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石田光規 『 「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」 人間関係を考える』 : さみしい 〈ムレの時代〉

書評:石田光規『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)

「人それぞれ」という言葉がよく口にされ、妙に物わかり良い「個性尊重=個人尊重」の時代であるはずにも関わらず、わが国の現実は、あいかわらず「無難に右へ倣え」である。

こんな状態では、とうてい「個性尊重=個人尊重」などとは言えず、私はしばしば、顔の見えない「非個性的な群(例えば、ネトウヨなど)」に対し「お前ら、『ムーミン』に出てくるニョロニョロみたいな群棲動物か」などという悪罵を投げつけたりしている。

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そんなわけで、昨今よく口にされる「人それぞれ」というのは、実際には「個性尊重=個人尊重」を意味しはしない。おおよそ「私は私で勝手にやるから、あなたはあなたで勝手にやってください。私のことには口出ししないでね」というほどの意味で、基本的に「他者の個性の尊重」という積極的な意味合いはない。
ただ「自分が尊重されたいだけ」であり、「その限りにおいて、交換条件的に、あなたの言動も尊重して、干渉しないことにしましょう」というほどのことだ。だから、この「人それぞれ」という言葉には、「思いやりが無く」「うそ寒い」印象があるのだ。

本書のタイトル『「人それぞれ」がさみしい』というのも、おおむねそういうことで、我が国において昨今頻用される「人それぞれ」という言葉の「人」というのは、ほとんど「私」のことでしかなく、「他人=他者」のことではない。「他者」に積極的かつ肯定的に働きかける「個性尊重」つまり「あなたはそれで良いのだ=私や他のみんなに合わせなくても、全然かまわない」というようなニュアンスは、まったく無い。そうではなく、まるで真逆に「私に干渉するな」という、消極的な「守りの姿勢」なのである。だから、結果としては「さみしい」関係にしかならない。

サブタイトルにある「「やさしく・冷たい」人間関係」という「矛盾」も、本当は、その「やさしさ」が、自己防衛のための「やさしさ」、つまり「他者へと向いていない、偽のやさしさ」でしかないからこそ、実際には「冷たい」ものでしかなくなってしまうのである。

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以下は、本書の流れに沿って、著者の意見を引用しつつ、補足的に私の「実践」について語ることにする。

(1)『多少自分の意見をまげても、友人と争うのは避けたい』(P45)

(2)『「人それぞれ」という言葉が発せられると、それ以上に話を掘り下げるのは難しくなります。討論の事例も同じです。「人それぞれ」という言葉が発せられると、あまり議論は深まっていきません。
「人それぞれ」という言葉には、一見すると、相手を受け入れているような雰囲気があります。しかし、この言葉は、一度発せられると、互いに踏み込んでよい領域を区切ってしまいます。それに加え、それぞれが選択したことの結果を、自己責任に回収させる性質もあります。
 主義・信条を率直に表明できる「個を尊重する社会」を目指した私たちは、いつの間にか、それぞれの人たちを不透明な膜で仕切った「人それぞれの社会」をつくりあげてしまいました。「人それぞれ」の横行する社会で、対立や批判をも含んだ強靭な関係や、共感をともなう関係をつくることは難しいでしょう。
 このような状況は、友人といると却って疲れてしまう、という皮肉な結果をもたらします。先ほどあげた「青少年研究会」の調査では、「友達といるよりひとりで一人が落ち着く」という質問への回答も求めています。この質問に「よくある」「ときどきある」と答えた人は、二〇〇二年の四六%から、二〇一二年には七一・七%にまで上がりました。今や友人関係は、「気の置けない」ものではなく、「人それぞれ」の優しさに包まれた気遣いの関係に転じたのです。』(P50〜51)

これは、現代の日本人として、誰もが実感できることだと思う。たしかに、一見したところでは、みんな「優しく」なった。上司、先輩、先生であろうと、頭から人の意見を否定する、なんてことはなくなった。
しかし、それは「パワハラ」になるのを恐れるだけであったり、そもそも「嫌われ者になりたくない」だけで、「嫌われてでも、言うべきことは言う」という、人間関係における責任感が失われただけだろう。要は「自由放任による責任回避」である。

皆がそのようにして「我が身可愛さ」のゆえに「優しい人」「物分かりのいい人」を演じるのだが、実際のところ、他人や社会のことなど気にはしておらず、要は、我が身可愛さの「保身と人気取り」でしかないから、自ずと、そんな空疎な人間関係には「虚しさ」だけがつのって、疲れてしまうのだ。

(3)『高まる孤立の不安』(P51)

(4)『しかし同じ調査で、「友達と連絡を取っていないと不安」と答えた人は、なんと八四・六%もいます。つまり、若い人たちは、「友達といるより一人が落ち着く」にもかかわらず、「友達と連絡を取っていないと不安」と考えているわけです。
 この結果には、「人それぞれの社会」で形成される友人関係への不安と疲労の色合いがにじみ出ています。互いに傷つけないよう、あるいは、場を乱さないよう配慮する関係性は、高度なコミニケーション技術を要するため疲れます。だからこそ、多くの若者は、「友達といるより一人が落ち着く」と考えます。
 しかし、その一方、人と人を強固に結びつけてきた接着剤は弱まり、友人関係とはいっても、切り離される不安がつきまといます。だからこそ、人びとは、関係から切り離されないよう、高度なコミニケーション技術を駆使してでも、「友達と連絡をとって」いるのです。』(P53〜54)

