シンガポール追放~辛亥革命への道⑰

英国警官の手によって、シンガポールの監獄に入れられた宮崎滔天。

不便と思われていた監獄生活だったが、日本の牢屋と違って天井が高く、煉瓦壁が分厚いので暑さを感じることもなかった。

宿屋にいるより快適なほどだった。

翌日から審問が開始された。

看守長は一回の訊問で放免になるだろう言って、賄賂を要求してきた。

実は宿屋の女将が宮崎のことを非常な金持ちだと言って、牢を出れたら幾らでもお礼を出すだ

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私もあなたのことが好きです。
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1 day 三國志

黄巾の乱勃発から晋による天下統一までの物語が、大まかには三國志と呼ばれています。では、これが一日二十四時間の出来事だとしたらどうなるのか? そいつをまとめてみました。一日でおさまる三國志!



0時0分(184年)
後漢の政治に怒りを覚えた黄巾党が乱を起こす。この乱を平定せんと、曹操、劉備、孫堅を始めとした群雄が立ち上がる。

1時15分(189年)
霊帝崩御。そのあとを継いだのは少帝劉弁だっ

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ありがとうございます。業の見える「排調」が好きです。
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時代劇レヴュー・番外編⑨:大明帝国 朱元璋(2006年)

明の太祖洪武帝・朱元璋は、中国史の皇帝の中でも一際、と言うか、一、二を争う強烈なキャラクタだと思うのであるが、日本では今ひとつ知名度が低いのが惜しいと思う(世界史の教科書では登場するが、メディア受けしないのか、あまり歴史番組や書籍でも取り上げられる機会が少ないように思う)。

そんな朱元璋の生涯を描いたドラマが、2006年に放送された「大明帝国 朱元璋」(原題「朱元璋」)で、こちらは日本でもDVD

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これは、大昔の話ではありません。現在の中国の話です。
【死者】や【文化財】に対する【意識】がまったく異なる【文化(唯物論)】を持つ人々であることは【理解】すべきなのです。
その上で、観光客及び移民を認める認めないを決めるべきなのです。

感謝致しますぞ。

この【ゆう】という人物が言っている主張は、【中国共産党】の【主張】そのものなのですな。【平和で文化的】であった【南京】に突如襲いかかった【日本軍】という【図式】と同じです。実際は【反共戦、その他内戦】、【洪水・疫病】で【平和】なエリアはほぼ一部だったのです。事実とは異なります。

感謝致しますぞ。

劉裕と雲台二十八将

結論ありきでものごと語るの楽しいよね。つまり本日の話は妄想です。やったね!

当然のように劉裕の話しますが、彼の立場について語れば「漢以来失われた平和を取り戻さんと立ち上がった劉姓の英雄」です。これって東晋時代にはすでに偉大なる先達がいます。光武帝、劉秀。一度王莽の手によって滅ぼされた漢を改めて立ち上げ、漢室中興の祖として、その名は輝かしく後世に響いています。

劉裕本人の気持ちはわかりません。が

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ありがとうございます。低体温で行きます。
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宮崎滔天捕まる~辛亥革命への道⑮

フィリピン独立運動には失敗したものの、500万発の弾薬を得、三合会の次に哥老会との連合も果たした孫文は、いよいよ革命の烽火を上げることにした。

明治33年の春、香港から二手にわかれると孫文はシンガポールへ、宮崎滔天らは軍用金を調達した後に合流、さらにシャムで在留支那人から軍資金を募集した上で支那内地へと侵入しようと計画を起てた。

その頃、日本を追われた康有為がシンガポールに滞留していたので、康

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香港で三派会合する~辛亥革命への道⑭

フィリピンの独立運動が失敗に終わったころ、長江で活動する革命組織、哥老会のメンバーが香港を訪れていた。

孫文の興中会、鄭弼臣の三合会、そして哥老会の三派が合同の秘密会議を行う為だった。

ところが、この会議を妨げようとした勢力がいた。

それは以前、宮崎滔天の手引きで日本に亡命した康有為らだった。

彼は亡命後、日本政府の力を借りて西太后に対抗しようと考えていた。

ところが、彼が頼みとしていた

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遷官用語にまつわるあれこれ

史書を読んでいると、こんな表現にぶち当たることがよくあります。

五年八月,以高祖為建武將軍、下邳太守,領水軍追討至鬱洲,復大破恩。恩南走。
401 年 8 月、劉裕を建武將軍、下邳太守と為し、水軍を与えて孫恩軍を追討、鬱洲まで至り、そこで大いに破った。孫恩は南に逃げた。

(宋書巻一 武帝本紀)

今日のお話は、太字で書いたとことについてです。ここ、結構場所によっていろんな表現がされるんですよ。

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ありがとうございます。えーとえーと。関羽。
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