〈侠客〉の裔 : 中村哲 ・ 澤地久枝 『人は愛するに足り、 真心は信ずるに足る アフガンとの約束』
書評:中村哲、澤地久枝(聞き手)『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』(岩波現代文庫)
本書のタイトルを初めて目にした時に、多くの人が感じるのは「キリスト教の本だろうか?」ということだろう。「愛する」とか「真心」といった言葉を、ストレートかつ肯定的に使ったタイトルの本など、いまどき「キリスト教書」以外には、なかなかお目にかかれないからである。
しかし、表紙の写真(岩波現代文庫版)に写っているのは、中央アジア風の帽子をかぶり真っ黒に日焼けした、あまり垢抜けのしないおじさんで、キリスト教書の表紙に登場する、いかにも「知的で優しげな神父さん・牧師さん」とは、真逆に等しい人である。この写真の人「中村哲」を知らなかったら、きっと、本書のタイトルと表紙写真にギャップを感じ、多くの人は「このひとは、何者なのだろう?」と思うことだろう。
だが、中村哲のWikipediaなどを見てみると、この人がクリスチャンであることがわかり、「なるほど」と納得する人も多いはずだ。
しかしまた、中村が生前になした偉業を知れば、彼が「よくいる口舌のクリスチャン」などではなく、カトリック風に言えば、まさに「聖人」と呼んで良い人だというのを知ることにもなろう。
彼は、医療から遠ざけられた、パキスタンやアフガニスタンの無医地区に赴いて、ボランティアで医療に従事した人である。そして、その医療も、日本人なら避けたがる「ハンセン病」治療であった。
だが、中村の活動はそれに止まらず、彼のハンセン病治療活動を支援するために設立された、日本の民間ボランティア団体「ペシャワール会」からの財政支援を受けながら、彼は無医地区に診療所を開設する活動を始め、自らその先頭に立った。自身とは違った信仰(イスラム教)文化の中で生きる人たちの中に入っていき、「対等の人間」として彼らの信仰や文化を尊重しながら相互理解を深め、彼らのために診療所の開設許可を取り付けた。そして、診療所を建てただけではない。医者がいないのだから、彼は診療所に配置する診察員を、現地に根付いた、現地の人たちから育てることまでしたのである。
さらに彼は、2000年のアフガンの大干ばつで、飲み水と農業用水の枯渇による飢餓と赤痢の大量発生を目の当たりにし、医療の限界を認識するや、井戸掘り活動を初めた。1年間で600を超える井戸を掘り、最終的には1000にも上る井戸を掘ったのだ。だが、うち続く干ばつによって、その井戸さえもが干上がるにいたって、彼はついに用水路建設というケタ違いに大規模な土木工事へと乗り出し、当初「無謀」だと言われながらも、7年の歳月をかけて用水路を完成させ、「死の谷」と言われた場所を緑なす土地に変え、じつに65万もの人の生活と命を救ったのである。
○ ○ ○
このように、中村哲は、「クリスチャン」だからやれた、といった域をはるかに超えた人であった。
中村が洗礼を受けたのは、プロテスタント(新教)系のパブテスト教会だが、「ハンセン病」ということで思いますのは、なんといっても、カトリック(旧教)最大の聖人である「アッシジのフランチェスコ」であろう。
フランチェスコもまた、人々の忌み嫌うハンセン病患者を仕えた人であった。
カトリック教会の現法王(ローマ教皇)であるフランシスコ(本名:ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)の「フランシスコ」という名前は、この「聖フランチェスコ」に由来するものであり、それが意味しているのは「貧しきものに仕える」というものである。
そんなフランシスコは、法王になる前の故郷アルゼンチン時代から、貧困地区を回っては、聖書の教えに倣って、人々の足を洗う「洗足式」を行い、それは、教皇になって以降も続いている。カトリックのトップであるフランシスコが、すべての人に分け隔てなく、人々の足を洗い、地面に這いつくばるようにして、その足にキスをする姿は、多くの人々を驚かせるものであった。
