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山下耕作監督 ・ 中村錦之助主演 『花と龍』 : 人間を信じられた〈良き時代〉

映画評:山下耕作監督『花と龍』(1965年)


「花と龍」というと、長らく、私が思い出すのは、村田英雄が歌った「花と竜」のサビの部分、「それが男さ それが男さ 花と竜」という、サビの部分だけだった。
そして、これはたぶん「昔のヤクザの男伊達」を歌った曲なのだと思っていた。それ以上でも、それ以下でもなかった。

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この曲のサビの部分が頭に残っていたのは、子供の頃、テレビで村田英雄がよく歌っていたからで、私がそれを聞きたくて聞いたのではない。
祖母や両親がテレビを視ている横にいたから、勝手に耳に入ってきただけであり、この曲にも村田英雄にも興味はなかった。そもそも私は、「その世代」の人間ではないのである。

1962年生まれの私は、「演歌」にも「ヤクザ映画」にも興味がなかった。
私は、初代の「ウルトラマン」や「仮面ライダー」の世代であり、「月光仮面」ですら「昔のヒーローもの」でしかなく、「怪傑ハリマオ」「ナショナルキッド」などというテレビドラマがあったのも、実写版の「鉄腕アトム」「鉄人28号」「黄金バット」なんてものがあったというのを知ったのも、ずっと後年で(と言っても、せいぜい十数年後。子供の頃の10年は長い)、自覚的な「アニメファン」になった、高校生になってからである。

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したがって、「演歌」にも「ヤクザ映画」にも興味はなく、当然『花と龍』と題する作品にも、まったく興味がなかった。

私がこの映画に興味を持ったのは、この映画の主人公である実在の人物「玉井金五郎」の孫にあたる、「中村哲」に興味を持ったからだ。
「中村哲」に惹かれ、Wikipediaを見て、彼の祖父が、よくは知らなかったが、あの『花と龍』の主人公だと知り、玉井金五郎とは、どういう人だったのかと興味を持った。
読んだことはないが、名前だけは知っていた「火野葦平」の書いた小説が『花と龍』であり、それが映画化されたのだと知って、ひとまず映画を観ることにしたのである。

ブックオフオンラインで『花と龍』の中古DVDを検索してみると、この作品が何度もリメイクされている人気作品だと知った。主役の玉井金五郎を演じたのは、私が子供の頃の、親の世代の「大スター」たちだったことを知った。具体的に名を上げれば、石原裕次郎、萬屋錦之介(中村錦之助)、高倉健といった人たちである。
最初の映画化作品の主演である、藤田進という俳優は知らなかった。私が生まれる前(1954年)の作品だし、私は「大スター」の多くをテレビで知ったから、あまりテレビに出なかった人は「大昔の人」ということで、記憶する機会もなかったのであろう。今の子供たちが「ネット有名人」に詳しく、「テレビ有名人」にはそれほどでもないというのと、同じことなのかもしれない

私にとって、石原裕次郎はテレビドラマ『太陽にほえろ!』のボス、萬屋錦之介(中村錦之助)は『子連れ狼』や『破れ傘刀舟 悪人狩り』の萬屋錦之介で、旧芸名の中村錦之助ではなかった。高倉健は、テレビコマーシャルでの印象が強い。大スターすぎて、テレビドラマにはほとんど出なかったからだろう。高倉健は「この役の高倉健」ではなく、ただただ「高倉健」だったのである。

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で、私が今回、中村錦之助(萬屋錦之介)主演版の『花と龍』を選んだのは、石原裕次郎や高倉健は「個性が強すぎる」と感じたからだ。
中村金之助が個性的ではないとは言わないが、彼の若い頃の作品はあまり観たことがないし、他の二人よりは、フラットな感じがしたからであろう(私は『破れ傘刀舟』が好きだった。この作品の脚本を書いた池田一朗が、後年、時代小説家・隆慶一郎としてデビューした際にはファンとなり、なるほど『破れ傘刀舟』が面白かったのは、この人が書いていたからかと納得させられた)。

ともあれ、私は「スター映画」が見たかったのではなく、基本的には「玉井金五郎」のことを知りたかったのだ。映画がフィクションであると理解した上で、大筋の事実と雰囲気を掴みたいと思ったのである。

で、大筋の雰囲気を摘むことができた。

玉井金五郎は、若気のいたりで刺青を入れてはいたが、「ヤクザ」ではなく、「沖仲仕の親分」であった。

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また、ぼんやりとしか知らなかったが、「沖仲仕」というのは「港湾荷役作業員」のことであるというのが確認できた。

この映画では、沖仲仕(ゴンゾウ)は、港に直接接岸できないために沖合いに停泊する、石炭を積んだ外国の巨大貨物船から、石炭を手作業で小型船(艀・はしけ)に移して港まで運ぶ、労務作業員であった。
今なら、巨大貨物船も接岸し、ベルトコンベアで荷降ろしをするのだが、昔は沖合で、小型船に積み替えて、それで港まで運ぶという、今からすると、たいへんな手間をかけていたのだ。

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それにしても、人間ベルトコンベア(荷物リレー作業)というのは、見るからに重労働で、昔の肉体労働者というのは、本当にすごい体力だったのだなと感心する一方、事故(労務災害)もさぞや多かったろうと推察できた。

ともあれ、玉井金五郎は、そうした沖仲仕たちを束ねた「玉井組」の親分であった。
「組」と付くと、今では「山口組」に代表される「ヤクザ」を連想するが、そうではない。「玉井組」は、言うなれば、土木建築会社である「大林組」の、小さな「湾港版」だと考えればいいのである。

