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倉知淳 『作家の人たち』 : 「中途半端」の人

書評:倉知淳『作家の人たち』(幻冬舎)

すべてにおいて「中途半端」である。
よく言えば「微温的」、悪く言えば「生ぬるい」。

「本格ミステリ作家」だと認知されている、倉知淳の新刊『作家の人たち』は、「本格ミステリ」ではなく「出版業界内幕小説」短編集である。引っ掛けでもなんでもなく、本当にそのままそうなのだ。

しかしまた、本書はまぎれもなく、倉知淳の小説である。
つまり、「ユーモア」小説であって、「暴露小説」や「告発小説」「批判小説」あるいは「痛々しい私小説」などではない。
「暴露小説」「告発小説」「批判小説」「痛々しい私小説」といった要素をすべて含みながら、しかし「ユーモア」のコーティングの中で無難に自足している、そんな生ぬるい小説集である。

ミステリ業界を告発した、ミステリ作家の本としては、東野圭吾と同期の江戸川乱歩賞作家である森雅裕の『推理小説常習犯 ミステリー作家への13階段+おまけ』がある。
この本では、「新本格ミステリの仕掛人」としても知られた、講談社文芸第三部の名物編集者であった宇山日出臣が実名で批判されていた。森は、性格的に癖のある作家で、方々で悶着を起こして、消えていった作家であるが、彼のストレートな怒りや批判や正論には、その作品の主人公たちに通じる清々しい反骨心もあった。

また、本格ミステリ作家の「自伝」としては、森と同じく江戸川乱歩賞作家であった岡嶋二人の片割れである井上夢人の『おかしな二人 岡嶋二人盛衰記』がある。
もう一人の片割れである徳山諄一についての描写が客観性を欠くものではあるものの、自伝とあればその当事者の主観性からして致し方もなく、それだから当事者としての痛々しさは十二分に伝わってくる、人生の重みを感じさせる一書だった。

しかし、本書にはそういう突出したものが、何もない。すべてにおいて「中途半端」なのだ。
それが、倉知淳の個性だと言ってしまえばそれまでだが、それでは「売れない作家」になってしまっても仕方がない。これでは、読者からペッと吐きだされても仕方ない。
本短編集の締めとなる「遺作」の語り手のように、自身に絶望して自殺することも「ないだろうな」と思われてしまうところが、救いがない。その一方で「遺作」の語り手のように、救いのない時間を蜿蜒と生きてしまうのだろうなと思うと、それはそれでまったく救いがない。

たぶん、倉知淳は、本当の意味での「自覚」を欠いているのである。

『わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。 だから、熱心になって悔い改めなさい。』 (ヨハネの黙示録)

初出:2019年4月15日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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