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楊海英 『内モンゴル紛争 危機の民族地政学』 : 〈ネトウヨ〉が大喜びする 「嫌中本」

書評:楊海英『内モンゴル紛争 危機の民族地政学』(ちくま新書)

著者は、日本在住のモンゴル人であり、日本におけるモンゴル学の専門家だと見ていいだろう。つまり、中国における「内モンゴル問題」については、モンゴル人として「被害当事者」と言って良い立場の人でもあり、まさにその視点から、本書は書かれている。

読者は、著者のそうした「被害者」としての立場に配慮して読むことを、著者自身から求められるに止まらず、かつての戦争で、モンゴルまで侵攻した、元「宗主国」つまり「侵略占領国」の国民であることの自覚を持ち、その反省に立って読むべきだとも、求められている。つまり、本書は「政治的イデオロギー」の明確に込められた、「地政学」的な見地に立って書かれた、政治的文書なのである。

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したがって、こうした生々しい「現在進行形のリアル」を踏まえずに、「大国の横暴に翻弄された、少数民族の悲劇」といった紋切り型の「情緒的な読み方」をするだけでは、本書の読み方としては全く不十分だということを、まずは踏まえるべきであろう。
事実、著者は、次のような、強固な考え (政治的イデオロギー)に立つ人である。

『 二〇二〇年は、戦後七五周年を迎えた節目の年でもある。これほど光陰が過ぎても、日本は未だに戦争の呪縛から解脱できていない。
 筆者がいう呪縛とは二つある。一つは、いかなる戦争も絶対悪だという偏った見方が根強く残り、日本人の思想的源泉を枯渇させていることだ。もう一つは、現実離れした非武装論が蔓延り、国家としての日本の現状を悪化し、将来を暗くしていることだ。世界史的に見て、この二つの呪縛を解かない限り、先進国から転落するのも時間の問題だろう。
 我々人類、ホモサピエンスという種は誕生してからずっと戦争をしてきた。人類の拡散史はすなわち戦争史だと表現しても言い過ぎではない。先に形成し、定着していた集落を襲い、征服し、自らの領土と財産にしていったのが、ホモサピエンスの地球占領史である。その過程で、戦いに歯止めをかけようとして、さまざまな思想が生み出された。近代以降に出現したのが、正義と非正義の戦争観だろう。
(中略)
 戦争は資本主義の悪で、社会主義国家はそれを行使しないという神話もあった。しかし、一九七九年に中国とベトナムは戦火を交えて、その神話を粉砕した。両国の背後にはソ連とアメリカもいたので、イデオロギーによる正義と非正義の区別は無意味だと証明された。従って、日本だけが非正義の戦争を起こし、「侵略」された側にすべての正義があるという見方は成立しない。
 実は、この「戦争絶対悪」論、すなわち正義対非正義の戦争観が、その次の徹底的非武装論の温床となっている。敵に戦略されても、隣人が強盗化しても、丸腰で対応しようという天真爛漫な見方だ。敵が侵入してきて、強盗の隣人が暴力を振るった後に何が生じるかを想定しようとしない、思考停止した人たちの夢物語だ。敵に占領され、強盗に狼藉された後は国民の奴隷化、エリート層の殺戮だということを知らないからである。この真実の最たる実例がモンゴルである。』
(P198~200)

私がどうして、本書のレビューに『ネトウヨが大喜びする〈嫌中本〉』という、身も蓋もないタイトルを冠したのか、その理由は、本書の最後の最後、その「エピローグ」で明かされる著者の、このいかにも「ネトウヨ」が喜びそうな「政治イデオロギー」を見るならば、容易にご理解いただけると思う。

著者は、本書において、「地政学」的見地に立って、次のように語っていく。

(1)モンゴル人の住む中央アジアは、「地政学」的に見て、東西をつなぐ政治的要衝である。
(2)しかし、そこに住んでいた遊牧民たるモンゴル人は、草原の自然を愛する平和な民族であった。
(3)中国は長らく、覇権的実力を持たない劣等感から、ことさらに文化的優位を誇る「中華思想」の国であったが、覇権的な力を手にすると、劣等感に基づく「中華思想」という「偏見」をそのままに、周辺地域への侵略を始め、先住民族を暴力的に蹂躙していった。
(4)日本は、先の戦争において、モンゴルにまで侵攻し、モンゴルを日本が中国に設立した「満州国」を支える国と位置づけて、短期間だが「宗主国」として比較的寛大な統治を行ったものの、戦争に負けて敗走したまま、その占領責任は取らなかった。
 日本は、元「宗主国」としての責任を思い出して、中国の横暴を批判し、モンゴル民族を支えるべきである。

ごく大雑把な要約だが、こうした内容だ。
著者が、モンゴル人であり、国を追われて、日本で活動している人であれば、こうした内容になるのは、ごく自然なことだと言えるだろう。要は「日本は、モンゴルの側に立って、中国と敵対せよ。そうでないと、いずれ日本も、モンゴルのような目に遭うぞ」ということである。

