荻上直子監督 『波紋』 : 何も解決されていないし、解放もない。
映画評:荻上直子監督『波紋』
予告編を見て、「狂気を孕んだ、面白そうな映画」だと思い観たのだが、「生な問題」を扱っていて、かなりしんどい作品だった。
「ブラックユーモア」に満ちた作品だが、言い換えれば「笑わなければ、やってられない」現実を描いているのだとも言えるだろう。
この監督の作品を観るのは初めてだが、なるほど「女性監督」だといったところで、必ずしも私の得意な作風ではなかった。要は「理屈で割り切れるような作品ではない」ということである。
福島第一原発の事故があった直後、関東に住む主人公の依子は、水をスーパーで購入するなどし、息子にも水道の水を飲まないようにと注意するなど、当たり前な警戒をする「普通の主婦」だった。
その夫たる修は、ニュースを見ながら「みんな大袈裟に騒ぎすぎなんだよ」などと余裕のそぶりを見せていたのだが、ある日、突然失踪してしまう。
家には、寝たきりで介護が必要な、修の父親、依子からすれば義父が残されており、依子は、パート勤めをしながら、義父の介護をし、一人息子の拓哉を大学にもやるという苦労を、一人で背負い込んだ。
そのせいで、つまり「心の支え」無くしては生きられなかった依子は、宗教にすがることにもなったのだが、義父が死に、その遺産が遺され、息子も大学を卒業して無事就職し、やっと生活が一段落して落ち着いたという頃になって、夫の修がひょっこりと帰ってくる。
最初は「親父に線香をあげさせてくれ」ということだったが、線香を上げた後に「実は、俺、癌なんだ。で、死ぬのなら君のところでと思って」などと言い出した。じつに、虫のいい話である。
だが、依子が入信している「緑命会」では、「いのちを清浄にして保たなければならない」という「倫理的な教え」を説いており、「夫を恨むのではなく、許してあげなければならない」という、ご立派な指導を受けたため、依子は仕方なく、夫を許し、迎え入れることにしたのだが、当然、依子のストレスは高まるばかりであった。
一一とおおむね、このようなお話で、このほかにも、息子の拓哉が、いきなり聴覚障害のある年上の彼女を連れて帰省してきて、すでに同居しているし、結婚すると一方的に報告し、依子はそれに納得ができず、イライラは募るばかりといった、諸々の問題が付け加わるのだ。
つまり、本作は、単に「宗教」の問題を扱った作品ではなく、「当たり前の主婦」をめぐる諸々のプレッシャーに満ちた生活を、やや誇張し、ブラックな笑いに変換して描いたコメディだと、そうは言えるだろう。
だが、内容的には、生々しすぎて、私には到底笑えなかった。
夫が死んで葬式も済み、帰省していた息子も現住地である九州に帰って、一人になった喪服の依子が、青天の雨(狐の嫁入り)の中で、むかし習ったフラメンコを、せっかくの枯山水の庭を踏みくずして、笑いながら踊るシーンで、本作は幕を閉じる。
これは、やっと「解放された」という「喜び」の表現と取れないこともないのだが、やはりそこには明らかな「狂気」が漂っていて、「何もかもバカバカしい」と開き直った、いや「壊れてしまった」姿にしか見えない。一一きっと、問題は、本質的には何も、解決していないのである。
本作で、何が描かれ、意図されていたのかは、監督による次のような言葉に、おおむね尽くされているように思う。
ここにあるのは、明らかに「黒い怒り」だろう。
それは、安倍晋三元総理を射殺した山上徹也容疑者のそれとも似たような「復讐心」さえ感じさせる。
「なぜ、堪えなければいけないのか? なぜ、切れてはいけないのというのか? 堪えて我慢して、正しく生きていれば、それで報われるというのか? 誰かが救ってくれるとでもいうのか?」
無論、誰も救ってはくれない。「ならば…」
という「不穏さ」に満ちた、それを暗示するに止めて、語りきらなかったところに、「怒り」の根深さを感じさせる作品だったと言えるのではないだろうか。
監督自身の『抑圧してきた自分自身から(※ 依子は)解放される。 リセットされた彼女の人生は、自由へと目覚めていく。』という説明にもかかわらず、やはり私としては「何も解決されてはいない」と思うし、だから、そこには「解放などない」と感じられた。
それはちょうど、ラストの「狐の嫁入り」と同様、「晴れているのに、雨が降っている」つまり「解放されて笑っているはずなのに、泣いている」といったことなのではないだろうか。
(2023年6月11日)
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