることは、佐川ちかの魅力は、「新字新仮名」でも「わかる人にはわかる」し、そういう人は、そのあとで原文たる「旧字旧仮名」版を読めば良い、ということ。
言い換えれば、「旧字旧仮名」で読んでも「わからないやつにはわからない」ということである。
実際のところ、「新字新仮名」が詩人への冒瀆だなどと言っている輩が、新旧を問わず、どれだけまともに「文章が読める」のかは、「きわめて疑わしい」というよりも、ほとんど「読めないに決まっている」さえと言いたい。
そこまで読めるのなら、今さら「旧字旧仮名」の「オリジナルとしての権威」に依存し切った評価を、声高に語ることなどしないはずだからだ。
左川ちかに限らず、文学を語るのなら、「自分の言葉」で語ってみせろ、ということである。文学は、そこにしかないからだ。
(2023年11月22日)
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