石田光規 『 「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」 人間関係を考える』 : さみしい 〈ムレの時代〉
書評:石田光規『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)
「人それぞれ」という言葉がよく口にされ、妙に物わかり良い「個性尊重=個人尊重」の時代であるはずにも関わらず、わが国の現実は、あいかわらず「無難に右へ倣え」である。
こんな状態では、とうてい「個性尊重=個人尊重」などとは言えず、私はしばしば、顔の見えない「非個性的な群(例えば、ネトウヨなど)」に対し「お前ら、『ムーミン』に出てくるニョロニョロみたいな群棲動物か」などという悪罵を投げつけたりしている。
そんなわけで、昨今よく口にされる「人それぞれ」というのは、実際には「個性尊重=個人尊重」を意味しはしない。おおよそ「私は私で勝手にやるから、あなたはあなたで勝手にやってください。私のことには口出ししないでね」というほどの意味で、基本的に「他者の個性の尊重」という積極的な意味合いはない。
ただ「自分が尊重されたいだけ」であり、「その限りにおいて、交換条件的に、あなたの言動も尊重して、干渉しないことにしましょう」というほどのことだ。だから、この「人それぞれ」という言葉には、「思いやりが無く」「うそ寒い」印象があるのだ。
本書のタイトル『「人それぞれ」がさみしい』というのも、おおむねそういうことで、我が国において昨今頻用される「人それぞれ」という言葉の「人」というのは、ほとんど「私」のことでしかなく、「他人=他者」のことではない。「他者」に積極的かつ肯定的に働きかける「個性尊重」つまり「あなたはそれで良いのだ=私や他のみんなに合わせなくても、全然かまわない」というようなニュアンスは、まったく無い。そうではなく、まるで真逆に「私に干渉するな」という、消極的な「守りの姿勢」なのである。だから、結果としては「さみしい」関係にしかならない。
サブタイトルにある「「やさしく・冷たい」人間関係」という「矛盾」も、本当は、その「やさしさ」が、自己防衛のための「やさしさ」、つまり「他者へと向いていない、偽のやさしさ」でしかないからこそ、実際には「冷たい」ものでしかなくなってしまうのである。
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以下は、本書の流れに沿って、著者の意見を引用しつつ、補足的に私の「実践」について語ることにする。
これは、現代の日本人として、誰もが実感できることだと思う。たしかに、一見したところでは、みんな「優しく」なった。上司、先輩、先生であろうと、頭から人の意見を否定する、なんてことはなくなった。
しかし、それは「パワハラ」になるのを恐れるだけであったり、そもそも「嫌われ者になりたくない」だけで、「嫌われてでも、言うべきことは言う」という、人間関係における責任感が失われただけだろう。要は「自由放任による責任回避」である。
皆がそのようにして「我が身可愛さ」のゆえに「優しい人」「物分かりのいい人」を演じるのだが、実際のところ、他人や社会のことなど気にはしておらず、要は、我が身可愛さの「保身と人気取り」でしかないから、自ずと、そんな空疎な人間関係には「虚しさ」だけがつのって、疲れてしまうのだ。
先日私は、佐々木チワワ著『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』のレビュー「一億総〈ぴえん〉化した日本」に、次のように書いた。
要は、連絡なんか取らなくても、彼ら(親友)とは「今でも繋がっている」という自信や安心感があるから、わざわざ「ご機嫌伺い」なんかはしなかった、ということである。
ところが、今日の友人関係というのは、これの真逆なのだ。
あまりにも古い議論だが、今でも「本気で(腹を割って)議論することすらできない日本人」という、こうした評価は生きているだろう。いや、統計的に見ても、日本人が「寂しい」人間関係しか持てていないというのは明らかなのだ。
あえて言ってしまえば、「友情コジキ」「友達コジキ」であり、結果として「追えば逃げる」の典型である。
こうなってしまうのは、無論「個の確立」がなされていないからであり、そうなるのは「ぴえん」たちと同様、生育環境的に仕方のない部分もあって同情に値するのだが、しかし、同情しているだけでは、何も改善されないだろう。
