鈴木忠平『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』 : もう一つの〈野球狂の詩〉
書評:鈴木忠平『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(文藝春秋)
すでにベストセラーになっている本について、屋上屋根を架すような贅言を重ねたくないが、これはじつに素晴らしいドキュメンタリー作品だ。だから、ぜひ読むべきである。
そしてできれば、読んで感動した後に、本稿を読んでほしい。先に読んで後悔しても、責任は負えないようなことを書くからだ。
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真っ黒な表紙カバーに、鈍い金色で『嫌われた監督』というタイトルが、左右に分けて大きくあしらわれ、右端の「嫌われた」と、左端の「監督」という文字の間に、本編の主人公である落合博満の顔がぼんやりと暗く浮き上がっている。そしてその下には、白く細いフォントでくっきりと「落合博満は/中日をどう/どう変えたのか」というサブタイトルが縦3行に組まれている。
また、帯のオモテ面には、カバーと同様、黒地に白色のフィントで横4行に「なぜ 語らないのか。/なぜ 俯いて歩くのか。/なぜ いつも独りなのか。/そして なぜ 嫌われるのか一一。」とある。
この装丁デザインは、本書の「色合い」を見事に表現している。特に前半の。つまり「暗く、重く、そして謎めいている」のだ。
この「暗くて重い」物語を牽引していくのは、落合博満という「巨大な謎」だ。
落合は「なぜ 語らないのか。/なぜ 俯いて歩くのか。/なぜ いつも独りなのか。/そして なぜ 嫌われるのか一一。」。
この物語は、まだ新米記者であり、自分に自信が持てなかった、本書著者が、中日ドラゴンズの監督就任が噂されていた段階の落合博満に、上司であるデスクの指示を受けて「伝言」を伝えにいくところから幕を開ける。それが、著者と落合博満との出会いであった。
それまでの著者は、落合博満という人間に対して、世間並みの印象しか持っていなかった。つまり、バッターとしては超一流だが、「オレ流」という評言に象徴されるように、周囲になんと言われようが、鉄面皮とも言えるほどの涼しい顔で、平然と自分のやり方を貫き通す、かなり協調性に欠けた一匹狼の「変わり者」。そんな、少々「紋切り型」の印象だった。
しかし、落合と一対一で接する機会が重なるにつれて、自身について多くを語ろうとはしない落合が、決して「無感動で冷たい人間」ではないという感触を少しずつ得るようになる。つまり、世間の落合に対する「人を小馬鹿にしたような、徹底したオレ様人間」というのは、違うのではないかと感じるようになる。だが、その一方で、世間がそのように「誤解」する大きな要因は、間違いなく、落合が自身の考えを説明しようとはしない点にあった。
落合は、なぜ「説明しないのか」「理解を求めようとしないのか」。
中日ドラゴンズの監督に就任した落合博満は、ドラゴンズを徹底的に自分の色に塗り替えていく。それは「勝てるチーム」になる、ということだった。
そのためには「面白い野球(プレイ)」「ウケる野球(プレイ)」「感動する野球(プレイ)」(「勇気がもらえる野球(プレイ)」)などといったものを一顧だにせず、選手たちにも、そのプロとしての自主性において「結果」を求めた。プロは結果がすべてであり、そこに「感情」も「人情」は絡ませない。
当然、自己責任の結果主義に染め上げられたドラゴンズは、ピリピリとした緊張感に満ち、殺伐とした空気さえ漂うチームとなったが、その結果として「勝てるチーム」となり、議論の余地のない結果を残した。落合が監督を務めた2004年から2011年のすべての年で、みごとにAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝と1度の日本シリーズ優勝を達成したのだ。
だが、そうした瞠目すべき「結果」にも関わらず、落合監督の評判は、必ずしも良いものではなかった。と言うよりも、とても悪かった。
要は「勝つことだけが、野球の目的なのか」「落合の指揮するドラゴンズは、勝っても面白くない」と、業界関係者だけではなく、ドラゴンズファンの多くからも、そのように評され、落合は「嫌われた」のである。
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どうして落合は、こんな野球を目指したのか?
