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デヴィッド・グレーバー 『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい 仕事の論理』 : 〈ブルシット・レビュアー〉を見よ

書評:デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の論理』(岩波書店)

「2021紀伊國屋じんぶん大賞」第1位を受賞していたので読んでみた。昨年の同賞第1位だった『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(東畑開人)が面白かったからである。

本書は、文体こそくだけてはいるものの、中身はかなりハードで、しかも長い。
だから、「クソどうでもいい仕事」という、けっこう身近な問題に関心を持ち、「この文体なら読めそうだ」と、つい勢いで本書購入してしまった人の半数近くは、きっと本書を最後まで読み切ることができなかったはずだ。

本書を最後まで読み切れる人というのは、しんどくて長い本を、それでも最後まで読み切る「習慣」のある読書家であって、「娯楽」や「話題性」や「自己啓発」や「ビジネス書」といったノリで本書を手に取った読者は、90パーセント以上の確率で挫折したはずだ。そして「内容紹介文」などを参考に、「読んだふり」をして、見栄を張っているだけなのではないか。

また、だからこそ、本書を通読できなかった読者の中でも特に無反省な人というのは、自分の「能力」を棚に上げ、そんな自分を正当化するために、「こんなに長く書く必要があったのか」とか「繰り返しが多い」とかいった、恨みつらみに発する、内容空疎な言い訳でしかない「ブルシット・レビュー」を書かざるを得なかったのであろう。浅薄な自己認識としては「せめて悪口でも書かないことには、元が取れない」とでも感じたのかも知れない。

彼らが本書に期待したのは、要は「クソみたいな仕事がある」ということだけ。それを学者が指摘してくれたら、同意見の持ち主として「溜飲が下がる」といったことだけで、彼らには「ブルシット・ジョブ」が、どのようなところか生み出されてきたものであり、それをどう考えるべきか、なんてことへの「知的興味」や「社会的な問題意識」など、そもそも無いのである。要は、彼らは「期待していた娯楽性が足りない(「俺も賢い」と思わせてくれない)」ということで、腹を立てているだけなのだ。
そしてそれは、そうしたレビューを書いている人のホームページをチェックして、彼らがいかに「薄くてわかりやすい本」がお好きかを確認するだけでわかるだろうし、「ベタ誉めするか貶すことは好きでも、論じることはできない」人たちだということもハッキリするだろう。

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さて、肝心の本書だが、私にとっては、一般には自明視されている「労働価値説」を相対化してくれたところだけでも、とても勉強になったし、励ましにもなった。
と言うのも、私は「働かないで遊んで暮らせたら、それに越したことはない」と思っている人間ではあるけれど、だからと言って「労働とは、生きるための必要悪としての苦役」とまでは言い切れなかったからだ。やはり、心のどこかで「労働の崇高さ」という信念に、一目置かざるを得なかったのだが、本書著者は、私の中にもあった、そうした「労働信仰」を、すっぱりと相対化してくれたのである。

本書でも語られているとおり、どうして「市場原理」に反してまで「ブルシット・ジョブ」が増殖していくのかと言えば、それは結局のところ、人間の「妬み」というものの、底知れない強力さのゆえなのであろう。

「俺はこんなに辛い仕事をしている(立派な人間な)のに、楽して稼いでいる(狡い)奴がいる」という「妬み」があるからこそ、「楽して稼いでいる(と感じている)人たち」は、自己防衛のために、自身の仕事を「権威付け、正当化するための仕事」を生まないといけない。そして、そうして生み出された仕事は「無価値な仕事を、価値ある仕事に見せかける仕事」なのだから、それは「価値を生まないし、やっている本人も疚しいし虚しい」ということで「ブルシット・ジョブ」になってしまう。

一方「俺はこんなに辛い仕事をしている(立派な人間な)のに、楽して稼いでいる(狡い)奴がいる」と考えるような、自己中心的な「妬み」に捉われる人というのは、「辛い仕事をして、相応に稼いでいる人」にも「妬み」を向ける。
「(同じように辛い仕事をしているのに)あいつらだけ稼げるのは、不公平だ」というわけだが、そうしたケチな根性によって、「相応に稼いでいる」だけの人の脚をも引っ張ってしまうのである。

そして、これは本書に対する「妬みレビュー」にもよく表れている。要は「こんな、読むのも苦痛な長ったらしい本で、儲けやがって(俺はぜんぜん楽しめず、損したじゃないか)」ということなのだ。
本書がベストセラーにならなければ、そもそもこうした読者の手に取られることもなかっただろうし、「妬みレビュー」を書かれることもなかったわけだが、売れてしまったがために「妬み」を買ってしまったのである。