私は、前記の、中村哲と澤地久枝の対談本『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』のレビュー「〈侠客〉の裔」と題した。無論これは、中村哲が、玉井金五郎の孫だからである。

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「俠客」というと、今では「昔の、任侠のヤクザ」という印象があるが、言葉の定義からすれば「任侠に生きる人は、すべて俠客」であって、ヤクザでなければ俠客ではないということにはならない。
したがって、玉井金五郎は、立派な「俠客」ではあったが、「ヤクザ」ではなかったし、中村哲を「俠客の裔」と呼ぶことも、間違いではないと確認できた。

さて、山下耕作監督・中村錦之助主演の映画『花と龍』の内容は、次のとおりである。

『明治の末門司の港は大陸相手の貿易で湧き返り、多勢の仲仕(ゴンゾウ)が来ていた。浜尾組の玉井金五郎も四国の山奥から一旗あげようと来ていた。

ある日金五郎は、ブラジルへ密航を企だてようとする鉄火肌の女マンに会った。やがて門司一円を襲った“上海コレラ”騒動にまきこまれた金五郎の病床を、マンがたびたび訪れた。金五郎は、男勝りの性格のうちに優しい心遣いをのぞかせるマンにいつか惹かれていった。全快した金五郎は、浜尾組の親方との意見の相違から、マンと一緒に彦島の山下組に職替えしていった。

彦島の貯炭場に落着いた金五郎とマンの目前を、北九州一を誇る吉田磯吉親分が、乾分や芸妓を従えて山下組の事務所へ向った。貯炭場の昼休み、仲仕たちが弁当を広げている最中、マンが金五郎からもらった懐中ランプで一服つけていた時、吉田親分に連れられた芸妓の君香が、マンのライターを譲ってくれとマンに迫まった。仲仕仲間の森新之助がマンを救ったものの、その夜新之助は吉田の乾分に袋叩きにされ、半死半生の格好で放り出された。これを知った金五郎は、吉田親分に直談判に出かけた。だが意外にも吉田親分は全て自分の責任と平謝りに頭を下げた。
一方、新之助は吉田親分の名前で見舞に来た君香に心をうたれ、駆落ちしようとするが、君香は土地の蝮一親分に束縛され、身動き出来ない有様であった。話を聞いた金五郎とマンは、ブラジルへゆくため貯めた金で君香と新之助を逃がしてやった。

彦島にいたたまれなくなった金五郎とマンは、戸畑の永田組に移り、先輩格の角助を押しのけて、親方の代わりに采配をふるった。連合組の慰安旅行に行った金五郎は、刺青師お京に会い、金五郎の左腕に菊を握った竜の刺青を膨らせた。金五郎の腕のみせどころは、パナマ船の積荷争いにあった。競争相手は若松組の友田喜三一派であった。金五郎を目の仇にする角助の邪魔を払いのけパナマ丸の荷役を永田組の手で終えた金五郎の名は、高まっていった。やがて永田組々長引退に代わって、金五郎が親方の座につく玉井組が誕生した。

マンが祝福したこの晴れやかな日は、旅順城の喜びで日本中が湧き返っていた時であった。』

サイト「MOVIE WALKER PRESS」、「花と竜(1965)」ストーリーより)

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今となっては、特別「面白い」映画でもないのだが、それは最初から目的ではなかったので、かまわなかった。当時の風景や雰囲気がつかめたのが、とても良かった。当時の風景、当時の人情、当時の「色合い」。

「色合い」は、当時のフィルムの性能と、それに伴う経年劣化の部分も大きいのであろうが、ややくすんだ、それでいて落ち着いた色彩が、ある種「セピア色」の味わいがあって、どこか懐かしさを覚えた。
私が幼時に接した、色や空気は、これに近いものだったのであろう。「時代の色づかい」というのは、確かにあるからである。

あと、印象に残ったのは、主人公である玉井金五郎・マン夫婦が、とても「ウブで真っ直ぐ(ナイーブ)」なこと。
こうした主人公は、今なら「手垢にまみれすぎている(パターン化されすぎている)」として、とうてい描き得ないであろう。

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それに、何より「敵役」でさえも、今ほど「汚く」はない。
「憎たらし」かったり、「数」に頼んだり、策を弄したりはするけれど、今のドラマの悪役のように、徹底的に「卑怯」ではない。
勝負に負けたら、負けを認める、どこか「あっさりした」ところがあって、今の「悪役」のように、勝負に負けても、証拠が上がっても、嘘が見え見えでも、「認めたら負け」だと、恥も外聞もなく、嘘をつき通すというような「汚らしさ」や「臆面のなさ」「恥知らずさ」が無いのだ。

これは、当時、つまり1960年代という時代が、基本的には「未来を夢見る」ことのできた時代であり、「人間を信じる」ことのできた時代だったからではないだろうか。

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無論、当時だって、徹底的な卑怯者は大勢いただろうが、それが国民一般の共通認識に影を落とすほどではなかった。例外はあるにしろ、全体としては「楽観的」な時代であったからこそ、こんな映画が撮れたのではないかと、私には思える。

今となっては、特別「面白い」作品でもないと、先ほど書いたけれども、こういう作品を楽しめる時代とは、「幸福な時代」だったのだと、そう言い換えることも可能だろう。

そうした視点で、この時代を知らない人に、この映画を見て欲しいと思う。

当時の人は、どうしてこの映画を心底楽しめたのか?
この映画を楽しめる人たちの「世界観」とは、今と、どう違っていたのか?

それを確認するだけでも、この映画を観る価値はあると思う。まさに「温故知新」である。

(2022年8月24日)

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