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奥泉光 『死神の棋譜』 : 〈黒い水脈〉の系譜

書評:奥泉光『死神の棋譜』(新潮社)

私がこれまで、ファンレターらしいファンレターを出した作家は、中井英夫と奥泉光の二人だけである。
もともと私には「ファンとは、好きな作家を遠くから想い続けるもの」であって、直接的なアプローチなどするのは無粋だという気分があり、普通ならば、どんなに好きな作家だろうとファンレターなど出したりはしないのだが、しかし、実際的な必要性があるなら、ファンレターを送ることに躊躇するような気持ちもなかった。

中井英夫にファンレターを送ったのは、正確には、自身の中井英夫論が掲載された同人誌を、せめて中井の下に届けたいと思ったので、それに手紙を添付した、ということであった。
一方、奥泉光の場合は、1991年(平成3年)当時、たまたま書店頭で見つけて読んだ『葦と百合』が、思いもかけず、『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『匣の中の失楽』という「黒い水脈」に連なる作品だと気づき、さらに奥泉が何度か芥川賞の候補になった作家だと知って、「この作家を、純文学の方にとられてはならない。是が非でも、ミステリの方に引き摺り込まないと」と考えたからである。
つまり、私は奥泉光に宛てたファンレターのなかで「貴方は、中井英夫が言うところの〈黒い水脈〉に連なる稀有な作家なのだから、今後もこのような作品を書いて欲しい。結局はその方が、歴史に名を残す作品が書けるはずだ」と、微塵も臆することなく強く強く訴えたのだ。

その後、奥泉光は芥川賞を受賞したが、いわゆるオーソドックスな「純文学」作家にはならなかった。
しごく大雑把に言えば、奥泉は「幻想小説」「ミステリ」「SF」「戦争文学」「ユーモア小説」などを横断する「純文学らしからぬ純文学」作家へと成長して幅広い活躍を見せ、この種の個性的かつ器用な作家には珍しく、文学賞にも恵まれて、日本の純文学文壇にも着実にその地保を固めていった。

「黒い水脈」に連なる作家と言えば、およそ「メジャー」であることや「文学賞」には縁のない「マニアックな作家」だというのが、それまでの私の認識で、その意味では、奥泉光は「そのうち、凡庸な文壇小説家へと堕落するのではないか」という危惧を、私は長らく持ち続けていたのだが、本作『死神の棋譜』を読むと「三つ子の魂百まで」で、どうやらその心配はなさそうだと、あらためて安心させられたのである。

さて『死神の棋譜』だが、本作はいちおう「将棋ミステリ」に分類されることになるのだろうが、そこは奥泉作品で、いわゆる「合理的な論理性」を身上とする「本格ミステリ」の枠には収まらず、そこを逸脱して、所謂「アンチミステリー」になっている。

「アンチミステリー」というのは、中井英夫が自作『虚無への供物』を評した言葉だが、その意味するところは、必ずしも明確なものではなかった。その後、笠井潔などがミステリを論じるなかで「アンチ・ミステリ」についても、ある程度の定義を与えはしたが、もとよりそれに縛られる必要もなく、私が考えるところの「アンチ・ミステリ」とは「理性的探求を突き詰めた先に開示された世界を描くミステリ作品」ということにでもなるだろう。つまり、それは「反・理性」ではなく「理性の加速主義的な脱構築」であり、その結果としての「反・合理」的な作品を指す言葉だと言えるだろう。

無論「理性の加速主義的な脱構築」的小説とは、何も「ミステリ」の形式を採る必要はないのだが、もともと多くの小説ジャンルは「人間」を描くが故に、本質的に「非合理」なものであるから、そうした形式の小説では、「理性の加速主義的な脱構築」といったことが、そもそもやりにくい。
その点、その「理性」主義に過剰なまでの自負を持ち、その「論理性」を売りにする「(本格)ミステリ」という文学形式だからこそ、そこからの「人間的逸脱」というものもまた、輪郭鮮明に描きやすいのである。

そして、本作が「将棋」というものを扱っているのも、こうした意味において、ひとつの必然的な選択だと言えよう。

「将棋ミステリ」と言えば、前述の『匣の中の失楽』の竹本健治に、『将棋殺人事件』がある。竹本には、それだけではなく、「ゲーム三部作」として『囲碁殺人事件』と、コントラクト・ブリッジを扱った『トランプ殺人事件』があり、これらの作品は、本作『死神の棋譜』に比べれば「ミステリ」の形式に忠実ではあるものの、この三部作に共通するもうひとつのテーマとは、やはり「狂気」であった。

つまり「将棋」「囲碁」「コントラクト・ブリッジ」といったゲームは「厳格なルールによって規定された、極めて論理的で知的」なゲームなのだが、それゆえにこそ、その「論理性」の極まった先に、時空の逆転した空間を開示する、という「背理」が実現される。人間的な人間性から、あらんかぎり遠ざかろうとした果てに、人間的な「ブラックホール」がぽっかりと口を開いているのである。

「合理性と非合理性」「理性と狂気」は、一見したところ「対極的」であり「矛盾」の関係にあるように見えるのだが、その極まった先では、両端は円環をなしてつながっている。喩えて言えば、宇宙の果てを目指して一直線に進んでいった先に、出発点である地球にたどり着いてしまうような「宇宙」なのだ。

奥泉光は「国際基督教大学 (ICU) 」の卒業生であり、『研究者時代の共訳書に『古代ユダヤ社会史』(G・キッペンベルク著、教文館)』(Wikipedia)があるとのことだが、奥泉光のこうした原点は、元信仰者でありながら無神論者となった私の、徹底した「宗教批判」に通じるところを強く感じる。
それは「生半可な信仰は、信仰ではない」から「世の信仰は、ほぼすべて偽物だ」という批判であり、徹底した理性主義に基づく合理的批判によって「宗教」を批判し粉砕した先に現れる「本物を見たい」という願望である。

それは「アンチ」でありながら、誰よりもそれに魅せられ、それから離れられなくなった者だけが見ることのできる世界だと言えるだろう。そして、そこまでの突き詰めを可能にする「過剰な執着」は、「愛憎」の区別をも失効させる。「理性と狂気」が矛盾しないのと同様の徹底性において、そこは矛盾や背理を超脱した「世界」だと言えるだろう。

そうした世界を幻視する作品を、私たちは便宜的に「黒い水脈」と呼んでいるのだが、それは私たちの「凡庸な目」から見た場合の形容であって、当事者(幻視者)の目から見たならば、それはむしろ「黒い光芒」とでも呼ぶべきものなのではないだろうか。

奥泉光は「ユーモア小説」に分類される作品を書くし、人柄的にも「温厚」なものを感じさせるのだが、それは決して一面的なものではなく、そうした「この世界の私」の裏側に「反世界の私」を持った「私」の片面に他ならない。二つに引き裂かれて見える作者や、その作品もまた、その究極において一体なのである。

初出:2020年9月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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