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陳浩基 『13・67』 : 「香港の歴史」をつらぬく痛み

書評:陳浩基『13・67』(文春文庫)

現在の香港は、中国に服属している。テレビニュースでも広く知られているとおり、近年、香港では「一国二制度」を守ろうとする市民たちの反体制活動が活発化していたが、それも中国独裁政権の圧倒的な力の前に押さえこまれ、よく言っても「風前のともし火」状態にある。

日本のテレビニュース番組にもしばしば登場し「民主化運動の女神」として親しまれた周庭(しゅう てい、英名: Agnes Chow Ting、アグネス・チョウ、1996年12月3日 - )ら、民主化運動の若きリーダー3人も、当局によって逮捕起訴され、2019年6月に香港政府の「逃亡犯条例」改正案に抗議して警察本部包囲デモを扇動したとして、無許可集会の扇動罪に問われて有罪判決を受けた。3人はそれぞれに、13ヶ月から7ヶ月の懲役判決を言い渡され、刑務所に収監されることとなったのだ。

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彼らへの判決を「意外に軽い」と感じるのは、独裁国家の現実を知らない人の感覚である。
彼らは、服役を終えて刑務所から出てきたとしても、また活動をすれば、すぐに逮捕されて、より長い期間、刑務所に収監されることになるだろう。つまり、彼らは当局の弾圧に対し、屈辱的な服従と沈黙を受け入れないかぎり、生涯にわたる「服役」を覚悟しなければならないのだ。また、彼らは「政治犯」なので、海外逃亡などほとんど不可能で、反政府活動を断念してもなお、生涯、当局の監視下に置かれて、陽の当たらない生活を送らなければならないことになるのである。
これが、死刑にも勝る、長く果てなく残酷きわまりない「見せしめ刑」であることが、ご理解いただけよう。そして、そんな彼らの姿を見せつけられて、今や香港は、絶望の淵に沈められたと言っても、決して過言ではないのである。

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本書『13・67』は、そんな香港在住のミステリ作家・陳浩基が2014年に刊行した、香港の現代史ミステリである。
2013年を舞台にした作品に始まる6つの短編は、それぞれ、2003年、1997年、1989年、1977年、1967年という具合に香港の歴史を遡っていく、非常に凝った構成の作品だ。
6つの短編それぞれに「本格ミステリとしての仕掛け」がほどこされていて、それだけでも十分に楽しめるのだが、後の作品は、先の作品の「背景」をなすものとなっており、「現在」が「過去」の上にあるものだという、当たり前でありながら、私たち日本人が忘れがちな「歴史的事実」の重みを教えてくれる。

そんな本作を、楽しむためには、最低限、下に紹介した程度の「香港の歴史」は押さえておく方が良いだろう。
知らなくても読める作品にはなっているが、知っていて読むならば、そこに描かれていることの「重さ」を何倍も実感することができるからである。