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著者の書いていることは、大筋では正しいだろうし、事実でもあろう。テレビニュースやニュースバラエティー番組を視る程度の人であっても、中国の独善的な「覇権主義の横暴」くらいは、嫌でも知っているだろう。
ちょっと知識のある人なら、それはかつてのアメリカが、南米諸国にやったことに類似して、決してそれに劣る残虐さではない、といった連想も働くはずだ。
つまり、「経済力と軍事力を兼ね備えた大国」というのは、「民族」に関係なく、「覇権」を求めて「非人道的な行為」も辞さなくなってしまうものなのである。悲しいかな、それが「人間」なのだ。

だから、中国批判なら大いにけっこうである。
中国が、国内外で行っている横暴は、中国自身以外は、誰も正しいことだとは思っていないだろうし、心ある中国人だって、口には出せなくとも、心を痛めていることだろう。
中国人の全員が「中華思想」に染まっていて、他人の土地を奪うことを恥じない「強盗気質」の人間などではないという事実は、「大日本帝国の日本国臣民」のすべてが、天皇の「現人神」神話を盲信していたわけでもなければ、「五族協和」や「王道楽土」といった金看板による東アジアへの侵略行為の正当性を鵜呑みにしていたわけでもなかったのと、まったく同じことである。

当然、誰でも自民族を「良く言いたがる」ものだが、どんな民族にも、良い人もいれば悪い人もいる。まさに、ザ・ブルーハーツが『ここは天国じゃないんだ/かと言って地獄でもない/いい奴ばかりじゃないけど/悪い奴ばかりでもない』(「TRAIN-TRAIN」作詞・真島昌利)と歌ったとおりであり、「一面的な描き方」には、「偏見」か「政治的イデオロギーによる恣意的偏向」が練り込まれていると見るのが、冷静な知的理解というものであろう。

言い換えれば、政治的な意図を隠した「一方的な言い分」を鵜呑みにするのは「極めて危険」だ、というくらいの慎重さが、国際政治を考える上では、必須なのである。

だが、「ネトウヨ」には、それがない。
「自分好みの情報」には、無条件に飛びつき、有り難がって「我が正義」の「ソース(論拠としての出典)」としてしまうのが、ネトウヨのネトウヨたるところなのだ。

くりかえすが、中国が極めて危険な覇権国家であり、人道に反する行いを各地で繰り広げている事実を、否定する者はいない。
しかしながら、では、中国を非難する言説が「すべて真実」かと言えば、無論そんなことはありえない。
中国に敵対している国は、当然のことながら、中国に負けず劣らず、プロパガンダ(政治的宣伝)を垂れ流すのだから、「敵対者の言説」を鵜呑みにするのは、いかにも愚かなことなのだ。

だが、この程度のことも考えないで、本書著者も言うとおり「こっちが正義で、あっちは悪党だ」などと思ってしまうネトウヨ同様に、薄っぺらな認識しか持てない人は、決して少なくない。また、だからこそ、お易い「嫌韓中本」なんかも売れるし、たくさん刊行されもするのだ。

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(※ 上のは、わかりやすい「嫌中本」の実例 )

その点で、本書『内モンゴル紛争 危機の民族地政学』(ちくま新書)は、見るからに「政治的な意図を秘めた嫌中本」ではないところが「タチが悪い」と言えるのだが、決してそれは、見抜けないほど巧妙なものでもないというのも、上に引用した著者の「人類観」の表明に明らかだろう。
人類の歴史が「戦争=殺し合いによる覇権闘争」だとシンプルに考えられるのであれば、要は「力が正義」であり「勝てば官軍」であり、「ウソも方便」となってしまうのは、理の当然なのである。

要は、普通の読解力さえあれば、本書が「政治的に偏った本」であり、その分、眉に唾しながら読むべき本だというくらいのことは、見抜けて然るべきなのである。

そしてさらに言えば、著者の文章(文体)には、独特の「臭み」がある。
ありていに言えば、ルサンチマン(恨みつらみ)に発する怨念の、押し付けがましさが凝っているのだ。

もちろん、中国に酷い目に遭わされた人なのだから、恨みつらみがあるのは当然なのだが、しかし、同じような目にあった人が皆、本書著者と「同じような文体=思考形態」を持つわけではない。
モンゴル人にも、冷静な人、客観的たらんとする人、中国の横暴を憎みながらも「恨みつらみに身を任せても、解決はしない。われわれだって、力を持てば、同じようになるかもしれない」と考える謙虚な人も大勢いて、そういう人の文体は、本書著書のようなものにはならないのだ。

著者自身が「正義と非正義の戦争観」は、人間世界の多面性を隠蔽するための「一面的で一方的な図式化」でしかない、という正しい主張をしているのであれば、本書著者の立場もまた「正義でも非正義でもない」、その混交物だと理解するのが、本書の正しい読み方だろう。

読書人ならば「わかりやすい図式」にそのまま乗ってしまうような読み方にならぬよう、相応の冷静さが求められるのである。

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初出:2021年2月10日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年2月18日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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