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難病のため車椅子・人工呼吸器で生活。小・中学の頃から日本史・中国史に興味を持つ。高名な…

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難病のため車椅子・人工呼吸器で生活。小・中学の頃から日本史・中国史に興味を持つ。高名な世界史の先生からレクチャーを受け、世界史に対する思考を、独自の私説を交えつつまとめたものを掲載しています。歴史好きの方、ぜひご一読ください! ご意見・ご感想お待ちしております!!!

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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(4)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂4、「レビラト婚」と後継者  突厥が東西分裂した翌年の584年、千金公主がついに文帝・楊堅と和解し、その養女となって「大義公主」に改封されます。夫・沙鉢略可汗も晴れて隋に帰順して、「臣」を称しました。 「沙鉢略可汗の下での突厥の存続」を目指した処羅侯・染干父子の願いが叶った瞬間でした。 張啓雄氏によれば、こうして文帝と沙鉢略可汗が義理の父子となり、「天下一家」の国際秩序ネットワークが整ったと共に、「中国と胡人民族にとって、「和

    • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(3)

      第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂3、突厥、東西分裂へ  沙鉢略可汗はかねてより、弟・処羅侯(のちの莫何可汗)の人望の高さを内心、疎んじていました。 千金公主の降嫁に随行して以来、突厥の内情を熟知していた隋の長孫晟は、これに目をつけて、処羅侯に調略を仕掛け、隋に内応させます。 ですが、公的な政治・軍事面においては、沙鉢略・処羅侯兄弟は協力関係にありました。そこで僕は、処羅侯の隋への内応は、単に兄に背いたのではなく、「突厥の生き残りを図った策」だったのではない

      • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(2)

        第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂2、「千金公主 降嫁」の思惑  隋 建国の翌582年、隋の武将・長孫晟【552~609】は文帝・楊堅に、「今は武力による突厥征伐の時ではなく、大可汗の沙鉢略可汗と弱小の可汗らを離反させ、十数年の後、これを一挙に討つべき」と説きました(『資治通鑑』)。 隋が突厥対策に十数年という長期間をかけたのには、いかなる思惑があったのでしょうか。  突厥における最初の和蕃公主※1 は、580年に沙鉢略可汗【在位581~587年】に降嫁し

        • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(1)

           400年ぶりに中華統一を果たした「隋」と、その後を継いで300年に渡る繁栄を築いた「唐」。「分裂」と「統一」とを繰り返してきた長い中国史の中で、二つの帝国の誕生は、石見清裕氏曰く、 を意味するとされます。  一方でその陰には、同時にその異民族との熾烈な攻防がありました。その異民族が、中国の北方に君臨した中央ユーラシアの覇者・突厥です。 突厥は隋・唐両帝国にとって、最大の脅威であるとともに、「中華統一の契機を与えられた存在」でもありました。  このシリーズでは、隋・唐

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        「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(4)

        • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(3)

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        • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(1)