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「読書マウント」批判もマウンティング

「本を読む人なら、誰だって自分が賢いと思っているものだ」
                  (アレクセイの格言)

よくもまあこれだけ書いているなあと自分でも思うそのわりには、他の人の「note」は、ほとんど読んでいない。だから、他の人の記事について論じることもないのだが、今回は、たまたま目についた記事は、とても興味深いテーマを扱っていた。そのテーマとは「読書マウント」である。

初めて聞く言葉だし、他の関連記事をちょっと読んでみても、多くのもので「初めて目にした言葉」だという趣旨の記載があるから、ごく最近の言葉らしい。しかしながら、この言葉は、たしかに読書家のアンテナに引っかかってきて、無視できない力が持つようだ。

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「読書マウント」とは、簡単に言うと「読書において、自身の優位を誇示する」ということのようだ。つまり、読書における「量(冊数)」や「読む本の質」、または「読み取りの深さ」等、それらを言挙げすることにより、自身の「読書家」としての「質の高さ=有能さ」を他人に誇示する行為を、指して言うようである。

したがって、無論のこと「読書マウント」というのは、忌むべきものとして、否定的に評価されているようだ。これはわかりやすい「心理」である。特に、日本人の場合。

つまり、「マウンティング」というのは「他者に対する優位を誇示する」ものなのだが、それが「教養を深め、人格を陶冶するための読書」の趣旨に反している、と感じられるのだろう。
「自慢したり、他人を見下したりしない、教養ある人格者」になるための「読書」であるはずなのに、その「読書」という行為において「他人に勝ちたい」「自慢したい」「優位を誇示したい」などと考えるのは、本末転倒の誤った考え方である、というわけだ。

なるほど、これはわかりやすい考え方だし、間違いではない。まして、この考え方なら、人に褒められこそすれ、批判されることはないだろう。しかし、この考え方は、「教養を深め、人格を陶冶するための読書」という行為の意味を、一面的にしか捉えていないのではないだろうか。

そもそも「教養を深め、人格を陶冶する」のは、何のため、なのだろう?

この問いに対して「教養を深め、人格を陶冶するため」つまり「教養ある人格者になるため」と、同語反復的に答える人もあるだろう。だが、なぜ「教養ある人格者」になりたいのかと問えば、それへの回答は、さほど簡単なことではない。

「教養ある人格者」とは、ひとまず「自分で自分を、人間として褒めてあげられるという満足感があり、かつ、周囲の人をも幸せにする徳性だろうから」といったような回答が考えられよう。要は「自分が幸せになり、ついでに他人も幸せにできれば、これに越したことはない」というようなことだ。

これも、実にもっともな意見ではあるのだが、しかし、「幸せになりたい」という至極当たり前なことが「読書の最終目的」だということになるのであれば、ここで色々と考えなければならないことが出てくる。

まず、「幸せになりたい」のなら「教養を深める必要性はない」し、その意味で、その手段が「読書」である必要はない。「スポーツ」などでも良いわけだし、スポーツなら「マウント」をとっても、「記録更新だ」「金メダルだ」と、平気で自慢できる。

だとすると、「読書」というのは、結局のところ「個人的な趣味」として「好き」だからやっているだけで、「教養を深め、人格を陶冶するため」というのは「自己満足できるオマケ」みたいなものなのではないか。
だとすれば、「読書」を自慢できると考えること自体が、そもそも「頭の悪い行為」であり、「読書マウント」なんてものは「愚行の中の愚行」だと言えるのかもしれない。少なくとも「教養」があれば、それくらいのことには、気づかない方がおかしいのである。

しかし、人間というものは、自分の行為に「肯定的な意味や価値」を見出したいものだし、ましてや「世間」がその価値を認めているものなら、もうそれだけで「自明に価値のあるもの」だと思い込みがちなのも、ある程度は仕方がないだろう。
しかしまた、そうした、ありきたりの「思考停止」に陥らないようにするものこそが「教養」でもあるのだから、やはり「読書自慢」などというものは、本末転倒的に「何を何のためにやっているのかわからない、無教養な行為」ということにしかならないだろう。ましてや「読了冊数自慢」なんてものは、なんら「質」的なものを保証しないのだから、あまりにも「幼稚」だと言われて当然なのである。

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だが、「読書」が無価値かと言えば、無論、そんなことはない。読まないよりは読んだ方が、おおよそ良いだろう。
だが、他のことを差しおいて、優先的に行うほどの「特権的な価値」があるのかと言えば、それは無いと考えるべきだろう。

例えば、生きんがために働くのが忙しくて、本を読む暇もない人の「生」と、暇がたくさんあるので、本もたくさん読めて「教養もある」人の「生」の、どちらに価値があるかは、一概には言えないだろう。
まして、他人の幸せのために、黙ってボランティアに忙しくしている人と、本ばかり読んでいる人とでは、どう考えたって、前者の方が「人」として尊い生き方をしており、もはやあらかじめ「人格が陶冶されている」と言ってもいいかもしれない。つまり、わざわざ読書をするまでもなく、実生活の中で、大切なものを身につけているということである。

したがって、「読書家」が「読書量」を「自慢するのは恥ずかしい」などと、殊更に言うこと自体が、そもそも恥ずかしいのではないか。
と言うのも、「読書家」であること自体には、何の価値もないに等しいからである。少なくとも、まともに読書をしておれば、これくらいのことは、早々に気づいていて然るべきだし、そんなことにも気づけない読書など、所詮は「マスターベーション(自慰行為)」に過ぎないからだ。

だから、「読書マウント」なんてものは、そもそも論じる価値もなければ、気にする価値もない。「読書」によって、本当に自分が成長したと感じ、それを褒めて欲しいと思えば、素直にそう表現すればいいだけの話なのだ。