先日私は、佐々木チワワ著『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』のレビュー「一億総〈ぴえん〉化した日本」に、次のように書いた。

『40歳くらいの頃だったか、高校3年時クラス会があった。卒業の翌年に開かれて以来の、二度目の同窓会である。
同窓会役員が、やる気のないやつだったので、そんな具合だったのだが、私自身は、高校生当時から、二人の親友以外には、ほとんど付き合いもなければ興味もなかったので、同窓会がなくてもぜんぜん平気だった。そもそも、その親友たちであっても、めったに連絡など取らなかったのである。』

要は、連絡なんか取らなくても、彼ら(親友)とは「今でも繋がっている」という自信や安心感があるから、わざわざ「ご機嫌伺い」なんかはしなかった、ということである。
ところが、今日の友人関係というのは、これの真逆なのだ。

(5)『寂しい日本人』(P54)

あまりにも古い議論だが、今でも「本気で(腹を割って)議論することすらできない日本人」という、こうした評価は生きているだろう。いや、統計的に見ても、日本人が「寂しい」人間関係しか持てていないというのは明らかなのだ。

(6)『ケンカしてしまうと友情が修復できない』(P59)

あえて言ってしまえば、「友情コジキ」「友達コジキ」であり、結果として「追えば逃げる」の典型である。

こうなってしまうのは、無論「個の確立」がなされていないからであり、そうなるのは「ぴえん」たちと同様、生育環境的に仕方のない部分もあって同情に値するのだが、しかし、同情しているだけでは、何も改善されないだろう。
体力がなければ、体力をつけるしかないし、体力がつけられないのなら、他の部分で強くなるしかない。なにしろ「冷たい人間関係」であり「他人には干渉しない」「自己責任」の国なのだから、弱いままでは、死の中に放置されるだけなのである。

(7)『 つまり、親友のよさや友情の素晴らしさを訴えかける記事が増えたのです。これらの記事では、人間性のなかから、批判、愚痴、ねたみ、利己性、あきらめ、放棄などの暗い部分を抽出・除去した、「無菌化された友情」の物語が展開されています。
 新聞は、世論を作り出すと同時に、世相を色濃く反映しています。この点を考慮すると、二〇〇〇年代以降の「友情の物語」を題材とした記事の増加は、人びとが「友情の物語」を望んでいる事実を表している、と言えます。』(P61〜62)

今も昔も若い人は「本音と建前」の区別がつかない。しかし、昔なら、十代も半ばになれば、その「欺瞞」に気づいて「大人はずるい」と批判し始めるのだが、今の大人は、もっと巧妙だから、若者は「本音と建前」の使い分けに気づかないまま社会に放り出されて、「隠された本音社会」の中で、あくまでも教え込まれた「建前」を生きようとして苦しむのである。

(8)『不平等を見過ごす冷たい社会』(P84)

自分のことで精一杯の「心の貧しい」人たちは、他の「貧しい」人たちの「当たり前に恵まれた部分」を妬んで、自分と同じ位置にまで引きずり下ろし、同じ苦しみを味わわせようとしてしまいがちだ。

それこそが「平等」だというのが、「在日特権は許さない」などと「ゆがんだ被害者意識」を振り回していた「在特会」だが、多くの「心の貧しい人」たちも、本質的には、こうした「ネトウヨ的な心性」を、多かれ少なかれ共有している。

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(「在特会」と初代会長だった桜井誠

(9)『 現状に息苦しさを覚える私たちは、「昔はもっと大らかだった」、「昔はもっと豪快な人がいた」などと言って、「人それぞれ」ではない社会の気楽さを懐かしみます。「生きづらさ」は、現代社会を象徴するキーワードのひとつになっています。その背後には、キャンセルや迷惑センサーをちらつかせて、萎縮によって人びとを統制しようとするシステムの存在がほの見えます。
 かつて私たちは、農村社会を集団的体質の残る息苦しい社会とみなし、批判の対象に据えました。現代社会は、人びとを統制する方法がキャンセルや迷惑センサーに転じただけで、集団的体質そのものは変わりません。このような社会で「生きづらさ」を感じるのは、むしろ必然と言えます。以上のような状況を勘案すると、日本社会の集団的体質は未だに健在だと思わせられます。』(P126〜127)

「キャンセル」とは、要は「相手にしない」「無視する」「村八分にする」といったことであり、「迷惑センサー」とは「マスク警察」などに見られる「偏狭な倫理観を、他人にまで強要する人たちの感覚」のことだ。

(10)『身近に「異質な他者」がいない社会』(P159)

