見出し画像

広田照幸 編 『歴史としての日教組』 : 日教組をめぐる〈幻想と現実〉

書評:広田照幸編『歴史としての日教組』(名古屋大学出版会)

「日教組」というものに、極端な「幻想」を抱いている人が少なくない。

それはそうだ。嘘くさい「平和主義」や「大衆主義」を掲げる「左翼」なのだから、じつは「反国家的なイデオロギー」に染まった「狂信者」が多いに違いない 一一と、そう思い込まされるのは、「陰謀論」的通俗ドラマが大好きな「大衆」の常。なにしろ「国家」は、国家体制に批判的である「左翼」については、大衆向けプロパガンダをおさおさ怠ることはないからである。

つまり、社会主義国家でもないかぎり、「左翼」に対する否定的プロパガンダ(政治的宣伝)を行なわない国はないのであって、そういうなかに生まれ育った人の多くは、葬式だの先祖供養だのといった宗教儀礼を疑わないのと同様、「左翼」というのは「普通ではない人たち」だという通俗観念に、無自覚に捕われがちなのである。

しかし「学校の先生」も、所詮は「ただの人」でしかない。
「学校の先生」を「聖人君子」だと信じこんでしまうような心理的な「天使化」も、「学校の先生」を「危険な破壊思想の持ち主」だと信じてしまう心理的な「悪魔化」も、ともに評価の現実的バランスを欠いた「偏見」にすぎない。

当たり前の話だが、「学校の先生」にも、稀に「聖人君子」もいれば、稀に「危険思想の持ち主=悪魔」もいる。
だが、だからと言って、(一事が万事で)「学校の先生」が総じて「聖人君子」だとか「危険思想の持ち主=悪魔」だなどという「非常識な印象(偏見)」を持ち、そうした「自己の偏見」を客観視できないなら、その人こそが、じつは「イデオロギーという悪魔」に憑かれた人なのである。

本書の著者も言うとおり、人間の組織である「日教組」も、その長い歴史のなかで数々の「功罪」を重ねてきた。だが、その両面を知る人は、ほとんどいない。
関係者は、自分の立場から「日教組」を肯定したり否定したりしがちだし、まして、これまで研究らしい研究のなされてこなかった「日教組」について、情報を持たない一般の第三者が「正しい判断」などできようはずもないのは、理の当然であろう。

しかしながら、しばしば人は、自分が専門的知識を持つわけでもないこと(対象)についても、「一言居士」のごとく、それなりの「イメージ(偏見)」だけは持っていて、たとえ専門家による新しい研究成果が出てこようと、自身の「偏見」に従い、その「偏見」を温存する方向で、そうした研究を、肯定的に評価したり、否定的に評価したりしがちである。
特に、なまじ自分が賢いと思い上がっている人は、個人習慣的な「印象論」で、対象を断言的に否定したりしがちなのだ。

例えば「オウム真理教信者」と言うと、「宗教テロリスト」だという「偏見」を持っている人が少なくないはずだが、しかし、そのような評価に当て嵌まるのは「オウム真理教信者のごく一部」でしかなく、大半の「信者」は、他宗派にいくらでもいる、単なる「妄信者」にすぎない。
ただ、あの「地下鉄サリン事件」の実行犯となった、一部の幹部信者の「印象」が強いから、「オウム真理教の信者=宗教テロリスト」などという、誤ったイメージとしての「偏見」を持ってしまいがちなのである。
(キリスト教や神道の歴史を引くまでもないことだが、あらゆる宗教宗派の熱心な信者は、多かれ少なかれ同様の危険性を持っている。なぜなら、彼らの理想は、たいがい「反世俗的」で「超人間的」なものだからだ)

したがって、「日教組の先生」というと「目を吊り上がらせた、左翼イデオロギー信者」だという「印象」を持っている人は、「オウム真理教の信者=宗教テロリスト」という「偏見」を持っている人たちと同レベルの、「通俗的印象論」者でしかない。

当然のことながら、「学校の先生」にも色々いて、「穏健な人」もいれば、「過激な改革論者」もいるし「凡庸な権威主義的保守主義者」もいる。あるいは、「ノンポリ」であるばかりか、教育に対する熱意さえもない「サラリーマン教師」も少なくないはずだ。
いや、むしろ私は「学校の先生」も「ただの人」なんだから、大半は「熱意も信念もほとんど持たないサラリーマン教師」なんじゃないかと疑ってさえいるし、それはそれで、ある程度は「仕方がない」と思っている。なにしろ「人間だもの」、できれば遊んで暮らしたいのである。

「学校の先生」に対し「過剰な期待」を押しつけ、「聖人君子」であることを強要できるほど、私たちは「学校の先生」に給料を払ってはいない。それなのに、「教師は聖職である」というカビの生えたような「タテマエ」を持ち出して、「ただの人」である「学校の先生」全員に「聖人君子」であることを要求するのは、欺瞞的なことだし、そもそも厚かましすぎる。

