見出し画像

メアリー・マッカーシー 『私のカトリック少女時代 (須賀敦子の本棚)』 : 神の統べない〈自由な世界〉

書評:メアリー・マッカーシー『私のカトリック少女時代  (須賀敦子の本棚)』(河出書房新社)

「棄教」という言葉には、重いイメージが貼付いている。何故だろうか。

それは、信仰という「人生を賭けた選択」の一大方向転換なのだから、重いものになるのは当然だと、一応そのように説明することは可能だろう。しかし、そこには「当然、重いものでなければ困る」という気持ちが込められてもいる。なぜなら「信仰」ということが「軽いもの」であっては困る人が大勢いるからだ。

しかし、当人の意志に関わりのないところで、生まれた時から信仰を与えられていた少女にとっては、信仰に重いも軽いもない。問題は、信仰が「当たり前のことか、そうじゃないか」あるいは「本当か嘘か」が問題なのだ。そこに大人のような「体面(面子)」や「打算(契約)」など、まだ無いのである。

『教えに背いたカトリックとして、私は神が結局存在するのかもしれないという可能性に頭を悩ませたりはしない。もし神が存在するとしたなら(私にとってそれは疑わしい以上のものがある)、私はきっと来世で厄介な時を過ごすことになろうが、自分の魂を救うために神を信じるという取り引きをするつもりはない。パスカルの賭けは一一自分自身と賭けをして、たとえそれが理性で証明できなかったとしても、神が存在するという方に賭けたもの一一慎重に過ぎるように思える。神が存在するかのようにふるまうことで、パスカルにどんな失うものがあったというのだろう? まったくなにもない。というのも、神が存在しなかった場合、彼を地獄行きにするなんの反原則もないからである。私自身は、そんな(※ 不公平で不誠実な)安全策を取りたくないし、いまわの際に神父を呼びにやったり、痛悔の祈りを唱えるつもりはまったくない。永遠に魂を失ったところでべつにかまわない。取り引きをしなかったことで私を地獄行きにするような神が存在したとすれば、それは運が悪いだけの話。そういう奴と一緒に永遠を過ごすなんて願い下げだ。』(P33、※は引用者補足)

宗教改革以前の西欧においては、周囲の人のほぼすべてが、キリスト教会(後のカトリック)の信徒であったため、そこに所属するのは「当たり前」であり、その「絶対真理(絶対正義)」に疑問を持つことがなかった、ということもあるであろう。
しかしまた、そこに疑問を持ってしまった「明晰な頭脳の持ち主たち」は、たいへんな苦悩を背負い込むことにもなる。なにしろ教会の教えを否定し、それを批判したりすれば、それは悪魔の所行として「破門」に処せられるかも知れないからだ。

当時の「破門」というのは、単なる「宗教組織からの放逐」ではない。
教会の信仰が「世間のすべて」を支配している世界では、破門とは「社会全体からの放逐(超「村八分」としての社会的抹殺)」であり、良くて「森の中で独りで生きる」か、悪くすれば「世俗権力に引き渡されて、火刑に処せられる」ことになるからだ。つまり「破門」とは、実質的には「死刑」に等しかった。
だから、いくら疑問を持っても、教会の教えに従わないわけにはいかず、その「不本意な(不誠実な)生き方」に苦悩するのが嫌なら、自己暗示の思考停止で「妄信」するしかなかったのだ。

しかし、宗教改革によって、キリスト教の中にプロテスタントという派閥が生まれ、従来の教会は「カトリック」として相対化されることになる。
当初、教会はプロテスタントたちを破門したが、プロテスタントたちの教会批判には相応の理があって説得的だったし、その当時、勃興してきた諸侯のバックアップもあって、ついにプロテスタントは、キリスト教の中で従来の教会(カトリック)と並び立つことになる。
つまり、カトリックの「絶対真理(絶対正義)」が相対化され、人々に、少なくとも思考の中では「選択の自由」が生まれたのである(逆に言えば、宗教改革後ではあれ、「パスカルの賭け」も、自己欺瞞的思考停止の一種だった。彼には、実態的な「宗教選択の自由」が、まだ与えられていなかったからだ)。