これは、例えば先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」に対する、豊崎由美バッシングがその典型だろう。けんごのような「お子様向けレビュアー」など、いくら人気があっても「そんなものは認めない」という「少数意見」を、「お子様世間」は決して認めないのだ。
要は、批評家が「駄作は駄作だ」と言うことを許さないのである。なぜなら、その駄作を駄作とわからない自分も、駄作だと言われているに等しいからである。

しかし、事実、その読者自身が「駄作」とまでは言わなくても、「未熟」極まりない「お子様」ではないのか。「お子様」が、「お客様は神様です」で、建前だけの「大人」扱いをされて、勘違いしているだけではないのか。そんな「未熟な大人」が、「正当に評価」されたことをして「傷つけられた!」と被害者ヅラの自己防衛によって、「未熟なままでいたいだけ」ではないのか。

(11)『 ここまで、「人それぞれの社会」はどのような性質をもち、また、そこでは、どういった問題が生じたのかみてきました。
 さて、本書には、「人それぞれの社会」をテーマとしていること以外に、もうひとつの共通点があります。皆さんお気づきでしょうか。
 共通しているのは、いずれの章でも、「自分とは異なる、あるいは、批判的な意見をもった他者の存在感がうすい」ということです。本章では、「自分とは異なる、あるいは、批判的な意見を持った他者」を「異質な者」、このような人びとの「存在感がうすい」ことを「異質な他者の不在」と表現します。』(P159)

「異質な者」一一これが私である。
もちろん、私は、それを意識的に、範を示さんとやっている。

「それもわかるけど、こうじゃないの?」などという、当たり前に「腰の退けた(予防線を張った)」物言いではなく、「それは間違いだよ。なぜならば、これこれこうだからだ。反論できる?」という言い方をして、挑発的に「思考を促している」のである。

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(12)『 このように書くと、「いやいやその意見は極端すぎる、自由にしつつも頑健さを保証する道はあるはずだ」という意見が聞こえてきそうです。しかし、私は自らの考えが極端だとは思いません。
 識者と呼ばれる人たちは、必死になって対話や相互理解の重要性を訴えています。しかし、現実の社会は、呼びかけとはほど遠い状況にあります。
 個人レベルでいうと、人は「それぞれ」の殻に閉じこもり、おたがいに深く関わろうとしません。孤立や孤立死も問題になっています。社会レベルでは、分断や対立の火種が広がっており、格差も拡大しています。
 私は、相互理解をうながす深い対話は、つながりの頑強さの保証とセットでなければ実現し得ない、と考えています。「『それぞれ』人の意向には配慮しましょう。でも、時には深く話しましょう」などというムシのいい言葉で、人が集まるとは思えません。
「人それぞれ」や多様性を重視する論者は、「人それぞれ」や多様性という考え方じたいに、対話を阻害する作用があることも意識するべきでしょう。自主性と個の尊重ばかりに目を向けるのではなく、社会としてつながりに頑強さをいかに取り込むか。そのことをもっとしっかり議論すべきだと私は思います。』(P178〜179)

まったく同感である。
「自分で戦わなければ、相手の好きにされてしまう」「声のデカイ奴が勝つ」「頭の悪い多数派がゴリ押しをする」ということになるのが、残念ながら、この社会の、一面の真実なのだ。いつでも「他人が何とかしてくれる」などと思っていたら、いいように排除されるだけなのである。

だから、戦わなければならない。そして、傷つき苦しむ中で、自分を鍛えていくしかない。
この私だって、そうだったし、今もその最中だから「本を読んで、自分を鍛えている」のである。娯楽小説ばかりを読んで、現実逃避しているような甘ちゃんが、私の相手にもならないのは、理の当然なのだ。

これは、「作家」だ「小説家」だ「知識人」だなどといっても、まったく同じである。
彼らは「作品の中という安全圏」においてだけ「ご立派」だが、そこから一歩外に出て、「平等の対論」の場に立つことなどできない。「先生」として(あるいは「商品」として)「下駄を履かせてもらい」「相手が手加減してくれる」ような場でないと、怖くて出てこられない者が大半なのだ。その伸びきった「ピノキオの鼻」をへし折られるのが、怖くて仕方ないのである。

(13)『 迷惑をかけないよう、あるいは、場の空気を乱さないよう自らを律することのできる人は、たしかに立派です。しかし、それと同時に、おたがいに迷惑をかけつつも、それを笑って受け容れられるつながりも同じくらい大事だと思いますし、私は、後者のほうに居心地のよさを感じます。
 このようなつながりは、おたがいが相手の持つ異質さを受け容れることをによって初めて得られるものです。
 私たちは豊かになったからこそ、「一人」になるだけでなく、相手の前にあえてとどまり、「ただつき合う」ということをもっと意識した方がよい。そこから得られる多様性もあるのではないかと考えています。』(P186)

シンプルな言い方をすれば、いつだって「生きることは戦い」(出崎統監督『家なき子』)なのだ。
ただ、そうした真剣な戦いの中でこそ、真の友情だって生まれるのである。「百円ショップの友情(=イイね)」なんかを買い占めようとするのは、もうやめようではないか。
よほどのバカでなければ、いずれその虚しさに、気づかざるを得ないのだから。

(2022年1月25日)

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