それは、彼が「それこそが、プロ野球のあるべき姿だ」と信じていたからに他ならない。
つまり、そこに彼の「野球美学」があった。
落合が「勝つためには何でもした」と言っても、もちろん「アンフェア」なことをしたわけではない。彼がしたのは、誰よりも徹底的にフェアに、ルールの範囲内において、「勝つため」に、鬼になってでも、ただ「強くなろう」としただけである。そのようにして、ただ「強いチーム=勝てるチーム」を作っただけなのだ。
だが、「プロ野球」には「見世物」の側面がある。「娯楽」の側面がある。だから「地味に勝っても、つまらない」と考える人も大勢いる。「プロなんだから、客を楽しませてナンボだろう」と考える人もいる。実際「地道に点をとって、しっかり守って勝つ」というゲームより、「ホームラン合戦」だとか「両チーム0行進の、白熱した投手戦」といったものを期待するのは、野球ファンとしては当然だろう。要は「派手なドラマ」こそが面白いのであって、「渋すぎるドラマ」では「カタルシス」が得られないし、そうしたものは、もはや「芸術」ではあっても、「娯楽」にはならないからだ。だから「もっと楽しませろよ」と不満を鳴らすことになる。
こうした「プロ野球」観の違いは、どちらか一方が正しいということではなく、文字どおり「価値観の相違」なのであろう。要は、野球を「芸術」にまで高めようとするか、それとも、それが全てではないにしろ「見世物」であることに価値を見出すかだ。
じっさい、当時の落合監督は、自覚的に「世間」を敵に回した「嫌われ者」だった。彼は「世間」の野球観に迎合するのではなく、自身の「野球の美学」を見せつけようとした。ギリギリ研ぎ澄まされた先に、あるいは暗く長い試練を堪えぬいた先に、初めて開示される、野球の美しさを、落合は信じていたのだ。
今となっては、彼を懐かしむ人も少なくないだろうし、本書の圧倒的な評判の良さは「本書に描かれた落合博満」への読者の「理解」と好意の表れであろう。「あの落合の不遜な態度には、こういう思いが隠されていたのか」と「理解」できたからこそ、そんな落合に好感を持てたのである。
しかし、言い換えれば、かつて、本書読者の大半は、「説明しない落合」を憎んだ「世間」の側であったはずだし、「別の、説明しない落合博満」的な存在に対しては、今も「嫌悪」する側の人間なのであろう。
本書の中で、落合は、
と言葉を、プライベートな場所で漏らしている。ただし、それは「世間」を見切ったが故の、醒めた言葉としてだ。
落合が、こう語るのは、著者も指摘するとおり、ほとんど世間に絶望しているからだろう。本当のところは、決してわかってなどもらえないと思っている。説明したって、それは同じだと考えている。そしてそれは、たぶん正しい。
しかし、本書著者が「説明」したことによって、現に落合も世間から(生前すでに)「理解」されたじゃないか、と言う人もいよう。だが、それは違う。落合の「世間」への絶望は、そんなに薄っぺらで根拠薄弱なものではない。
なぜなら、本書による「説明」において、読者は落合を理解したつもりになってはいるが、しかし、その「理解」とは「別の落合」に対してまで拡張し得るような「本当の理解」ではないことを、落合は、とうに見抜いているからだ。
落合が、本書において、多くの「理解」を得ることができたのは、彼が「天才」であり「有名人」であり「成功者」だからであったに過ぎない。
つまり、「天才」でも「有名人」でも「成功者」でもない、「別の落合」や「若き日の落合」が、落合のように「オレ流」を実行すれば、ただでさえ「同調圧力の国ニッポン」「空気が支配する国ニッポン」「世界一ベストセラーの生まれやすい国ニッポン」において、彼(=別の落合)が、世間から「理解」されるわけなどないからだし、事実として「理解」などされなかったからである。
だから、落合は、世間並みの「理解」を拒んだ。こちらから「すり寄って」行き、「世間の価値観」に迎合して、「ウケ」を狙ってまで、「高評価(イイネ)」をもらおうとは思わなかった。なぜなら、それは本当の「理解」ではないからである。
だから、落合は「説明」をしなかった。世間の「理解」を求めなかった。そんな「理解という名の誤解」などという、気色悪いものなんかいらない。それくらいなら「嫌われてた方が、まだしも清々する」と、そう考えていたのであろう。
つまり、落合博満という人は、要は「理想主義者」であり「潔癖(完璧・非妥協)主義者」であり、その「美学に生きる人」であり、それを野球に求めた「野球バカ」だったのだ。
落合にとっての「野球」とは「全力を尽くして戦って勝つこと」。そして「トップになること」であった。言い換えれば、「ウケること」でも「人気者や有名人になること」でも「世間に認められる存在になること」でも「カネを稼ぐこと」でもなかった。
「全力を尽くして戦って勝つこと」そして「トップになること」ができれば、後のものは「勝手に付いてきて、然るべきのもの」でしかなく、それらは求めるべき「目標」ではなかった。
