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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(3)
第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂
3、突厥、東西分裂へ
沙鉢略可汗はかねてより、弟・処羅侯(のちの莫何可汗)の人望の高さを内心、疎んじていました。
千金公主の降嫁に随行して以来、突厥の内情を熟知していた隋の長孫晟は、これに目をつけて、処羅侯に調略を仕掛け、隋に内応させます。
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ですが、公的な政治・軍事面においては、沙鉢略・処羅侯兄弟は協力関係にありました。そこで僕は、処羅侯の隋への内応は、単に兄に背いたのではなく、「突厥の生き残りを図った策」だったのではないかと考えます。
大可汗である沙鉢略可汗の下で並立する小可汗たちの中で、隋が選んだ「離間策の駒」となった人物が、処羅侯の子・染干(のちの啓民可汗)でした。
582年、沙鉢略可汗は隋への大規模な侵攻を起こします。この時、染干は父・処羅侯と共にこれに加わらず、長孫晟の入れ知恵で、「鉄勒の造反」※との誤報を流して沙鉢略可汗を撤退させているのです。
鉄勒とは、突厥に従属していた同じトルコ系民族で、沙鉢略可汗は染干にその統治を一任していました。池田知正氏によれば、「鉄勒諸部の監視を役割としていた染干一人を通じて、鉄勒の情報が沙鉢略可汗に伝えられていた」とされます。鉄勒造反の誤報を信じたことから、沙鉢略可汗は染干に大きな信頼を置いていたことが分かります。
そこで僕は、処羅侯・染干父子は、楊堅を憎む千金公主の手前、隋と敵対せざるを得ない沙鉢略可汗に代わって、隋と結ぶことで、沙鉢略可汗がいずれ「隋に帰順する道」を開こうとしたのではないかと推測します。
染干が沙鉢略可汗に誤報を流したことは、隋に対し、自分たち父子の内応が「本心からである」と信じ込ませるため、とも考えられます。
また、池田氏は、「処羅侯が沙鉢略可汗に反抗を企てた形跡がないこと(から)、(・・・)処羅侯の統治した領域(・・・)は他の(突厥)有力者の所部に比し、かなり強かった」とされています。
このことから、処羅侯には隋を利用して兄を討ち、自身が可汗になろうという野心は無かったことが伺えます。また同時に、沙鉢略可汗が処羅侯に強力な地域を委ねたことは、弟に対する「信頼の証」であると言えます。
実際、沙鉢略可汗は処羅侯が隋に内応してからも、処羅侯を攻撃することはありませんでした。処羅侯・染干父子は、隋と突厥間のパイプ役となることで、「沙鉢略可汗の下での突厥の存続」を目指したのです。
この後、長孫晟は、沙鉢略可汗を快く思っていない突厥第二の有力者・阿波可汗を調略します。沙鉢略可汗と敵対した阿波可汗は、突厥から離反して「西突厥」を形成し、583年、ここに突厥は東西に分裂します。
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小野川秀美氏曰く、東突厥は「独り隋の援助を得た沙鉢略・莫何の一門のみが継続した」のです。しかし、文帝・楊堅の離間策はこれで終わったわけではありませんでした。
(次回へつづく)
※ 造反・・・体制に逆らい謀反を起こすこと。
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