見出し画像

小川善照 『香港デモ戦記』 : 抵抗のリアルと〈ロマンティシズム〉

書評:小川善照『香港デモ戦記』(集英社新書)

香港は、1984年の中英共同声明によって、1997年中国返還後も「一国二制度」として相当高度な自治を50年間は維持できる、ということになっていた。
この中英共同声明のなかで保証されていた、行政長官の普通選挙を求めた市民に対し、中国側がこれを拒否したために起こったのが、2014年9月28日から79日間続いた、民主化要求デモである「雨傘運動」である。このデモは、多くの市民が参加する平和的なものであったが、しかし中国政府はこれを容れず、運動は暴力的に解体されてしまう。

それから5年。「逃亡犯条例改正案の提出」がきっかけとなって惹起され、今も続いているのが、今回のデモである。
「逃亡犯条例」とは、要は国際間の犯罪容疑者の引渡し協定だが、香港の場合、これまでこの条例によって保証されていた容疑者の身柄保護の権利が縮小され、中国当局への身柄引渡しが容易となって、中国当局の統制がさらに強まることが懸念されたために、今回の反対デモが発生したのである。

つまり、「雨傘革命」の挫折で、一度は諦めムードの広がった香港ではあったが、香港の自由を奪おうとする、中国当局のさらなる容赦のない蠢動に、再び抵抗の火の手を、高く燃え上がらせたのだ。
その結果、すでに「逃亡犯条例改定案」は撤回されたが、デモは終息を見せない。もはや、そんな小手先の誤摩化しに一喜一憂する段階は過ぎており、今度こそ、中国当局に「一国二制度」の完全な(永遠の)実施を保証させるか、「独立」しかない、というところまで追い詰められたギリギリの抵抗に、香港の人たちは立ち上がっているのである。

 ○ ○ ○

抑圧権力との戦いは、永遠のテーマであり難問である。
殊に、その抵抗運動を「平和的に行なうべきか、暴力には暴力で立ち向かうしかないと考えるか」という難問は、永遠に解決することはないだろう。そういうジレンマの中で、香港の人たちは、引き返せない戦いに身を投じている。

「平和的な抵抗」で済むのなら、それに越したことはないというのは、言うまでもない話だ。しかし、「雨傘運動」の解体からも明らかなように、暴力を独占している権力側は、当然その使用を辞さないから、「平和的な運動」は多くの場合、敗北を余儀なくされる。
だから「暴力の使用も致し方ない」となるのが、自然な流れなのであるが、ことはそう簡単な話ではない。

なぜなら「暴力の容認」は、結局のところ「勝てば官軍」であるという価値観の是認に他ならず、そのようにして勝ち取られたものは、常に「暴力」によって守られるようになり、ひいては「他者の価値観の暴力的否定」という「権力の論理」へと変貌しがちだからである。つまり「ミイラ取りがミイラになる」怖れが非常に高く、事実、歴史はこうした悲劇をくりかえしてきた。

だから、香港の抵抗運動に心を寄せる私たちも、今回、彼らの中から生まれてきた「暴力的な抵抗」については、アンビヴァレンツな感情を持たざるを得ない。「それしか勝つ方法がないのだからしかたない」と思いつつ、しかしまた、それで勝ったとしても、暴力によって勝利した彼らの行く末に「暗い影」を見ないではいられないからだ。

くりかえすが、これはたぶん、永遠に解けない難問であろう。
つまり、「絶対平和主義・非暴力」と「暴力容認」という相反する態度の、どちらか一方が「正解」であるという結論にいたることは、永遠にないのだと私は考える。私たちは、常にこの二者の間で揺れ動きながら、その時々の現実と対峙していくしかないのではないだろうか。

ただ、そのときに「せめてもの救い」と感じられるのが、本書で紹介された「オタクの武闘派(勇武派)」の姿である。悲壮であって当然の状況におかれながらも、どこかで楽天的な彼らの姿には、救われるものがある。
私たち日本人は、真面目に悲壮に思い詰めた若者たちの悲劇を「連合赤軍事件」の悲劇として知っているから、香港の若者たちには、同じ轍を踏んでほしくないと感じるのだろう。完全なる逆境に対しては、「真面目」なだけでは、悲劇しか待っていないように、私には感じられるのだ。

だから、香港の若者たちには、たとえ「暴力」を容認するとしても、最後まで「ロマンティシズム」を捨てないでほしいと思うのだ。それがあるかぎり、彼らは「理想」を完全に捨てることはできず、「暴力と権力の魔性」に憑かれて、自滅することもないだろう。人には「甘い」と言われるだろう「ロマンティシズム」を胸に抱きつづけるかぎりは、ギリギリのところで「悪魔に堕するよりは、人として死のう」と思えるだろう。

『果たして「勝てば官軍」か。果たして「政治論争」の決着・勝敗は、「もと正邪」にかかわるのか、それとも「もと強弱」にかかわるのか。私は、私の「運命の賭け」を、「もと正邪」の側に賭けよう。』
(大西巨人「運命の賭け」より)

私の尊敬する大西巨人はこう言った。

ここで語られているのは「政治論争」であり「闘争」ではないと言う人もあろう。しかし、同じことだ。「論争」が成立しない時に「暴力しかない」と考えるか否か、ということだからである。

むろん、香港の人々には勝ってほしい。だが、勝って悪魔に変貌してほしくはない。そんな悲劇がくり返されてはならない。
だから、彼らには「オタクの武闘派(勇武派)」が象徴するような、単純な「正義感」と「ロマンティシズム」を捨てないでほしい。

無論、彼らとて内面では「理想と現実の二律背反」に引き裂かれているだろう。だが、それでもどこかで「正義のヒーローでありたい」という気持ちを持ちつづけてほしい。その困難の先にしか、真の「希望」はないと思うからである。
敗れても、また立ち上がる希望は、そのようにしてしか生き続けることができないと考えるからだ。

権力には殺されても、自分を殺してはいけない。
若者たちよ、「夢と理想」を決して捨てるな。それが、君たちの「最後の武器」なのだ。

初出:2020年6月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○






 ○ ○ ○





この記事が参加している募集

読書感想文

ノンフィクションが好き