時に落合は「カネ」や「待遇」にうるさい「ビジネスライク」な人間のように見られて嫌われたが、それは完全な見当違いだ。彼が、そうしたことにうるさかったのは「評価すべきものは、相応に評価し、評価されなければならない。なぜなら、それをしなければ、野球がダメになるからだ」と考えて「公正さ」を求めていたからなのだ。
そして、そうした考えを「実行」に移すにあたって、落合という男は「みんなのためにも、それは必要なことなんだ」とは、口が裂けても言わなかった。そうした「ウケ狙いのポーズ」は、彼の「美学」が許さない、「誤魔化し」であり「アリバイづくり」であり「保身」でしかなかったからだ。
落合にしてみれば「正しいことをやるのに、どうして言い訳の必要がある。なんで予防線なんて張らなきゃいけないんだ」ということだったのだろう。だから、彼は「説明」をせずに、ただ「実行」した。それが世間からは「オレ流」と言われたものの、正体なのである。
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落合が、これほどまでの「野球バカ」である証拠は、落合のオフの過ごし方にも見える。
落合は、若い頃から暇があれば、映画館に入り浸り、プロになってからも家での映画鑑賞を趣味としたようだ。
著者はここで、落合のビデオ(映画)鑑賞の趣味について、落合自身の「暇つぶしだよ」という説明に「はたしてそうだろうか」と疑問を呈しているが、実際のところ、学生の頃から『空白の時間』を埋めるために映画鑑賞をしてきたのであれば、それは「暇つぶし」そのものなのであろう。
そして、問題は、その「暇」とは何によっての「暇」かということだが、無論その答えは「やりたい野球がやりたいようにできないためにできた、無為の時間」としての「暇」だったのである。
言い換えれば、落合は「野球」以外には「我を忘れるほど楽しめる(執心できる)」ものがなかった。「ビデオ鑑賞」も、それは「楽しめる」ものではあっても、所詮は「娯楽」であり、その意味では「暇つぶし」でしかなかった。落合が、心底から「生きる歓び」を感じることのできたのは、ただ「野球」だけだったのだ。
だから、彼は「野球」においては、「理想主義者」であり「潔癖(完璧・非妥協)主義者」であり「美学に生きる人」だった。そうした態度であってこそ、「野球の喜び」を味わい尽くせると感じていたからだ。当然そこには、「他人の目に配慮する」などという「不純な要素」の入り込む余地などなかったのである。
だが、それが「凡才」に理解できなかったのは、仕方のないことだったのかもしれない。
昔からよく知られる『選ばれてあることの恍惚と不安の二つわれにあり』というヴェルレーヌの言葉があるが、要は「天才」は、天才だけに感じられる非凡な歓びを知ると同時に、その存在の例外性のゆえに「孤独」や「不安」を強いられざるを得ない存在でもあるのだということであり、落合博満もまた、そうした「天才」の一人だった。
つまり彼は、単なる「天才バッター」でもなければ、単なる「天才監督」でもなかったのである。
したがって、落合博満の言うことは、まったく「正しい」。しかし、完全に正しいがゆえに「普通の人間」にはついていけないし、最後の最後では「理解」することもできない。
「天才」とは「恩寵」であり、努力して手に入るようなものではない。それは、それを与えられた者にしかわからない「特権的なもの」であり、「説明」して、他人にわからせることのできるようなものではないのである。その意味で、「天才」とは、「恩寵」であると同時に、「十字架」でもある。それを一人で背負って生きていかねばならない、甘美な重荷でもあったのだ。
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この、ノンフィクションの物語は、落合博満を嫌ったり、畏れたり、理解不能だと、当初は当惑していた選手たちが、やがて落合のもたらしたものに気づくところで、一一言葉としては実に不適切なのだが、「一種の感動的なハッピーエンド」を迎えることになる。だから、この本は多くの読者から支持された。
だが、私たちは、この物語を読むことで「免責」され得るべきではないだろう。
私たちは、いつだって「落合博満を嫌う」側の人間であり、「キリストを殺す」側に人間ではなかったか。一一少なくとも、そう問い続ける必要があろう。
本書が売れて、落合の再評価の機運が高まっても、落合はそれを真に受けることはないだろう。
彼は、そんな「世間並みの栄光」に、チラと視線を向けたとしても、次の瞬間には、そこから視線を外し、顔を伏せて歩き去っていくだろう。彼の栄光とは、世間の人が求める「喝采」の中にではなく、「孤独」の中にしかないものだからである。
(水島新司『野球狂の詩』『あぶさん』)
(2021年11月13日)
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