こうした「妬み」に動機づけられた、「向上心」や「他者への思いやり」に欠けた人が、結局のところ「ブルシット・ジョブ」を生むことになるし、現に自ら「ブルシット・レビュー」を生んでしまう。

本書でも、ニーチェが何度か引用されていたが、「ブルシット・レビュアー」こそ、まさにニーチェの言う「末人」。つまり「憧れを持たず、傲慢とルサンチマンに身を委ねて生きる人」ということなのであろう。

初出:2021年4月8日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年 4月16日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

-------------------------------------------------------------------------【補論 読解力と思考力】(2021.04.09)

本書に対する、薄っぺらな悪口レビューを投げつけるレビュアーに共通するのは「長い文章が読めない」という点だろう。
「読めない」というのは、「最後まで読めない」という意味でもあれば、最後まで読んでも「思考力がついていかず、中身を理解できない」という意味でもある。

つまり、こうした読者というのは、基本的に「考えながら読む」ということができず、少し複雑な議論になると、たちまちついていけなくなり、理解できなくなるのだ。

当然、このように「読解力」を持たず、その基礎となる「思考力」を持たない読者は、テキストであれ、物事であれ、表面的にわかりやすい部分だけで判断し、それをすべてだと考えてしまう。
言い換えれば、こういう人たちは、物事を多面的に見ること、いろいろな角度から検討するということができず、その結果、不十分な対象理解に止まらざるを得ないのだ。

こうした人たちの思考形式を、グレーバーは次のように批判するしている。

『 社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。たとえば、ブルシット・ジョブを政治的に説明するのはまちがってるよ、といってくるひとがときどきいる。そんな仕事があるのは、だれだってお金が必要だからだろ、というのである一一まるで、こうした考えが、わたしの頭をまったくよぎらなかったかのように。ここでは、ブルシット ・ジョブに就いている人びとの主観的動機だけで考えればよいとされているわけで、お金を稼げる唯一の方法がなにゆえそもそもブルシット ・ジョブになってしまうのかといった問いなど、眼中にないのである。
 文化-政治の次元においてはもう最悪である。エリート社会のなかでは、動機を問題にできるとすれば、それは個人的な次元について語るばあいのみであるという、暗黙の了解が形成されてきた。それゆえ、権力的立場にある人間たちは公言していないことでもやるものだ、あるいは、公言しているのとはちがった理由でなにかをやることもあるのだといった意見すらも即座に拒絶され、「パラノイア的陰謀論」とレッテルをあてがわれておしまいなのである。ホームレス問題を原因から根本的に解決することは、保守派(ロー・アンド・オーダー)の政治家とか社会保障の供与者の利害とどっかでぶつかるんだよね、などというと、それはホームレスがいるのは秘密結社の陰謀だというのとどこがちがうの、とか、銀行システムはトカゲが操っているというのとおんなじだよ、などといわれてしまうのである。』(P207)

たぶん、読解力の無い人というのは、この文章の意味も取れないだろう。

『社会問題一般の議論をめぐる混乱のかなりの部分は、たいてい、このような異なる次元の説明を、それらが同時に作用していると考えるのではなく、どれかひとつの次元に帰着させようとするところに起因している。』

グレーバーがここで語っているのは、こういうことだ。
社会問題というのは、いろいろな要素を含み持っており、それらの多様な側面や階層について検討し、それらを総合した上でないと、その実態を正しく捉えることはできないのだが、そうした知的作業は、当然複雑なものになるから、思考力がついていかない人は、検討すべき多くの側面や階層を恣意的に切り捨て、問題を誤ったかたちで一面化し、単純化してしまう。
そのため、そうして得られた事態の理解は、その実態にそぐわない誤ったものとなるのだが、物事を一面的にしか見られない人には、そうした認識しか得られないので、それに固執することで、自身の視野の狭さを正当化するしかない。

こうした人たちの特徴は、複雑なものを複雑なままに把握した上で、その本質を剔抉するというのではなく、自分にもわかる、わかりやすい部分を、すべてだと決めこんでしまう。他の諸要素は「関係ない」と決めつけて排除してしまう、という点だ。

したがって、このような人は、複雑な議論には立ち入らないし、長い文章は苦手だ。多くのことが検討に付されていたのでは、到底ついていけないからである。
だからこそ、彼らは「もっと簡単に書け」「説明がくどい(長い)」などと、議論の中身には立ち入らないで、形式的な部分でばかり、子供じみた難癖を付けるのである。

物事の本質を突いてシンプルに表現するという作業は、複雑なものを複雑なままに正しく認識することが大前提だというのは、物事を論理的に考えることのできる人間には、あまりにも自明な事実であろう。
だが、それが出来ない人は、単純であれば、それでありがたいという話にしかならないのである。

(2022年1月20日)

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