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京極夏彦 『今昔百鬼拾遺 月』 : あなた自身の 〈憑き物〉は?

書評:京極夏彦『今昔百鬼拾遺 月』(講談社ノベルス)


(※ 本稿は、本書所収の3作『今昔百鬼拾遺 鬼』『今昔百鬼拾遺 河童』『今昔百鬼拾遺 天狗』のレビューをまとめたものです)
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  虚ろな主体に〈鬼〉が憑く  一一『今昔百鬼拾遺 鬼』

ひさしぶりにこのシリーズを読んだが、とても楽しめた。
もちろん、ミステリとしては弱いとか、ペダントリーの無いのが物足りないとかいった「注文」も付けようと思えば付けられるけれど、そうしたものとして読まなくてもいい面白い小説として、私は本作を高く評価したい。

何が気に入ったのかと言えば、最後の美由紀の演説である。あれはじつに見事な「お祓い」であった。

本作は「鬼」とテーマにした作品である。
そして「鬼」とは「虚ろ(虚無)」である。本作でも語られているように、それは「鬼は存在しない」というような意味ではなく、「鬼とは虚ろのことだ」という意味だ。そして「鬼」は「虚ろ」に入り込む。「虚ろ」に湧く。

麻耶雄嵩の作品タイトルにもあったが、わかりやすい言葉で言えば、「小人閑居して不善を為す」みたいなものだ。つまり「中身が空っぽな人が、為すべきこともなくボーッと生活してると、ろくな考えない」といったようなことであろう。

本作における犯人も、特別な人間ではない。特別に中身があるわけでもないので、そこに「鬼」が入った。

実際のところ、こうしたことは、世の中によくあることで、大した動機もないのに「つい、やってしまった」「カッとなって、やってしまった」とか、あるいは「教義もろくに知らない妄信者の確信(したつもりの)犯罪」といったのが、それだ。その時、その人は「考えていない」し「空っぽ」なのである。

もちろん、本作の犯人の場合は、そこまで面白みに欠ける存在ではないものの、やはり「鬼」に憑かれ「鬼」になってしまった理由に、納得できるほどの必然性はない。ただ、その人は「そんな(程度の)人だった」のだとしか言いようがないし、現実の世の中においても、「鬼」に憑かれる人というものは、おおむねその程度のことで「鬼」になってしまうのだ。例えば「私自身、なんどもあおり運転をされたので、そういう輩が許せなかった」とかいった具合である。じつにくだらない。じつにくだらないのだが、「鬼」はそうした「空っぽな人間」に憑くのである。

「鬼」に憑かれた「人間」の実例を、もうひとつ挙げてみよう。
韓国の裁判所が、アジア・太平洋戦争中に日本で強制労働させられた韓国人徴用工への、関係日本企業に対する「個人賠償請求」を認めて、日本企業の賠償責任を認めた、といったニュースがあった。

『徴用工訴訟問題(ちょうようこうそしょうもんだい)とは、第二次世界大戦中日本の統治下にあった朝鮮および中国での日本企業の募集や徴用により労働した元労働者及びその遺族による訴訟問題。元労働者は奴隷のように扱われたとし、現地の複数の日本企業を相手に多くの人が訴訟を起こしている。韓国で同様の訴訟が進行中の日本の企業は、三菱重工業、不二越、IHIなど70社を超える。2018年10月30日、韓国の最高裁にあたる大法院は新日本製鉄(現日本製鉄)に対し韓国人4人へ1人あたり1億ウォン(約1,000万円)の損害賠償を命じた。
日本の徴用工への補償について、韓国政府は1965年の日韓請求権協定で「解決済み」としてきたが、大法院は日韓請求権協定で個人の請求権は消滅していないとしたため、日本政府は日韓関係の「法的基盤を根本から覆すもの」だとして強く反発した。安倍晋三首相は「本件は1965年(昭和40年)の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。今般の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だ。日本政府としては毅然と対応する」と強調した。日韓請求権協定には、両国に紛争が起きた際は協議による解決を図り、解決しない場合は「仲裁」という手続きが定められている。日本政府はこの手続きにより解決しない場合、国際司法裁判所への提訴も視野に入れている。』(Wikipedia「徴用工訴訟問題」)

この問題については、日韓の政府間で取り交わされた「日韓請求権協定」でなされたのは、韓国政府の被害自国民についての「外交保護権の放棄」であって、韓国人被害者本人の「個人請求権」の放棄や破棄はなされていない(なされ得ない)ので、元徴用工の「個人請求」は正当なものであり、韓国の裁判所の判断も妥当なものである、といった、押さえて然るべき「法的議論」もあるのだが、しかし、この問題は、「法的問題」つまり「法的に、賠償責任が有るか無いか」の問題ではなく、「加害者が被害者に謝罪すべきか否か(法的に免責されておれば、謝罪しなくてもいいのか)」という「倫理問題」であり、こちらが「事の本質」なのだ。