『1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)によって、香港島が清朝からイギリスに割譲され、イギリスの永久領土となった。さらに、1860年の北京条約(第2次アヘン戦争(アロー号戦争)の講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲された。
その後、イギリス領となった2地域の緩衝地帯として新界が注目され、1898年の展拓香港界址専条によって、99年間の租借が決まった。以後、3地域はイギリスの統治下に置かれることとなった。
1941年に太平洋戦争が勃発し、イギリス植民地軍を放逐した日本軍が香港を占領したが、1945年の日本の降伏によりイギリスの植民地に復帰した。その後1950年にイギリスは前年建国された中華人民共和国を承認した。この後イギリスは中華民国ではなく中華人民共和国を返還、再譲渡先として扱うようになる。
(中略)
1979年、香港総督として初めて北京を訪問したクロフォード・マレー・マクレホースは、中華人民共和国側に香港の帰属をめぐる協議を提案した。しかし、中華人民共和国側は「いずれ香港を回収する」と表明するに留まり、具体的な協議を避けた。それでもイギリス側は「1997年問題」の重要性を説き続けた。
1982年9月には首相マーガレット・サッチャーが訪中し、ここに英中交渉が開始されることになった。サッチャーは同年6月にフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利して自信を深めていたが、鄧小平は「香港はフォークランドではないし、中国はアルゼンチンではない」と激しく応酬し、「港人治港」の要求で妥協せず、イギリスが交渉で応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。当初イギリス側は租借期間が終了する新界のみの返還を検討していたものの、イギリスの永久領土である香港島や九龍半島の返還も求める猛烈な鄧小平に押されてサッチャーは折れた恰好となった。
1984年12月19日に、両国が署名した英中共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の特別行政区となることが明らかにされた。共産党政府は鄧小平が提示した一国二制度(一国両制)をもとに、社会主義政策を将来50年(2047年まで)にわたって香港で実施しないことを約束した。
この発表は、中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国の支配を受けることを良しとしない香港住民を不安に陥れ、イギリス連邦内のカナダやオーストラリアへの移民ブームが起こった。
(中略)
1997年6月30日、チャールズ皇太子と江沢民国家主席、トニー・ブレア首相と李鵬国務院総理の出席のもと、盛大な返還式典が行われ、世界各国で中継放送された。
(中略)
返還後に香港特別行政区政府が成立し、董建華が初代行政長官に就任した。旧香港政庁の機構と職員は特別行政区政府へ移行した。また、駐香港イギリス軍は撤退し、代わりに中国本土から人民解放軍駐香港部隊が駐屯することになった。
2014年12月、香港の「高度の自治」を明記した1984年の中英共同声明について、1997年の返還から50年間適用されるとされていたが、2014年11月に駐英中国大使館が、「今は無効だ」との見解を英国側に伝えていたことが明らかとなった。これに先立って、中国当局は英下院外交委員会議員団による宣言の履行状況の現地調査を「内政干渉」として香港入り自体を拒否していた。
2017年、中国政府はもはや中英共同声明は意味を成さない歴史的な文書であると表明。2019年には香港で逃亡犯条例改正案をめぐり反政府デモが頻発する事態となり、同年8月にフランスで開催されたビアリッツサミットでは首脳宣言の代わりに発表された成果文書の中で、中英共同声明の重要性が指摘された。』(Wikipedia「香港返還」)

本作作者の陳浩基は、現在も香港に在住のようだが、彼が近年の民主化運動をどのように見ており、香港の将来をどのように考えているかは想像に難くない。

本作『13・67』にも描かれているとおり、陳浩基は単純な「反体制派」などではないし、そうした運動の「正義」を単純に信じたりしないというのは、本集の最後の短編「借りた時間に」での、イギリスの統治下にあった香港の左翼反体制運動の描き方にも明らかである。

本作の主人公にして探偵役となる、ロー警部とクワン警視(ローはクワンの弟子であり、最初の2作はローが、残りはクワン中心の物語となっている)が掲げるポリシーは「警察官は市民のために働く」という、これである。言い換えれば、警察官は、国家に忠誠を尽くすこと、国家の安寧を保つことが、その本分ではない。大切なのは、あくまでも「市民のための警察」であり、それが「正義」なのであって、その「正義」を守るためであれば、ローやクワンは、警察組織を裏切りもすれば、法を犯すことも辞さない。なぜなら、彼らにとっての警察とは、本来、市民のためのものだからで、それに反するような警察組織や法は「正義」ではあり得ないからである。

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言うまでもなく、いくら「市民のため」に徹した無私なものだとは言え、彼らの「正義」もまた、しばしば独善の影を帯びて危険ものですらあるのだけれど、しかし、この世に絶対的な正義がないのだとしたら、「国家よりも市民」という彼らの信念は、きわめて健全なものだと言えよう。

しかしながら、現実は「市民よりも国家」という結果になってしまっている。
それは何も、香港や中国だけの話ではなく、わが日本においてだって、本質的には大差ないのではないだろうか。いや、世界のどこでだって、よほどの例外的状況でないかぎり、国家権力は常に、市民・国民よりも、国家自体(国体)を守ろうとするものなのである。

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したがって、ロー警部とクワン警視のようなヒーローは、ほとんど実在し得ない。実在したとしても、香港の民主化運動家たちと同じような運命をたどる蓋然性がきわめて高い。だからこそ、この作品を読んだ者の多くは、この世界の暗い運命に心を痛め、この作品を書いた作者の想いに、自身の想いを重ねて、心を痛めざるを得ないのだ。

本作は「本格ミステリ」として、大変よくできた作品であることは、すでに周知の事実である。
しかし、「本格ミステリ」の誇る「ロジックとトリック」が、フィクションの中でしか通用しないという現実を、私たちはあらためて突きつけられている。
本作を読んで、いっとき「トリックとロジックの楽園」に遊ぶことは、決して罪ではない。
けれども、今この時、ローやクワンが、私たちにいったい何を求めているのか、それを考えることも必要なのではないだろうか。少なくとも私は、そうした点でも、作者とその〈痛み〉を共有したいと思わずにはいられないのである。

初出:2020年12月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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