体力がなければ、体力をつけるしかないし、体力がつけられないのなら、他の部分で強くなるしかない。なにしろ「冷たい人間関係」であり「他人には干渉しない」「自己責任」の国なのだから、弱いままでは、死の中に放置されるだけなのである。
今も昔も若い人は「本音と建前」の区別がつかない。しかし、昔なら、十代も半ばになれば、その「欺瞞」に気づいて「大人はずるい」と批判し始めるのだが、今の大人は、もっと巧妙だから、若者は「本音と建前」の使い分けに気づかないまま社会に放り出されて、「隠された本音社会」の中で、あくまでも教え込まれた「建前」を生きようとして苦しむのである。
自分のことで精一杯の「心の貧しい」人たちは、他の「貧しい」人たちの「当たり前に恵まれた部分」を妬んで、自分と同じ位置にまで引きずり下ろし、同じ苦しみを味わわせようとしてしまいがちだ。
それこそが「平等」だというのが、「在日特権は許さない」などと「ゆがんだ被害者意識」を振り回していた「在特会」だが、多くの「心の貧しい人」たちも、本質的には、こうした「ネトウヨ的な心性」を、多かれ少なかれ共有している。
(「在特会」と初代会長だった桜井誠)
「キャンセル」とは、要は「相手にしない」「無視する」「村八分にする」といったことであり、「迷惑センサー」とは「マスク警察」などに見られる「偏狭な倫理観を、他人にまで強要する人たちの感覚」のことだ。
これは、例えば先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」に対する、豊崎由美バッシングがその典型だろう。けんごのような「お子様向けレビュアー」など、いくら人気があっても「そんなものは認めない」という「少数意見」を、「お子様世間」は決して認めないのだ。
要は、批評家が「駄作は駄作だ」と言うことを許さないのである。なぜなら、その駄作を駄作とわからない自分も、駄作だと言われているに等しいからである。
しかし、事実、その読者自身が「駄作」とまでは言わなくても、「未熟」極まりない「お子様」ではないのか。「お子様」が、「お客様は神様です」で、建前だけの「大人」扱いをされて、勘違いしているだけではないのか。そんな「未熟な大人」が、「正当に評価」されたことをして「傷つけられた!」と被害者ヅラの自己防衛によって、「未熟なままでいたいだけ」ではないのか。
「異質な者」一一これが私である。
もちろん、私は、それを意識的に、範を示さんとやっている。
「それもわかるけど、こうじゃないの?」などという、当たり前に「腰の退けた(予防線を張った)」物言いではなく、「それは間違いだよ。なぜならば、これこれこうだからだ。反論できる?」という言い方をして、挑発的に「思考を促している」のである。
まったく同感である。
「自分で戦わなければ、相手の好きにされてしまう」「声のデカイ奴が勝つ」「頭の悪い多数派がゴリ押しをする」ということになるのが、残念ながら、この社会の、一面の真実なのだ。いつでも「他人が何とかしてくれる」などと思っていたら、いいように排除されるだけなのである。
だから、戦わなければならない。そして、傷つき苦しむ中で、自分を鍛えていくしかない。
この私だって、そうだったし、今もその最中だから「本を読んで、自分を鍛えている」のである。娯楽小説ばかりを読んで、現実逃避しているような甘ちゃんが、私の相手にもならないのは、理の当然なのだ。
これは、「作家」だ「小説家」だ「知識人」だなどといっても、まったく同じである。
彼らは「作品の中という安全圏」においてだけ「ご立派」だが、そこから一歩外に出て、「平等の対論」の場に立つことなどできない。「先生」として(あるいは「商品」として)「下駄を履かせてもらい」「相手が手加減してくれる」ような場でないと、怖くて出てこられない者が大半なのだ。その伸びきった「ピノキオの鼻」をへし折られるのが、怖くて仕方ないのである。
シンプルな言い方をすれば、いつだって「生きることは戦い」(出崎統監督『家なき子』)なのだ。
ただ、そうした真剣な戦いの中でこそ、真の友情だって生まれるのである。「百円ショップの友情(=イイね)」なんかを買い占めようとするのは、もうやめようではないか。
よほどのバカでなければ、いずれその虚しさに、気づかざるを得ないのだから。
(2022年1月25日)
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