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伊吹亜門 『刀と傘』 : 〈お約束〉という 思考停止

書評:伊吹亜門『刀と傘』(東京創元社)

「マニアの間で、年間ベスト級の作品と評判」だという噂を小耳に挟んだので、読んでみることにしたのだが、あまり評価できなかった。
噂が事実なら「どうしてこの程度の作品を、そこまで高く評価してしまったのか」と考えて、いちおうの解答が見つけられた。
それが「お約束という思考停止」である。

「お約束」とは何か。

例えば、ラノベなどでは主人公が、ふとしたことで異世界に転生したりする。普通に考えれば、そんなことは起こらないので、少し前までのハードSFなどでは、その理由を擬似論理的に構築し、描写の妙を尽くすことで、「ありそうなこと」にする努力がなされたりした。つまり、読者を説得する努力がなされた。

しかし、今の時代、そのような説明は、無駄なだけではなく、野暮なものとさえ思われてしまうだろう。なぜなら、読者の多くは、そんな「理屈」など求めていないし、楽しみもしないからである。
つまり「そんなことはどうでもいい」のであり、だから「理屈はどうあれ、転生したってことでいいじゃない。所詮はフィクションなんだからさ」ということである。
多くの読者は、小説を「娯楽」目的で読んでおり、そうした物語に「理屈」など求めてはいけないのだ。そんなことに紙数を費やすのではなく、主人公やヒロインをめぐるドラマチックな物語を、しっかり書いてほしいのである。
だから「とにかく転生しちゃった、でいいじゃない」、そこはもう〈お約束=暗黙の了解〉ってことにしましょうよ、その方が経済的だ、ということになったのだ。

そして、ラノベはもちろん、それを経た現代の娯楽作品の多くには、そうした経済原理に従っての、多くの「お約束」が導入されている。だからこそ、現代の娯楽作品は、よりスピーディーになった。

しかし、こうした〈お約束〉は、いまや多くの享受者にとって「見えないもの」になってしまっている。
本来は「見えるけど、見ないことにしよう」という〈お約束〉だったものが、次第に不可視化されてしまったのだ。
その結果「見えないものは思考できない」ということになってしまっているのである。

本作『刀と傘』について言えば、論点となるのは「狂人の論理」だ。

これは本格ミステリ独特のガジェットで、要は「まともな人間ならそうは考えないけれど、常識に縛られない狂人ならば、異様な形式論理も成り立ってしまう」というものである。
例えば、ある有名短編の「狂人の論理」は「戦場において、一度砲弾が落ちた場所は、他の場所より砲弾が落ちにくい」という、確率論的に誤った理屈であった。
これは理性的には間違いなのだが、たしかに理性が機能停止している人になら「ありそうな話」であるからこそ、本格ミステリにおける「奇妙な行動(非合理的な行動)」を説明する原理として、採用可能なのである。

しかし、斬新な「狂人の論理」を読者に呑ませるには、作者に相応の筆力が求められる。
もともと無理のある理屈を、無理が無いと思わせなくてはならないのだから、作者には「白を黒と言いくるめるレトリック」が求められたのだが、作家たちの苦闘を経て、本格ミステリの長い歴史のなかで、こうした「狂人の論理」がたくさん編み出されていった。

だがしかし、そういう「狂人の論理」が蓄積された結果、それが無自覚に〈お約束〉化してしまった。「不自然さ」に対するハードルが下がってしまい、作者にさほどの筆力がなくても、読者の方で、それを容易に受け入れてしまう「馴れ」が構築されてしまった結果、「それもありね」とすら思わず、自然に許容するようになってしまったのだ。これは宮台真司言うところの「ネタがベタになる」の一種だろう。
その結果、かつては求められた「心理描写についての繊細なレトリック」が不必要になり、それが失われる結果となったしまった。「本格ミステリにおいては、登場人物はお人形さんでかまわない」という原理が、安易に横行することを許してしまい、「描けていない作品」を、読者の方で先回りして補完するようになった結果、本格ミステリは、進んで「文学性」を放棄することになったのである。

例えば、坂口安吾の本格ミステリ『不連続殺人事件』において、謎解きのヒントとなったのは、本当に些細な「心理的に不自然な行動」であった。そこから、犀利な推理が展開される作品として、同作は名作となり得たのである。

しかし、今の読者が『不連続殺人事件』を読めば、かなりの確率で「面倒くさい」作品だと感じることだろう。
なぜなら、この名作には表面上の派手さなどはなく、ただ着眼と謎解きという一点に、その魅力が凝縮されているからである。
だが、そうした魅力を感じる知性が、いまや失われるはじめているのではないか。

読みやすい娯楽作品が悪いとは言わない。そういうものも確かに必要だ。
だが、そういうものばかり読んでいれば、読者の思考力もその水準に止まるというのは、理の当然であろう。

本格ミステリは「知性の文学」であると言われる。それは間違いではない。
しかし「知性」とは、何も「形式論理」的なものだけを指すのではない。不自然なものを不自然だと感じ取る感性もまた、「知性」の重要な側面なのである。

初出:2019年5月5日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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