なのに、「過剰な教師像」を担いで回りたがる人が少なくないのは、なぜか?
一一それは、その方が「都合がいい」からである。

「学校の先生」が「聖人君子」であってくれたら、子供を預ける親としては、こんなにありがたいことはない。安い給料で「他人の子供」のために、自分の家族や生活を犠牲にしてまで、頑張ってくれるはず、だからだ。

同様に、「日教組の先生」が「危険思想の持ち主=悪魔」であってくれたら、「先生は自分の生活のために(労働)運動などするな」とか「政治向きの発言などせず、国家が求める従順で役に立つ国民の製造に専念せよ」などという「人権無視」の命令しても、なにしろ相手は「悪魔」なんだから、こちらの方が「正しい」ような体裁を繕うことができて、たいへん好都合なのである。

私が「日教組」という言葉を初めて意識したのは、「新しい歴史教科書を作る会」などがマスコミを賑わし、ネットでは「ネット右翼」を呼ばれる「匿名のネットイナゴ」が暴れまわりはじめた頃のことである。
当時彼らは「日教組こそが、日本を傾けた元凶」「やつらが子供たちに自虐史観を教え、反日的な思想を植えつけたからこそ、日本人としての誇りを持てない国民が増えたのだ」などと言いつのり「日教組は、ホンネでは暴力革命をめざす極左思想集団である」などと、なにやら確信ありげに繰りかえしていた。

しかし、私が小学校から高校までに接した先生で、そんな「目の吊り上がった教師」は、一人もいなかった。
高校の頃、美術の先生が「日教組で、休みの日にビラ配りをしていたらしい」という「うわさ話」を耳にしたことが一度あるだけで、その先生ですら、授業においては「非常に温和で優しい先生」でしかなかった。

だから、「ネット右翼」たちの描いてみせた「日教組の教師」像というのは、「どこかに、そういう先生もいるらしい」という、じつに漠然たる話でしかなかった。
きっと彼らは、ごくごく稀な「左翼イデオロギーに狂った教師」に運悪く当たってしまい、個人的にひどい目に遭ってしまったものだから、その「恨み」がいつまでも忘れられず、その「ごくごく稀な左翼イデオロギーに狂った教師」に対する復讐の「身代わり」として、「日教組」という看板を目の敵にしているのだろう、としか思えなかった。

大人の常識からすれば「日教組」は、「ショッカー」でも「デストロン」でもないし、ほとんどの先生は「ただの人間」であって、「怪人」などではないはずだからである。

 ○ ○ ○

そうした「常識」を持って本書を読めば、「日教組」とは、やはり「時代と政治状況に翻弄された、ふつうの人たちの組織」でしかなかったというのが、とてもよくわかるし、世間に流布された狂信的な「日教組呪詛の言説」が、いかに「偏見」に満ちたものでしかなかったかというのも、よくわかる。

戦後に設立された「日教組」は、GHQが当初掲げていた「リベラルな平和主義(民主主義)」を素直に信奉し、「右から左まで、みんなで協力して、教師の生活向上と平和教育の実現を目指そう」と考えた、今から見れば、非常に「ナイーブな理想主義者(戦後民主主義者)」たちでしかなく、右翼や保守が描いたような「暴力革命を信奉する、過激な左翼テロリスト(であり、その養成者)」などではなかった。

もちろん、「左右を取り揃えた組織」の中には、「左右の両極」という「特別に目立つ、少数の人たち」もいただろうが、そのほとんどは、むしろ「ヌルい集団主義者」だった。
だからこそ、東西冷戦体制をうけてGHQが方向を転換すると、「日教組」は、従来の「リベラルな平和主義」を守ろうと行動し、高度経済成長の後には、労働運動の一角をなす存在としてストなどにも参加し、時代とともに労働運動が退潮していくと、組織を守るために運動方針の転換をし、文部省との歴史的和解をおこなって、現実的だが尖ったところのない、面白みのない組織になってしまったのである。

本書は、このような「日教組の現実(素顔)」を、地道な研究によって描き出した、非常に素晴らしい研究書である。

「イデオロギー的な図式主義」の派手さは一切なく、地味な事実の掘り起こしと突き合わせによって、「日教組」という「人間集団」の、「さもあらん」という姿をリアルに描いてみせた。
「善か悪か」「敵か味方か」といった描き方をしてもらわないと「興奮できない」エンタメ読者向きではないけれども、「現実って、こんなもんだよな」ということの「重み」をしっかりと伝えてくれる篤実な研究書として、私は本書に賛辞を惜しまない。

「派手な思想劇というエンターティンメント」ではなく、その「先入観に曇った目」を晴らしてくれる「普通の人々の、ありがちな歴史」という「現実」を知りたければ、ぜひとも本書を手に取るべきである。
そこにはたしかに、「普通の人々」の「在りし日の息づかい」が感じられるはずだ。

(2021年7月4日)

 ○ ○ ○







 ○ ○ ○

















この記事が参加している募集

読書感想文