そんな、「聖フランチェスコ」に勝るとも劣らぬ、真に「聖人」と呼ぶにあたいするであろう中村哲という人は、しかし、「聖人」呼ばわりなど真っ平御免の、見かけどおりの「現場の人」であった。まさに彼は、宮沢賢治のあまりにも有名な詩作品「雨ニモマケズ」を、地で生きた人だった。
いや、「雨ニモマケズ」を地でいった、というだけでは足りないだろう。
中村は「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」では済まさず、実際に「ナッタ」人なのだ。
しかし、こういう評価に対し、逆に「いや、中村先生は、弱者や困っている人たちに同情してオロオロするだけのデクノボーではなく、実際にそんな人たちを救ったのだから、宮沢賢治の詩に描かれたデクノボー以上の人であった」と言う人もいるだろう。確かにそのとおりである。
だが、中村自身は、自分がアフガンの人々を救う「聖人」だなどとは思っていなかった。
むしろ、本書でも語っているとおり、自分にできることなど多寡が知れているけれども、現に人々を救うというのが、絵空事の不可能事ではないことを示す「モデルケース(=用水路建設事業)」を作れただけでも意味はあったと思う、という趣旨の、謙虚な自負を語っている。
そしてこれは、決して「謙虚ぶった綺麗事」ではなく、「治療の現場」や「大干ばつの現場」で、為すすべもなく多くの人々の死に立ち会い、時に無念の涙を呑み、時に呆然と立ち尽くすしかなかった、まさに「デクノボー」のように立ち尽くすしかなかった、中村の実感なのである。
実際、中村の死後刊行書のタイトルは『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと』(2021年)となっており、中村本人ならつけなかったタイトルなのは言うまでもないが、生前、中村がこのような趣旨のことを語っており、中村の中には、常に「農民」のために東奔西走した宮沢賢治がいたというのは間違いないだろう。
無論、中村は、自分を「雨ニモマケズ」の「デクノボー」にも、ましてや、グスコーブドリ(「グスコーブドリの伝記」)に重ねて語ることなどせず、あえて「セロ弾きのゴーシュ」を重ねたのであろう。
○ ○ ○
このように、中村哲という人は、ある意味では「アッシジの聖人フランチェスコ」であり、ある時は「雨ニモマケズ」の「デクノボー」であり、最期は「グスコーブドリ」のような、まるで物語の中にしか存在しないかのような、稀有な偉人であった。
だが、彼はたしかに、つい最近まで、生きていた人なのである。「一人の生身の人間」として、その壮絶な人生を生きた、一人の人間なのだ。
だから、私は、彼の「後半生」を描いたドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』のレビューを、次のように書き起こした。
そう、彼はまさに「偉人」ではあったけれども、その反面『一見したところ冴えない、小男の医師』だった。決して「見るからに偉大そう」な人でもなければ、「ヒーロー」めいた人でもなかった。
「ごく普通のおじさん」でしかない彼が、しかし「ごく普通の人、では終わらなかった人」だったのだということを、私はここで伝えたかったのである。彼は決して、最初から「特別な人」ではなかったのだと。
○ ○ ○
だから、本書『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』を読んで、その不意打ちに、心底驚かされた。
私は「どんでん返し」をひとつの「売り」とする「本格ミステリ」という小説ジャンルのファンだったから、たいがいのことでは驚かされない自信があった。そう簡単に「意表を突かれる」ことなどない、という自負があった。
だが、中村の出自を紹介する、本書の第1章での、その「あまりにも意外な真相」に、まさしく、ひっくり返るくらいに驚いた。「まさか、こんな真相が隠されていたなんて…」と、心底驚かされたのである。
私が、驚かされた「中村哲の出自」に関わる「真相」とは、何であったか?