しかし、「人間性」を失った「虚ろな人間」の心には、非情な「鬼」が憑くのである。

京極夏彦は、シャイな人なので、彼のこうしたナイーブさを誉めれば、京極堂のように渋面を作るのだろうが、彼も昔ほど、自分を韜晦することが無くなってきたのではないだろうか。
そして、私は彼のこういうところを、とても好ましく感じるし、だからこそ彼は、「言葉」を操りはしても、「虚ろな言葉」に憑かれることがないのであろうと考える(例えば、「オリンピック」を「立派な運動会」にすぎないと喝破したのは、じつに痛快だ)。

したがって、本作から読者が学ぶべきは、こうした点である。だが、そんな読者はめったにいない。

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  本格ミステリにおける〈人間という化け物〉 一一『今昔百鬼拾遺 河童』

愉快な「河童談義」で開幕する本作は、しかし、本格ミステリとしては「破格」の作品なのではないだろうか。
件の「河童談義」によっても、「河童」というものは、種々の条件によって、そのイメージと本質を異にする「特定できない」もののようである。

「河童」とは、一般には「頭にお皿があって、嘴があって、背中には甲羅があって、手足には水かきがあって、前身ほぼ緑色でヌルヌルした、両生類的な人型の水棲生物」という印象があるが、これは現代的にかなり整理され一般化したイメージであって、本作でも紹介されているとおり、「河童」というのは、そう簡単に、その形態や性格を特定できる存在ではない。
と言うか、もともと存在していないのだから、多様なイメージと一般的なイメージが重なり合いながら存在するだけであって、実在しないものを特定できるわけがないのである(キリスト教の「神」ですら同断なのだ)。

しかし、これは「人間」についてだって、おおよそのところは同じではないだろうか。
「人間」の場合は、実在する生物種なので、生物学的に規定することは可能だけれど、しかし「典型的な人間」というのは存在しない。
個体は、個々バラバラで、同じ個体は二つとしてないし、その同じ個体ですら、時間の経過とともに成長したり老化したりして、一時たりとも、まったく同じものとしては存在していない。

つまり「人間とは」とか「誰某(個人)とは」と語られるものとは、語られている対象を抽象化したものでしかなく、それそのものではないのである。

ところが、「本格ミステリ」という文芸ジャンルにおいては、基本的には「人間は人間である」し「誰某は誰某である」ということになっている。

例えば、人間にはとうてい不可能と見える「密室殺人(などの不可能犯罪)」が描かれる場合、そこに「壁抜け能力のある宇宙人」や「時間をあやつる超能力者」が、何の説明も無しに登場することは許されない。そんな「お約束やぶり」の存在を認めてしまったら、そもそも「不可能犯罪」が成立しなくなってしまうからだ。
だから、「宇宙人」や「超能力者」や「ゾンビ」を登場させるのであれば、その「世界観」をあらかじめ読者に提示し、彼らには「なにが可能で、なにが不可能か」を説明しておかなくてはならない。そうでないと「本格ミステリ」のタテマエである「作者と読者の、フェアな知恵比べ」が成立しなくなってしまう。

言い変えれば、W.H.オーデンが「罪の牧師館 一一探偵小説についてのノート」(鈴木幸夫編訳『推理小説の詩学』所収)の中で指摘したように、「本格ミステリ」における登場人物は、ギリシャ悲劇の登場人物と同様に、「性格が変わらない」のだ。変わってはならないのである。
冷酷だった人物が人間愛に満ちた人に変貌したり、綿密な計画を立てる機械のような犯罪者が理由もなく気まぐれな行動を始める、なんてことがあってはならない。そんなことを認めてしまうと、名探偵の「論理的推理」は成立しなくなるからである。

「本格ミステリ」においては、「偶然」の利用は一度だけとされている。これも、そう何度も利用されては「論理的推理」など不可能だからだが、そんな一度だけは許される「偶然」よりも、「登場人物の性格の変化」は、もっとタチが悪いものなのであろう。

しかし、当然のことながら、現実の世界では「偶然は一度」とは限らないし、人間の性格も変わる。
「偶然」がめったやたらと発生しないように、「人間の性格」もそうコロコロ変わるものではないけれども、やはり現実世界も人間も、『ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず』(鴨長明『方丈記』)であり、一見おなじように見えても、決して同じではなく、常に変化しているのである。

だから、「本格ミステリ」が描く人間とは、実のところ「化け物」なのだ。

その意味では、本作が描いた人物は、「河童」ではなく「人間」であった。だから「本格ミステリ」としてはいささか収まりが悪いのだが、だからと言って、ほとんどの読者が気づきもしないのに、わざわざ本作を「アンチ・ミステリ」などと大仰に呼ばずとも、これはこれで悪くはないと、私は斯様に思うのである。

