見出し画像

本物の読書家ならば…。

ちょっと自慢話をさせてほしい。

先日「「読書マウント」批判もマウンティングである」という記事を書いたのだが、そこで書き足らなかったことを書いてみようと思う。

私が「読書マウント」批判を批判するのは、それがあまりにも薄っぺらなものだと感じたからだ。
無論、「読書マウント」自体、薄っぺらなものであることは論を待たない。しかし、そんなものを批判して「我賢し」などと思うのも、あまりに薄っぺらだろう。いったい、あなたは、何のために本を読んできたんだと、そう批判したくなったのである。

月に100冊読んだとか、300冊読んだとか、平気で自己紹介している人がいるが、そんな者の書く文章の薄っぺらさときたら、見るに堪えないもので、たいがいは「ハウツー本」の引き写し程度のものでしかない。
どうしたら、うまくいくとかいかないとか。そんな短文を読んで、人生がうまくいくのなら、誰も文学書や哲学書を読んだりはしない。人が生きるとは、そんな薄っぺらに簡単なことじゃないから、人は思索のかぎりを尽くした文学書や哲学書を読み、自分の思考を深める努力をするのである。

そもそも「そんなに山ほど本を読んでいて、そんなくだらないことしか書けないのか」とか「そんなに読んでいて、その程度とは、よほど頭がザルなんだな」と言われることを恐れもしないというのは、よほど馬鹿なのか、あるいは厚顔無恥でしかあり得ない。

しかし、そんなペテン師みたいな輩が、カモにしようとしているのは、どうしたって頭の悪い人間に限られているのだから、そのハッタリを見抜かれることもあるまいと、恥も外聞もなくぬけぬけと「月に、何百冊読んでいます」などということを公言できるのだろう。

したがって、こんな輩の「月に何百冊」とかいったハッタリを見て、それについて「読書マウントは見苦しい」などと言うのは、おおよそ見当違いでしかないだろう。
そんな、薄っぺらい「読書マウント」などやっている輩は、本物の馬鹿か、ペテン師のどちらかなのだから、そんなものを「読書家」扱いにすることの方が、そもそもの間違いであり、批判者自身の「読書家」としての無内実を問われることにしかならないのである。

あえて言うが、本物の「読書家」とは、「何冊読んだ」ではなく、「何冊しか読めない」と、心から嘆く人である。
本物の「読書家」とは、「あれを読んだ、これも読んだ」などと言う人ではなく、「あれもまだ読めていない、これもまだ読む暇がない。このままでは、死ぬまでにとうてい読むことができない」と、本気で嘆く人である。

「読書家」なら、既に読んだ本よりも、まだ読むことのできていない本の方が、気になるはずだ。それが、理の当然ではないか。

(2022年4月4日)

 ○ ○ ○







 ○ ○ ○









 ○ ○ ○