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【MLB】宇野ヘディング事件 再来!

【MLB】宇野ヘディング事件 再来!

皆さん、宇野ヘディング事件はご存知でしょうか? 毎年年末の珍プレー好プレーで登場するあのプレーです。 あれだけクオリティの高いヘディングはそうそう見られるものではありませんが、世界最高峰の選手が集まるはずのMLBで、あの宇野勝選手を超えるとんでもないヘディングが起こりました。皆さんご覧になりましたか? まだご存知ない方はぜひご覧ください! いやー、これ何回見ても笑えます🤣 しかもこのプレーが世界最高峰の舞台であるはずのMLBで起きたことがさらに笑えます ヘディングのクオ

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後輩たちに告ぐ、熱い感情がほとばしる野球を見せてくれ【宇野勝連載#10・最終回】

後輩たちに告ぐ、熱い感情がほとばしる野球を見せてくれ【宇野勝連載#10・最終回】

前の話へ / 連載TOPへ  ショックだったロッテへのトレード通告 1992年10月のオフだった。松浦マネジャー(現運営部長)から私の自宅に電話がかかってきた。 「明日、球団に来てください。代表から話があるそうです」  ちょうど沖縄での秋季キャンプに向け、荷物を詰め込んでいた時だった。  その年、私の成績は110試合で打率2割3分9厘、11本塁打、52打点と振るわなかった。開幕こそ三塁でスタメン出場したが、その後は打撃不振が続き、後輩の前原博之にレギュラーの座を奪われか

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東海道新幹線の高架壁まで飛んでいった清原和博の衝撃の場外弾【宇野勝連載#9】

東海道新幹線の高架壁まで飛んでいった清原和博の衝撃の場外弾【宇野勝連載#9】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 不振の私を吹っ切れさせた落合博満さんの言葉 1988年の中日は夏場まで苦しんだ。4月8日のナゴヤ球場での大洋(現DeNA)戦で、いきなりエースの小松辰雄が試合中に右ヒジ痛を訴えて戦線離脱。その後は連敗が続いた。87年オフに平野謙さんとのトレードで西武から移籍した小野和幸が再三連敗をストップする活躍を見せたが、それでもチームは4月を終え5勝11敗。首位・広島に8ゲーム差の最下位スタートだった。  チーム状態が上がってきたのは6月。小

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落合さんの加入で起きた変化、そして88年の広島との因縁爆発!大乱闘【宇野勝連載#8】

落合さんの加入で起きた変化、そして88年の広島との因縁爆発!大乱闘【宇野勝連載#8】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 「当てろ」のサインもあった時代、遂に広島と… 私が現役だったころのプロ野球は今とは違ってかなり過激だった。今ではあまり見かけない乱闘劇などもよく起こった。そのきっかけのほとんどは故意死球。いわゆるビーンボールだ。 両軍大乱闘となった1988年広島VS中日戦。左が宇野勝  私が2年目、20歳そこそこのときだった。ヤクルトのあるベテラン投手から第1打席にホームランを放った。 「よし。もう1本打ってやる」  意気込んで臨んだ第2打

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ドラ1立浪入団で星野監督から「セカンドに行け」【宇野勝連載#7】

ドラ1立浪入団で星野監督から「セカンドに行け」【宇野勝連載#7】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 休みをなくし罰金増やした星野監督だったが… 星野仙一さんが監督に就任してベンチの雰囲気は一変した。そのピリピリムードはすごかった。監督は何かを蹴るやら、殴るやら…。物もよく壊れていた。野球自体は変わるわけではないので、試合に出ている私にはそれほど影響はなかったが、ベンチにいた選手は大変だっただろうと思う。 闘将・星野監督(右から2人目)  星野さんが監督になって参ったのは休みがほとんどなくなったこと。北海道から帰ってきた移動日に

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39歳の若さで星野仙一氏が監督就任「私でも怖かった」【宇野勝連載#6】

39歳の若さで星野仙一氏が監督就任「私でも怖かった」【宇野勝連載#6】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 莫大借金トラブルも自己最高の41本塁打 1985年、宮崎県串間でのキャンプを終えていよいよ開幕が迫った時だった。前年に本塁打王のタイトルを獲得し、日米野球で存在感を示した私は自信満々でシーズンに入ろうとしていた。名古屋市内の中日新聞社では毎年恒例の開幕直前の激励会があった。その席でいきなりマネジャーに呼ばれ、ある明細書を見せられた。さすがの私も驚いた。  それは私のクレジットカードのもの。そこにはちょっと信じられないような金額の数

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日米野球で2試合3本塁打 今ならメジャーに挑戦していたかも【宇野勝連載#5】

日米野球で2試合3本塁打 今ならメジャーに挑戦していたかも【宇野勝連載#5】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 山内監督は打撃を教えるのが好きな人 1984年から中日の監督は近藤貞雄さんから山内一弘さんに代わった。前任の近藤さんのように怒鳴るような人ではなく、とても穏やかな人だった。そして、何よりも打撃を教えるのが好きな人。監督というよりも打撃を教えている人という印象だった。 野球教室のようにとにかく熱血指導だった山内監督  とにかく教えだしたら止まらない。「やめられない、止まらない」がキャッチフレーズだったカルビーのスナック菓子「かっぱ

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落球した私に近藤監督が激高!味方同士で乱闘騒ぎ【宇野勝連載#4】

落球した私に近藤監督が激高!味方同士で乱闘騒ぎ【宇野勝連載#4】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ あの江川さんを打ち崩し劇的Vへの道開いた 私は18年間のプロ野球人生で2度のリーグ優勝を経験できた。一度も優勝することなく、ユニホームを脱ぐ選手もいる中で幸せなことだと思うし、自分にとって誇りである。  最初の優勝は1982年。監督は近藤貞雄さんだった。大洋(現DeNA)での監督時代に高木豊、屋鋪要、加藤博一さんの俊足トリオに「スーパーカートリオ」と名づけたアイデアマンだが、一方でとても熱い人でもあった。私もよく怒られた。実は試合

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パンチパーマの私に大島さんから〝プロの洗礼〟【宇野勝連載#3】

パンチパーマの私に大島さんから〝プロの洗礼〟【宇野勝連載#3】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ パンチパーマの私を見た大島さんが「坊主にしてこい」 1976年のドラフト会議で中日に3位指名され、プロ入りを決心した私だが、厄介な問題があった。両親が反対していたことだ。どうやって説得すればいいのか。毎日、そればかりに頭を悩ましていたが、そんな時に思ってもみない救世主が現れた。銚子商の2学年先輩で74年の中日ドラフト1位・土屋正勝さんが、交渉中の私の家を訪ねてきてくれたのだ。 「田舎が近いから帰ってきたついでに寄った」  土屋さ

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原と同じチームは嫌だ。だったらプロへ行こう【宇野勝連載#2】

原と同じチームは嫌だ。だったらプロへ行こう【宇野勝連載#2】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 「ショート宇野勝」誕生の裏に先輩篠塚さんの意外な提案 私がプロで10年以上守ることになるショートだが、銚子商のそのポジションには1つ年上の先輩で後に巨人で大活躍をする篠塚和典さんがいた。野球センスの塊のような先輩の前で私の出る幕などないと思っていたら、そんな篠塚さんから意外な申し出があった。 「ダメだ。やっぱり俺がサードやるわ」  新チームでサードをやっていた私とのポジションチェンジを提案してきたのだ。今、振り返っても、なぜ篠塚

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