見出し画像

江原由美子 『増補 女性解放という思想』 :  誰も知らない〈ウーマンリブ〉のこころざし

書評:江原由美子『増補 女性解放という思想』(ちくま学芸文庫)

昨今よく耳にするのは「フェミニズム」という言葉であり、本書のタイトルとして冠された「女性解放」という言葉は、ずいぶん古風な印象を受ける。実際、歴史的な文脈以外で、「女性解放」という言葉を使う人は、今時ほとんどいないのではないか。

そう言えば、「ウーマンリブ」という言葉も、私が子供の時分にはよく耳にしたが、今の若い人はほとんど知らないのではないだろうか。

しかし、それもそのはずで、本書の初版が刊行されたのは「1985年」で、なんと35年も前である。そんな古い本に、その後の「女性解放」運動の経緯を描いた「増補 その後の女性たち」を付け加えて刊行したのが、この「増補」版だ。

そんな古い本を、今になって再刊するとは、どういうことなのだろう?
本書の後にも「女性解放」や「ウーマンリブ」や「フェミニズム」の歴史を語ったり論じたりした本は、山ほど出ているのではないのか。それならば、すでに、歴史的にも理論的にも、乗り越えられていてしかるべき、こんな古い本を、どうして今ごろ再刊したのだろうか。

その答は、本書は、いまだ「乗り越えられていない」から、である。

本書が提起した「問題」は、いまだにまったく解決されていないどころか、忘れ去られていると言ってもいい。つまり、本書で示された問題は、今も生きているのだ。だから、本書は「今ここ」の問題を扱った批評書として、再び刊行されたのである。

したがって、「女性解放」や「ウーマンリブ」の歴史くらい知っていると思っている人、「フェミニズム」のことくらい、だいたいわかっているよという人こそ、ぜひ本書を読んでほしい。
本書を読むべきは、こうした問題に「無知な男性」はもとより、現在、フェミニズム運動に関係している現役の女性運動家も含む、のだ。

現役のフェミニズム運動家なのだから、当然、本書に書かれていることくらいは踏まえて運動しているはずだという思い込みは、まず間違いなく間違いだ。

現役の運動家というものは、おおむね、目の前の現実的問題に対応を迫られて運動していることが多い。だから、過去の運動史や運動思想史といったことには、案外と疎い。「今ここでやらなければならないことが山積しているのに、悠長に昔の文献なんか読んでいる暇はない。そんな暇があったツイッターで世間に語りかけているよ」という運動家が多いのではないだろうか。そもそも運動家というのは「運動する人」であって、「学者」や「研究者」ではない「現場の人」だからこそ、どうしてもそうなってしまう傾向がある。

例えば、世間の多くの人は「敬虔なクリスチャン」だと言えば、「聖書」を読み込んでいるものだと思い込んでいるだろう。だが、現実はそうではない。
もちろん、そういう人もいるけれども(聖書の内容を他人に説かなければならない立場の、神父や牧師や神学者などの「専門家」は別にして)「一般信徒(平信徒)」というのは、意外に「聖書」を読んでいない。読みかじる程度のことはしているが、「通読」している人というのは、驚くほど少ない。だからこそ、大型書店のキリスト教書コーナーへ行くと「聖書の通読に挑戦」みたいな本や「まんがで読む聖書」「聖書物語」といったものが並んでいたりするのである。

それにしてもなぜ、キリスト教徒でありながら、「神の言葉」が書かれている「聖書」を通読したこともない、などということがある得るのだろうか。一一キリスト教徒ではない人は、そのように、大いに疑問を覚えることであろう。

だが実際には、自分一人で、あの分厚い「聖書」を、頭から最後まで読まなくても、日曜礼拝に行ってさえいれば、神父や牧師が「聖書」を引用して説教をしてくれ、聖書の肝心な部分とその解釈をわかりやすく語ってくれるのだから、どうしてもそれで満足してしまいがちなのだ。

そもそも、「聖書」というのは、「パウロの手紙」や「詩篇」「黙示録」といったの部分を除けば、その大半は一種の歴史書であり、自ずと、その「歴史物語」などの意味するところを「どう理解(解釈)するか」という問題がつきまとう。
例えば、イエス・キリストが十字架に磔刑になったとき、どうして神はイエスを助けなかったのか。一一その明確な理由は、聖書の「歴史物語」の中には書かれていない。
あくまでもその「解釈」は、教会や神学者の「正統解釈」が大事なのであって、そこまで勉強しなければ、「聖書」を読んだだけでは「どう理解すればいいのか(正しい解釈なのか)」ということは、一般信徒にはわからない。だからこそ、一人で「聖書」を読むというのは、きわめて敷居が高く、したがって一般信徒の大半は、教会へ行って、神父や牧師が語る「解釈済みの説教」を「聖書」の中身だと信じて済ませるのである。

だが、これは、本当のところ「自分で(聖書を)読んだ」ことにはならない。
あくまでも「他人の解釈」を、その神学的無知のゆえに「神の言葉」だと、信じているに過ぎないのである。だから、教会が間違った解釈を採用すれば、一般信徒は皆、間違った解釈としての「正統教義」を、「神の言葉」そのものだと信じて、誤った「信仰」実践をしてしまう。そして、その極端な実例が「十字軍」や「魔女狩り」といった、歴史的悲劇なのである。

