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「フェアな本格ミステリー」に思うこと

【旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年6月29日】

※ 再々録時註:本稿は、2004年12月23日に執筆され、同人誌『SRマンスリー』の2005年5月号に掲載された、田中幸一名義の拙稿「「フェアな本格ミステリー」に思うこと」を、2005年6月29日に、自身の電子掲示板「アレクセイの花園」に、前書きを付け加えて転載したものの、再転載である。なお、同稿本文で語られているのは、要は、年間ベストミステリー誌『このミステリーがすごい!』(宝島社)への、SRの会会員の投票が、身内の会員作家に甘い、ということへの皮肉だ。具体的に言えば、顔見知りでもある、有栖川有栖、芦辺拓、天城一、山沢晴雄などに対して甘かった。『このミステリーがすごい!』が創刊される際、アンケート回答者として、SRの会や怪の会など、ミステリマニアのサークルにもお声がかかり、SRの会でも寄稿者の募集がなされ、会長以下おおぜいが応募したが、私は応募しなかった。もちろん、アンケート回答者には毎回、原稿料として謝礼が支払われた。現在も同様である)

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昨日届いた『SRマンスリー』(2005年5月号・SRの会発行)に掲載された拙稿を、こちらでも紹介する。
(なお、『SRマンスリー』掲載稿は、編集部で清書した際の変換ミス等があったので、その箇所については、ここでは訂正してある。また、原文の縦書き用の漢数字は、ここでは横書き用にアラビア数字に書き改めたことをお断りしておく)

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 「フェアな本格ミステリー」に思うこと (田中幸一)

 いったい何年ぶりの投稿かと思うけれど、何年たっても書くことがそんなに変わるわけではありません。
 例によって、あんまり人が書かないだろうし読みたくもないだろうことを、批評家として書いておこうと思います。

 前号(2004年11月号、337号)の《SRプラザ》に、EQⅢ氏が『バークリーの作に推理を想うということ』と題して「名探偵の定義」について書かれていました。氏のご意見では「あらゆる可能性を考慮して、論理的に真相に達する存在」のことを「名探偵」と呼ぶべきで、「本格ミステリー」の要諦とも言うべきそうした要素を欠いた作品の「見掛けばかりの名探偵」は、「本格ミステリーの名探偵」ではないし、そういう探偵が活躍する「ミステリー」は本質的に「本格ミステリー」ではない、というものでした。

 いかにもクイーンフリークたる氏の面目躍如たる厳格なご意見で、私個人はたいへん好ましく思ったのですが、その反面、この定義を厳格に採用すれば、一般に「本格ミステリー」と呼ばれているものの多くが、そこから排除されてしまうこともまた、火を見るより明らかでしょう。つまり、氏のご意見は、少なくとも「ミステリー界の現実」には則していない、理想論的な原理論だと言えましょう。

 私がどうして氏のご意見を『たいへん好ましく思った』のかというと、それは私が「厳格な本格ミステリーマニア」だからではありません。私が、基本的には理想主義的な人間で、「なし崩し的・馴れ合い的なもの」に嫌悪を感じるタチだから、氏が示された稀有な厳格さに共感を覚えたのです。つまり、私流にこう言い換えれば、わかりやすいのではないでしょうか。
 一一知り合いの作家の作品には採点が甘いような評論家は「評論家」ではない。身内作家の作品を義理で『このミス』に投票するようなミステリマニアは、「ミステリマニア」でもなければ「ミステリファンの代表」でもない。

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 つまり、EQⅢ氏の厳格な基準を採用すれば、「名探偵」や「本格ミステリー」がほとんど存在しなくなってしまうように、私の基準で言えば、世の中には本物の「評論家」も「ミステリマニア」もほとんどいない、ということになってしまうのです。

 彼らは「評論家」だとか「ミステリマニア」だとか「本格ミステリファン」を演じたがりますから、EQⅢ氏の定義ならば喜んで承認することでしょう。
 けれども、自分に直接かかわってくるような私のこの定義については、真っ向からは否定しない(できない)ものの、黙殺をもって応じることでしょう。
「フェアな本格ミステリー」が稀有なように「フェアな評論家」や「フェアなミステリマニア」もまた、たいへん稀有な存在であり、それはまぎれもない現実なのです。

 しかし、現実がそうであるからこそ、厳格に原理原則を語る者が必要なのだという事情も、「名探偵」や「本格ミステリー」の定義と同様であるのは、言うまでもありません。
 根本的な誠実さを欠いた「看板に偽りあり(=ニセモノ)」が氾濫すれば、そうしたジャンルは信用を失い軽蔑されて、いずれ衰退することでしょう。それでも良いというのであれば、これ以上、私に言うことはありません。「フェア」さを求めるか否かは、所詮それぞれの美学の問題であって、他人に強制できることはないからです。

 2004年12月23日

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