さて、本書の主人公である、若き日の著者も、カトリック一族に生まれ、その教育を受けて育った。しかし、幼くして両親を失い、親類に引き取られて体験したカトリックの家庭というものは、必ずしも満足できるものではなかったし、親戚には「邪教」呼ばわりされるプロテスタントも存在したので、家族によるカトリック的洗脳が、いつまでも絶対的な効果を持つものにはならなかった。
それに、何よりも著者は「明晰」であったので、「おかしいものはおかしい」と論理的に考えることができる少女へと成長していった。

そしてついに、目立ちたいという少女らしい見栄に発したものとは言え、修道院において「私は信仰を失いました」と言ったことから、その波紋は周囲へと広がり、跳ね返ってきた波紋との重なりの中で、彼女は初めて、自分の頭で「キリスト教の教理的矛盾」に気づくのである。
しかし神父たちはそれを「無神論の本を読んで、影響を受けたのだろう」と決めつけ、さらには彼女を、一人の人間として「対等の立場」で説得するのではなく、優位にある者としての傲慢さで「よく考えなさい」と、暗に「棄教をすると大変なことになるよ」と脅すことで、彼女に翻意を促したのである。

結局、社会的には無力な彼女は、表面的に翻意してみせることになり、形式的には教会の勝利となったわけだが、実際には、こうした教会側の態度によって、彼女の信仰心は完全に止めを刺された、と言ってもいいだろう。
カトリック教会の「寛容さ」というのは、教会の権威を認めるかぎりにおいてのみ示される「寛容」でしかなく、教会の権威を認めない者には「敵視」あるのみ、なのである。
つまり、そんな「冷たさ」や「傲慢」な素顔に触れたことで、彼女は「キリスト教の教理的矛盾」に気づいただけではなく、「教会の正体」を思い知らされたのだ。

しかしまた、彼女には、カトリック一族の不興を買ってでも、信仰を捨てられるだけの意志の力があったからこそ棄教できもしたのだが、多くの大人たちにとって、それはもはや、不可能事なのだ。なぜなら「カトリックコミュニティー」のなかで「立場」を得てしまった大人たちには、その「立場」を放擲して出てゆき、孤独に耐える勇気などあろうはずもなく、そこでの安住を望むしかないからである。

昔と違い信仰を捨てたからと言って社会的に阻害されることはなくても、以前の自分がそうしたように「あいつは信仰を捨てた愚か者だ」「地獄に堕ちるしかないユダ野郎(裏切り者の背教者)だ」と陰口されることを、彼らはよく承知しており、二度とかつてのような親密な関係には戻れないことを知っているのだから、「そんなふうに言われたくない」「そんなふうに思われたくない」という「体面(面子)」や「打算(契約)」に縛られる大人たちは、どんなに頭が良かろうが、自らの「安寧」のために、「当たり前のことか、そうじゃないか」あるいは「本当か嘘か」という「事の正邪善悪判断」の方を犠牲にするのである。
ましてや、いったん名誉ある「教導職」についた者が「転向(棄教)宣言」など出来るわけもないのだ。

さて、「解説」で池澤夏樹も触れているとおり、本書について『若い頃に読んで勇気づけられた』と語ったという、生涯信仰を捨てなかったカトリック作家である須賀敦子は、いったい何をどう勇気づけられたのであろうか?

たしかに彼女の著作には、カトリック教会の問題点を指摘するような部分が少なくはないようだが、しかし、その指摘されたような事実を持って、カトリック教会を本質的に問い質すには至っておらず、結局のところ、自身の「信仰的確信」を示すための逆説的「アリバイ工作」にしか、なっていないのではないだろうか。それは、極めて大人的な「打算」のように、私には思える。
須賀敦子の、本書の著者メアリー・マッカーシーに対する態度は、本書(にまとめられることになる作品)に対し、批判的だった一般信者とは好対照に、好意的な者の少なくなかったという教会教導職の態度と、酷似しているのではないだろうか。
そしてそれは、自身の「信仰的確信に裏づけられた寛容」という「仮面」を被った、「傲慢」であり「保身」でしかなかったのではないか。

キリスト教信仰を維持するには『利発すぎた少女』は、こともなげに信仰を脱ぎ捨て、その裸身をさらすことを恥じなかったが、怠惰な安穏のなかで大量の贅肉をつけてしまった大人たちは、世間に自身の裸身をさらすことをおそれ、与えられた襤褸を繕いながら、生涯その一張羅にしがみつかざるを得ない、ということなのであろう。

初出:2019年4月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ 




 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集