私は、前記のレビューで、中村のことを「普通の人が、普通でないことをした偉人」として描いたのだが、中村は、少なくともその「出自」においては、決して「普通の人」ではなかったのだ。
また、だからこそきっと、中村は、必要のないかぎり、問われないかぎり、自身の出自を語ろうとはせず、むしろ隠し続けてきたのであろう。
だが、本書は、中村の「アフガンでの用水路建設事業」のことを知り、少しでもその力になりたいと願った、高齢のノンフィクション作家である澤地久枝が、企画したものだった。
「用水路建設」のためにどうしても必要な資金を集めるためとは言え、中村自身が現場を離れてまで、日本各地を飛び回って講演会をし、寄付を集めなければならないというジレンマに対し、是非とも力になりたいと考えて企画したものだったのだ。
「中村先生が、もっと有名になって、その事業のことが広く知られれば、先生自身が現場を離れてまで、気の進まない講演会に飛び回る必要はなくなる。だから、少しでも先生を有名にする、お役に立ちたい」と考えて、中村哲という「偉人」を紹介するために企画されたのが本書であった。
だから、澤地は、中村がこれまで語ってこなかった、個人的なことや、その出自まで、遠慮なく聞き出していった。これも「用水路建設」のためには必要なことであるからだし、その趣旨を理解したればこそ、中村はこのインタビューで、全てではないにしろ、自分の出自や家庭の話を、初めて、比較的詳しく語ったのである。
で、私が驚かされた、「中村哲の出自」に関わる「真相」とは、何であったか?
中村は、なんと、あの任侠映画『花と龍』(原作・火野葦平)の主人公である、玉井金五郎・マン夫妻の、孫だったのだ。
(主演の玉井金五郎役は、上から、中村(萬屋)錦之助、石原裕次郎、高倉健、渡哲也)
『ひたむきに信念を貫く金五郎とそれを支えつづけるマンは、戦後に全てを失った日本において、裏切りや屈辱の境遇にあっても人としての品位を守ろうとする、玉井自身の理想を「花」としたものである。』一一まさに、中村夫妻の生き方そのものではないか。
私が、本稿のタイトルを「〈侠客〉の裔(ちすじ)」としたのは、まさにこの故である(ちなみに、火野葦平は、中村の母の兄(叔父)である)。
今の若い人は、『花と龍』と言っても、きっとピンとは来ないだろう。
かく言う私とて、任侠映画としての『花と龍』に興味を持ったことはなかったし、ましてや、この映画に原作があり、その著者が火野葦平であるということも知らなかった。
だが、私がまだ、ごく幼い頃には、任侠映画はその人気を保っていた。高倉健主演の任侠映画が「全共闘の学生」たちから熱い支持を受けていたという話を、後年、何度も耳にし、活字でも読んだ。
要は、全共闘の学生たちは、難解なマルクスの理論ではなく、むしろ「弱きを助け強きを挫く」無私の男伊達に生きる「俠客」たちの生き方に、自己投影をして、胸を熱くしたのであろう。
私も父から「ヤクザ映画から出てきた客は、自分が主人公にでもなった気分なんだろう、肩で風をきって歩くみたいになっていて、滑稽だった」という話を聞いたことがある。
ともあれ、「任侠映画」が人気を博したのは、「全共闘」時代だということなのだから、私が10歳にもならない頃の話だったのである。
(東大生時代の橋本治の作として有名)
そんなわけで、今の若い人なら「ヤクザ映画」は知っていても「任侠映画」は知らないだろうし、このあたりの区別もつかないだろう。私自身、このあたりを区別できるようになったのは、かなり歳を重ねてからであった。
言うまでもなく、今の「ヤクザ=暴力団」には、基本的に「弱きを助け強きを挫く」などという「侠気(おとこ気)」など無い、と言っていいだろう。
いちおう、建前的には「素人衆に迷惑をかけちゃいけない」などという言葉を口にする場合もあるけれども、今のせちがらい「資本主義」の世の中では、「ヤクザ」の世界も「勝てば官軍」になってしまい、「弱きを苛めて強きとなる」のが「ヤクザ」ということになってしまった。
つまり、誰も「ヤクザ」になど憧れることはなく、ただただ、無法者の「暴力団」として、恐れられるだけの存在になってしまったのである。
