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難病のため車椅子・人工呼吸器で生活。小・中学時代から日本史・中国史に興味を持つ。高名な…

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難病のため車椅子・人工呼吸器で生活。小・中学時代から日本史・中国史に興味を持つ。高名な世界史の先生からレクチャーを受け、世界史に対する「私説を交えた思考」を書いています。歴史好きの方、ぜひご一読ください! ご意見・ご感想お待ちしております! 画像は「始皇帝」(画・筆者)。

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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(11)

第三部、 唐・太宗の玄武門の変と東突厥の隋                                                                                                再興運動2、「隋亡命政権」への道  始畢可汗の後押しを受け、名実ともに隋打倒の挙兵を果たした李淵は、長安を制圧したあと、国内への大義名分の観点から、ひとまず煬帝の孫の一人を恭帝【在位・617~618】として擁立します。 618年、煬帝が江都で

    • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(10)

      第三部、 唐・太宗の玄武門の変と東突厥の隋再興運動1、「太原起義」の立役者  626年6月4日、唐の首都・長安で起きたクーデターにより、唐の初代皇帝の高祖・李淵【生没年・566~635 / 在位・618~626年】の次男、李世民(二代・太宗)【598~649】が後継者争いを制します。「玄武門の変」です。 この政変について、石見清裕氏は、 とされています。 実は当時、東突厥では義成公主の主導の下、煬帝の孫・楊政道【618?~650頃】を「隋王」に擁立した、「隋亡命政権」

      • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(9)

        第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥との緊張4、隋と東突厥、決裂の時  612年から始まった、煬帝の三度に及ぶ高句麗遠征は、高句麗の反撃や、隋の将軍の反乱といった予期せぬ事態に見舞われ、成果を上げられないまま、最後は高句麗王の降伏を受け入れるという形で、幕を下ろしました。 一方、この頃の隋国内では、高句麗遠征に反発する民衆や群雄が次々と蜂起し、絶頂を迎えていたはずの煬帝の治世にも、陰りが見え始めます。    そうした中、615年、太原(現・山西省)を巡幸していた煬帝は

        • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(8)

          第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥との緊張3、隋と高句麗の仲介構想  では、前回述べた僕の推論、啓民可汗の「隋・高句麗 間の仲介構想」について考えていきます。 この構想の根底には、啓民可汗が新たに目指した、「隋への非完全服従」という目標が考えられます。その根拠は、「皇帝に対する呼び方の違い」にみられます。 かつて啓民可汗の伯父・沙鉢略可汗が、上表文※1 で文帝を「大隋の皇帝」と記したのに対し、啓民可汗は文帝を「聖人可汗」、煬帝を「至尊可汗」と記しています。 突厥の

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        「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(11)

        • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(10)

        • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(9)

        • 「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(8)

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(7)

          第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥との緊張2、「中華一強世界」を目指す煬帝  「鉄の交易」を通して突厥と結ぶことで、隋の脅威に対応しようとした高句麗でしたが、突厥の東西分裂(583年)後、東突厥は先述の通り、隋に帰順してしまいます。 605年、煬帝は、遼東に侵入して第一次高句麗遠征(598年)の引き金となった契丹を征伐するにあたって、東突厥の啓民可汗(染干)にも出兵を命じました。 この時、啓民可汗は契丹に対し、遼東へ来た名目を「高句麗との交易のため」と偽り、隋軍と共

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(7)

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(6)

          第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥との緊張1、「鉄」が結んだ突厥・高句麗の交流  文帝の後を継いで即位した、隋の二代皇帝・煬帝(名は楊広)【生没年・569~618年 / 在位・604~618年】も、父の離間策を用いた対異民族外交を継承します。 煬帝は、東突厥や鉄勒※1 など、既に臣従させた異民族諸国の武力と説得力を活かして、菅沼愛語氏の言われる、「以夷制夷(夷を以って夷を制する)」※2 の対外戦略を展開していきます。 新たにその矛先が向けられた先は、朝鮮半島の隣国・

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(6)

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(5)

          第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂5、隋の中華統一と「東突厥の統一」  589年、隋は南朝の陳を平定し、ついに念願の中華統一を果たしました。しかし、間もなく突厥では、都藍可汗と再婚した大義公主が、滅んだ陳に自らの故国・北周の滅亡を重ねた詩を作ります。 こうして、文帝と大義公主との仲は再び険悪となります。間もなく大義公主は、「隋からの亡命者」や西突厥の可汗と反乱を企てたとして、公主の身分を剥奪されました。  そのような中、都藍可汗の従兄弟・染干が独自に、文帝に「自

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(5)

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(4)

          第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂4、「レビラト婚」と後継者  突厥が東西分裂した翌年の584年、千金公主がついに文帝・楊堅と和解し、その養女となって「大義公主」に改封されます。夫・沙鉢略可汗も晴れて隋に帰順して、「臣」を称しました。 「沙鉢略可汗の下での突厥の存続」を目指した処羅侯・染干父子の願いが叶った瞬間でした。   張啓雄氏によれば、こうして文帝と沙鉢略可汗が「義理の父子」となり、「天下一家」の国際秩序ネットワークが整いました。 そして、「中国と胡人民族

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(4)

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(3)

          第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂3、突厥、東西分裂へ  沙鉢略可汗はかねてより、弟・処羅侯(のちの莫何可汗)の人望の高さを内心、疎んじていました。 千金公主の降嫁に随行して以来、突厥の内情を熟知していた隋の長孫晟は、これに目をつけて、処羅侯に調略を仕掛け、隋に内応させます。   ですが、公的な政治・軍事面においては、沙鉢略・処羅侯兄弟は協力関係にありました。そこで僕は、処羅侯の隋への内応は、単に兄に背いたのではなく、「突厥の生き残りを図った策」だったのではない

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(3)

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(2)

          第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂2、「千金公主 降嫁」の思惑  582年、隋の武将・長孫晟【552~609】は、文帝・楊堅に、このような献策を説きました。 まだ建国から間もない隋が、突厥対策に十数年という長期間をかけたのには、いかなる思惑があったのでしょうか。    突厥における最初の和蕃公主※1 は、580年に沙鉢略可汗【在位581~587年】に降嫁した千金公主【?~592年】です。 突厥との和平のためにこの降嫁を進めたのは、時の北周の第4代皇帝・宣帝(

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(2)

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(1)

           400年ぶりに中華統一を果たした「隋」と、その後を継いで300年に渡る繁栄を築いた「唐」。「分裂」と「統一」とを繰り返してきた長い中国史の中で、二つの帝国の誕生は、石見清裕氏曰く、 を意味するとされます。  一方でその陰には、同時にその異民族との熾烈な攻防がありました。その異民族が、中国の北方に君臨した中央ユーラシアの覇者・突厥です。 突厥は隋・唐両帝国にとって、最大の脅威であるとともに、「中華統一の契機を与えられた存在」でもありました。  このシリーズでは、隋・唐

          「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(1)