要は、「読書マウント」というのは、たしかに「みっともない行為」ではあるけれども、「私は、読書マウンティングみたいなみっともないことをする馬鹿ではありませんよ」などという文章を、わざわざ「公表する」こと自体が「無自覚なマウンティング」行為でしかなく、そっちの方が、よほどウザいのではないか。簡単に言えば「私は自慢なんかしない」という「自慢」なのだから。

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したがって、正々堂々と「自慢」すれば良い。
ただし、実力が伴わないと、逆に嗤いものになるのだから、その覚悟は持っていなければならない。

言い換えれば、「自慢している愚か者」を「自慢している愚か者」だと批判する人というのは、「自慢していないふりをした(予防線を張った)自慢たれ」でしかないということだ。

「おまえは、人を嗤えるほどのものを持っているのか?」と問われるのが怖いから、謙遜を装いつつ、自分の方が「自覚があるので上だ」と自慢しているに過ぎない。自分は、普通の人たちより、一枚上手の「メタレベル」に立っているつもりなのである。

だが、そういう「謙遜を装った、鼻持ちならなさ」なんてものは、普通に「文学」を読んでおれば気づくはずだし(『坊ちゃん』の赤シャツ然り)、その程度の能力は身について然るべきである。なのに、それが身についていないのでは、「何のための読書か」ということになるのだが、要は「自己満足」にしかなっていないということだ。

したがって、自信があるのなら「私は、読書によって、人並み以上の、これこれの能力を身につけた」ということを「公言」すれば良い。
どのみち「文章を公開している人」というのは、少なからず「自分は、人より物が見えている」と内心では思っているものなのだ。たとえ文書上では、自分がいかにダメな人間で頭が悪いかなどを語っていたとしても、それは「自分が見えている自分」自慢でしかないはずだ(つまり、卑下慢である)。なぜなら、そうでなければ、わざわざ自分を晒しものにするようなことなどするわけもないからで、本当に自分を卑下している人なら、わざわざ自分の欠点を文章にして公表するなんてことはできない相談だからである。

考えてみれば、人間にとって「自己満足」は、必要不可欠なもの。
それに、具体的な根拠があろうとなかろうと、人は「自己満足」がなければ生きてはいけないのだから、「自己満足」を意識的に自己肯定することの方が賢明だ。そして、それができないというのは、多くの場合、「自己肯定」だけではなく「他者からも肯定されたい(承認欲求が強い)」からに他ならない。つまり「自己満足」の人よりも「欲が深い」のである。

しかしまた、欲が深い人は、もう「自分は欲が深い人間だ」と認めて、その欲に見合う人間になれば良いだけの話ではないだろうか。
「私は、読書マウントなんてしたがる、馬鹿ではありません」アピールなどという下らない「回り道」をしている暇があったら、「読書」において自分を高め、その能力を世間に還元すれば良い。

無論、他の方も書いていたように、「やたらと褒める」というのは、私の言う意味での「社会貢献」ではない。
むやみに褒めるというのは、「私は良い読者ですよ」「理解者ですよ」「肯定的な人間ですよ」「いい人ですよ」というアピールでしかない場合が、ほとんど。なぜなら、褒めておけば、著者やそのファンに喜ばれ、褒めてもらえることはあっても、非難されることなどほとんどないからである。

しかし、そんな「褒め屋」のナマクラな言に騙されて、つまらない本を掴まされる方は、たまったものではない。
しかしまた、そうした「褒め屋」というのは、そういう被害者の存在にまでは思い至らず、ただ、表面的に「ウケがいい」から「褒め屋」をやっている、大概は凡庸な人間なのである。

要は「褒めるだけなら、バカでもできる」。言い換えれば「人並みではない、うまい褒め方」というのは、そう簡単にできるものではない、ということ。なぜなら「うまい褒め方」とは、その評価対象の、長所も短所も両方を的確に理解し、適切に評価しながら、それを踏まえた上で、総合的に「褒める=肯定する」というものでなければならないからで、こんな芸当は、誰にでもできるものではないからだ。

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繰り返しが多く、無駄に長くなってしまったが、私の言いたいことは伝わったと思う。
要は「読書マウント」批判などという下らない行為自体が「マウント」行為に他ならないのであり、そんなことにすら気づかないような人間は「読書家」の名に値しない、ということである。

こう書くと「何様?」と思われるかもしれないが、それに対しては「私がどの程度の人間かは、書いたものに示してあるから、口ほどにもないと思うのなら、きちんと根拠を示して批判してごらんなさい。その時は、あなた自身の、真の力量が問われて、読書マウントを云々する資格のある人間か否かもハッキリするから」と応えておきたい。面と向かって殴り合いをしたら、一番ハッキリと実力がわかるのである。

ともあれ、「読書」というのは、基本的には「自己満足の楽しみ」であろう。しかし、余禄的に「知識や思考力」が付くし、付いて然るべきであろう。

その上で「人格」まで陶冶されるのかどうかは、かなり怪しいと私は考えているのだが、「読書は人格を陶冶する」と考えている人であれば、それを自身の姿で世間に示してほしい。そうすれば、それは「世間への貢献」にもなるし、殊更に褒めて欲しいと望まなくても、勝手に人が褒めてくれるだろう。

もちろん、褒めて欲しいとも思わないほど、できた人格者なのなら、褒められなくても、あるいは貶されても、「世間への貢献」ができるのであれば、それで満足できるのではないだろうか。

もはや、その境地になれば、「読書マウント」など、「猿山の争い」にしか見えず、興味も持てないことであろう。一一その意味では、私もまだまだである。

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(「読書マウント」批判ではなく、「読書マウンテン」制覇に挑むべし)

(2022年3月27日)

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