このように、「理論的検討」を軽んじた運動は、きわめて危険である。

自分たちの、現在のリーダーが語っている「理論」が「もっともらしいから」「実践的にも効果がありそうだから」と、自分で「歴史」や「理論」を学ぶこともせずに、ごく限られた視野の中で「運動」に邁進していたら、当然のことながら、正しい道を見失しない、道を誤ることにもなリかねない。
キリスト教で言うならば「神の言葉」を誤ることになるし、「女性解放」運動においては、かえって「女性解放」を阻害することにもなりかねないのだ。

だが、「運動家=実践家」というのは、得てして「理論」を軽視しがちだ。
「自分たちは、現実に動いている。体を張っているのだ。口先だけの頭でっかちは、引っ込んでいろ」という「傲慢」にとらわれやすい。
だが、それは、新左翼運動における「連合赤軍:山岳ベース事件」と同じあやまちに、道を開く「危険な慢心」でしかない。

そして、これは「女性解放」や「ウーマンリブ」「フェミニズム」においても、まったく同じである。
無論、「運動」とは「現に、世の中を変える」ために行われているものであり、「理論」はあくまでもそのために必要な「部分」であり「道具」であると言ってもいいだろう。だから、ただ、知的に論じていればいい、語り合っていればいい、研究していればいい、というようなものではない。

だが、だからと言って、「理論なんか、どうでもいい。肝心なのは、現実であり実践であり結果なのだ」ということになると、多くの場合、人はその実践を誤ってしまう。

元通産(経産)官僚で、政治経済評論家の古賀茂明が、近著『官邸の暴走』の中で「官僚」の悪弊として「彼ら官僚は、学者を侮っている」と指摘している。
言うまでもなく、「官僚」というのは「高学歴者」なのだから、「学者」を尊重しそうなものだが、実際には「官僚」は「政治を現実に動かしている、現場の人間」だという自負が強く、そのために「学者」を「現場を知らない、頭でっかち」だと侮り、かたちだけは「学者」を利用しても、その「理論」を本気で検討することは、意外に少ないのだ、と言う。
しかし、こうした「自信過剰」による「理論軽視」は、「自己批評」の欠落を結果して、誤った道を突き進むということにもなる。

で、こうしたことは、「女性解放」や「ウーマンリブ」や「フェミニズム」でも、まったく同様にあり得ることなのだが、特に近年の「女性運動」は、過去の「ウーマンリブ」運動をきちんと検討に付した上でなされているものではなく、いったんは途切れたに等しい運動的な断絶の後に、「今の視点」に偏して、新たに生成されたに等しいものとなっているのではないか、というのが、本書著者の見解なのである。

つまり、「今は昔」の話になってしまった「ウーマンリブ」運動には、今の「女性運動」には十分に引き継がれなかった重要な知見を持っていたのだが、世間の偏見的な逆風を経た結果、継承されるべき知見が忘れ去られてしまい、そのせいで、現在の運動には不十分な部分があるのではないかというのが、本書初刊の1985年当時の著者の問題意識であり、そこで提示された問題は、その後35年を経た現在でも、乗り越え垂れるどころか、より忘却が進んで、運動の劣化を招いている側面があるのではないか、ということなのである。

著者は何も、現在の運動にケチをつけたいわけではない。
ただ、世間からの逆風で、いったんは潰され抹殺されたに等しい(ウーマンリブ)運動であったとしても、その真の価値については、これを「正しく継承する」必要であり、そのためには「理論的検討」が是非とも必要なのだ。そして、その「理論的実践」のひとつのかたちが、本書に示されているのである。

だから、本書は、相当歯ごたえのある「批評書」である。
「フェミニズムの歴史」書を読むような気持ちで手に取った読者は、きっとその「思考の徹底性」に驚かされ、襟を正して読まずには「歯が立たない」ことに気づくであろう。

しかしまた、著者がそこまで徹底的なのは、何よりもまず、「女性運動」の重要性について、著者自身が「熱い思い」を持っているからに他ならない。だからこそ、中途半端な「独りよがり」ではいられなかったのだ。
したがって、著者は、運動には、熱と怒りが必要なことは重々承知しているし、それなくして「運動」はないことも理解している。しかしその上で、やはり「理論的検討」が必要であり、それが無ければ危ういと語っている。

だから、本書は、現役の「フェミニズム運動家」の方にも、ぜひ読んでほしい。

もちろん、「女性解放」や「ウーマンリブ」や「フェミニズム」のことを、ろくに知りもせず、それでいて、知っているつもりになっている、私たち「男ども」は、是非とも本書を読むべきだ。男なら、社会的優位にあぐらをかいた、知的怠惰を恥じるべきである。

私は、本書を読むことで、これまで漠然と感じていた「フェミニズム」に対する違和感の意味を、明確に教えてもらった。
例えば「男女平等」とは、「歴史的に劣位に置かれてきた女性が、男性並みになることを意味するのか」「男性並みになるには、男性並みのことができなければならないのか」「しかし、男性と女性は、生物学的に違うのだから、完全に同じにはならないはずだが、その矛盾をどう考えればよいのか」といった疑問に、根本的かつ明確に答えてもらうことができた。

無論、与えられて答えを鵜呑みにするつもりはないが、それは十二分に説得的であり、今の私には、とうてい異論など唱えられるレベルのものではない。
まただからこそ私は、これまでの「素朴な疑問」レベルを越えて、「女性問題」に立ち向かうことを可能にしてもらえたと、そう考えるのである。

ともあれ、本書は「必読の名著」である。
本書を乗り越えずして、今後「フェミニズム」を知ったかぶりで語ることなど、誰にも許されないであろう。それができると思うのは、「ネトウヨ」レベルの人間だけなのである。

初出:2021年7月26日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○















この記事が参加している募集

読書感想文