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デヴィッド・ I ・カーツァー 『エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命と イタリア統一』 : 親子を引き裂いた 「神の真理」という 美しき妄想

書評:デヴィッド・I・カーツァー『エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一』(早川書房)

識者と呼ばれる人の中にも「プロテスタントは理論先行で融通が利かない(そのために際限なく分裂する)が、その点カトリックにはいろんな人を受け入れる寛容がある」というような半可通を語る人が少なくない。

しかし、カトリックは「寛容」なのではなく「ご都合主義のダブルスタンダード」なのだ。
つまり、カトリック教会の権威を認めるかぎりは、いくらでも融通を利かせてみせるが、それに反する態度を見せる者に対しては、いきなり「原理主義」的な態度になる。

前者の好例が、俗信の追認でしかない聖母マリア信仰や聖人信仰であろう。
逆に、カトリックが本来持っている権威主義的な頑なさを示す後者の好例が、この「エドガルド・モルターラ誘拐事件」だ。

本書にも描かれているとおり、社会の近代化に伴い、カトリック教会も否応なく(ある程度は)「寛容」とならざるを得なかったし、もちろんカトリックの司祭にもいろんな人がおり、現法王(ローマ教皇)フランシスコのようにリベラルで、民衆の側、平信徒の側に立つ人も稀にはいただろう。
だが、教会そのものの本質は、本書の主要登場人物の一人である、ローマ教皇ピウス9世のように、基本的に「自分たちの権威=神の権威」というものだったのであり、そこに、人間の平等や弱者の権利などは無い。
全ての人は、神の国への鍵を委ねられた公同の教会の教導に従うが良い。一一 これが基本中の基本、原理中の原理である。

だから、彼らの権威や強権を制限するように見える存在は、たとえフランシスコ法王であろうと、神に抗する存在として(隠微に)敵視されてしまうことになる。
フランシスコ法王治世だからこそ進展中の、「司祭による児童への性的虐待」の告発さえ、さも現法王の管理責任であるかのように言い募って脚を引っ張る、現実を見ようとはしない「保守派」が存在する。
こうした「カトリック保守派」の眼には、性的虐待を受けた子供たちは、教会政治的な利用価値こそあれ、「救うべき弱者」とは映っていないのである。

「エドガルド・モルターラ誘拐事件」もまた「児童への性的虐待事件」と、本質は同じである。

こうした教会に不都合な問題を扱う場合、まず優先されるのは「教会の権威=教会の正義」である。それを押し通すためならば、子供たちの親を恋い慕う気持ちも踏みにじられ、手間暇かけた虚偽と隔離洗脳で正当化を図って、なんら恥じるところがない。

神の意志を体現し、それを実現するための彼らの行動は、よく知られるとおり「宗教殺人としての異端審問」すら教会法に基づく「正義」とされてしまう。
そんな「狂気」の事実が、本書に余すところなく描かれている。

宗教が政治権力を握り、しかもその権力が揺らぎ出した時に、彼らがどのようなことを始めたのか、私たちはしっかりと知っておく必要がある。
先述した「カトリック保守派」の事実にも明らかなとおり、こうした「妄想」は、過去の話ではなく、今もこの日本においても、生きてある現実だからだ。

仮に今、カトリック教会に絶大な統治権力を与えられたならば、彼らはその信仰の正義において、今でも誇りを持って、異端審問所を再開して見せるだろう。
時代を渡り行く「旅する教会」には、そうした危険性が密かに生き続けているのである。

信仰のグロテスクさは、何より、成人したエドガルド・モルターラの姿に象徴的である。

そして全ての人は、エドガルドのこの「変容」に直面すべきだ。
善かれ悪しかれ、これが「信仰」の力なのである。

初出:2018年10月10日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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