(民間人襲撃を繰り返した暴力団「工藤会」の野村悟総裁が逮捕され、ついに死刑判決を受けた)
だから、ここでは「俠客」とは、どういうものかを知ってもらわなければならないだろう。それは、今の「ヤクザ=暴力団」とは、似ても似つかないものなのである。
このように見ていけば、中村哲は、「クリスチャン」である以前に、「俠客の血」の流れていた人だという事実を、強く感じないではいられない。
無論、私は、人を「氏や育ち」で判断しようとは思わないし、それは一種の「偏見」でしかないとは思うものの、中村哲個人に関しては、その「育ち」の影響は、とうてい無視できないとしか思えないのだ。
実際、本書でも語られているとおり、中村の出自を知る人は、私が『一見したところ冴えない、小男』と評した中村の風貌を「祖父の玉井金五郎そっくり」だと言うし、事実、前掲の「Wikipedia「花と龍」」に掲載されている「玉井金五郎」の写真は、中村哲そっくりであったのだ。
ドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』の、私のレビューにも掲載した、用水路建設の現場で、自らユンボを操縦する中村のアップ写真は、中村の日頃の温厚朴訥な感じとは異なる「鋭い眼光」を捉えている。
映画なら余計によくわかることだが、この人は、困難に立ち向かって一人でいるときに、しばしばこんな「眼光鋭い目つき」をするのだが、私はこれを「そりゃあ、これほどの困難事に立ち向かっている人なんだから、こんな目つきになることもあるよ」とそんなふうに捉えていたが、やはり、この「眼光の鋭さ」は祖父譲りのものだったのであろう。
○ ○ ○
このようなわけで、中村哲という人は、本書のタイトル「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」という、いかにもキリスト教的な「きれいな言葉」には収まり切らない人であり、彼が「無口」なのは、シンプルな人だからではなく、その熱い想いを、自覚的に秘めていたからである。
本書においては、中村は結構、政治的な問題について、鋭く忌憚のない意見を披露しているのだが、むしろ、こちらこそが中村の素顔だったのであろう。彼は、自分が「評論家」のように「今の日本」を語り批判したところで、アフガンの人たちを救うことはできない、と考えていたのであろう。
無論、だからと言って、彼は「批評家」の存在を否定していたのではないと思う。そういう「役目」を引き受ける人が是非とも必要なことは認めた上で、しかし「それは私の仕事ではない。私の仕事は、宿命的な縁に結ばれたアフガンの人たちを、一人でも多く救うことなのだ」と、そう考えていたのではないだろうか。
だから、彼は、自身の中にある「評論家」的な部分は封印した。
それで敵を作って、無駄な議論をするよりも、多くの人にアフガンの惨状を伝えることで、寄付を集めることの方が重要だったからである。彼個人としては、人になんと言われようと構わなかったのだろうが、彼のアフガン救済という使命を全うするには、彼は日本国内において「憎まれ役」になるわけにはいかなかったのだ。だから「余計なこと」は一切、口に緘して、語ろうとはしなかったのであろう。
そんなわけで本書は、中村の自著では決して語られることのなかった、中村の素顔が描き出されている。
以上の引用は、本書の前半部で、私が特に気に入った部分である。
どうだろうか?
中村哲という人は、決して「単純素朴」な人でも、単純な「理想主義者」でもなかった。
彼は、人間の現実と、その限界を承知しながら、しかし、それを「天命」として受け入れ、ただひたすら自分にできることに、黙々と命を賭した人であった。
本当に、こんな人が最近まで、現に生きていたというのは、少なくとも私にとって、まさしく「希望」である。
決して「人間も、捨てたものではないんだ」と、そう胸を熱くされざるを得ないのだ。
(2022年8月21日)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
・
・