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 祈りとしての〈呪〉 一一『今昔百鬼拾遺 天狗』

「被害者の服装」が謎解きのポイントとなる「本格ミステリ」作品は、決して少なくない。本作においても、前半はそうした「謎解き」興味で引っぱりはするものの、しかしこれは、本筋ではない。と言うのも、後で被害関係者が増えていくからで、これは「本格ミステリ」としては、あまりスマートなものとは言えないからだ。
しかしまた、前作『今昔百鬼拾遺 河童』においても明らかなように、著者・京極夏彦の興味は、すでにそんなところにはない。と言うか、デビュー当時から、そんなところには無かった。
彼の興味は、いつでも「憑き物」を呼び寄せてしまう、「人の心」という不可解で理不尽なものに向っていたのではないだろうか。いつの世にも人の心に憑いているそうした「憑き物」を落とすために、彼は小説というかたちでの、言葉による「呪」を放っているのではないだろうか。

そんなわけで、本作のテーマは「偏見」である。

「偏見はいけません」「差別はいけません」という話なら、誰でもいちおうは理解しているつもりであろう。だが、事はそんなに簡単なものではない。なぜなら、「偏見」というものは、その人に憑いて、その人の一部になっているのだから、それを認識することは極めて困難だからだ。

誰が、自分の身体の一部だと感じているものを、「偏見」だと思うだろうか。その目が、その脳が、その心臓が、その右腕が「偏見」であろう可能性を、考慮などできようか。そんなことは普通できないのだ。
だから人は、「私は偏見を持っている。偏見とは、私のおぞましい一部分である」とでも思わないかぎり、決して「偏見の存在」と向き合うことはできない。
言い変えれば、自分には「偏見が無い」とか「ほとんど無い」などと思っていること自体が、自身に対する「偏見」であり、「偏見はいけません」「差別はいけません」と言われて「そんなこと、わかっている」と思う人は、自己過信という意味において、自身に「偏見」を持っている。
「偏見」の難しさとは、それが「他人」に対するものには止まらず、何よりも「自分」自身に対するものだからなのだ。

本作においては、篠村美弥子によって、胸のすくような「偏見」批判がなされる。それに拍手喝采をおくる読者は少なくなかろう。
しかし、中禅寺敦子の「偏見」に対する懊悩は、もっとリアルである。それは「偏見」を我がことと捉え、はたして「偏見無くして、思考があり得るのか」と考えているからである。そもそも「この世界に、アプリオリな意味はあるのか。根源的な正邪善悪はあるのか。無ければ、どうすればいいのか」と。

偏見批判くらいなら、この作品以前にも多くの作品で語られている。有名作例としては、例えば、島崎藤村の『破壊』があり、住井すゑの『橋のない川』があり、大西巨人の『神聖喜劇』もそうであろうし、中上健次の作品の多くもそうであろう。しかし、そうしたものがあっても、「偏見」や「差別」のかたちこそ変わったものの、「偏見」や「差別」そのものが無くなりはしなかったし、これからも無くなりはしないだろう。
本作において、中禅寺敦子や篠村美弥子、あるいは呉美由紀が、いかに切実に「偏見」を告発しても、それを「他人事」として読み、拍手喝采を送って「娯楽として消費する」だけの読者が大半なのだと、私にはそう思えるのだが、果たしてこれは、悲観的に過ぎようか。

多くの人は、作中にも描かれたような「度しがたい偏見の持ち主」と、直接対峙したことなどないはずだ。
例えば、ネット上に掃いて捨てるほど存在する「差別主義者」や「ネット右翼」に対して、「それは間違っていますよ」と直接批判した人など、ほぼいないのではないか。いたとしても、その「お話しにならない、度し難さ」に辟易して、二度と相手になどすまいと考え、あとは当人たちのいないところで「あいつらはクズだ」と吐き捨てるように言うだけだろう。

たしかに彼らは「クズ」だ。だが、「紙くず」でも「ゴミくず」でもなく、「人間のクズ」なのだから、彼らを「紙くず」や「ゴミくず」扱いにすることもまた、「偏見」なのである。

だが、それを反省する人は少ない。なぜなら、彼らのような「度しがたい」人間は、同じ「人間」ではなく、いっそ焼却処分にしても良いような、単なる「ゴミくず」だと考えた方が、気が休まるからである。そうした「偏見」を持っている方が、楽だからだ。つまり、自身が「天狗(もどき)」になるのである。
「偏見」とはもともと、同じ「人間」であると認めたくない人間を、「別物」扱いにすることなのだ。それを「神様」扱いにするのも、「ごみクズ」扱いにするのも、どちらにしろ「偏見」なのである。

こうした、人間における根源的な「呪い」に対して、京極夏彦は「言葉という呪」を用いて抵抗する。
この世は、まさに「百鬼夜行」であり、そこかしこに「偏見」という「化け物」が蔓延っているのだが、それに抵抗するのは「理性の言葉」しかない。

京極夏彦における「呪」としての「理性の言葉」とは、畢竟「人間に対する、祈り」なのではないだろうか。
なんど苦虫を噛み潰そうと、それでも「人間に絶望しない」。そうした、自分自身に対する「呪」なのではないだろうか。

初出:2020年8月13日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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