tomodhl

難病のため車椅子・人工呼吸器で生活。小・中学の頃から日本史・中国史に興味を持つ。高名な…

tomodhl

難病のため車椅子・人工呼吸器で生活。小・中学の頃から日本史・中国史に興味を持つ。高名な世界史の先生からレクチャーを受け、世界史に対する思考を、独自の私説を交えつつまとめたものを掲載しています。歴史好きの方、ぜひご一読ください! ご意見・ご感想お待ちしております!!!

記事一覧

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(6)

第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥と             の緊張1、「鉄」が結んだ突厥・高句麗の交流  文帝の後を継いで即位した、隋の二代皇帝・煬帝(名…

tomodhl
3日前
4

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(5)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂5、隋の中華統一と「東突厥の統一」  589年、隋は南朝の陳を平定し、ついに念願の中華統一を果たしました。しかし、間もなく…

tomodhl
2週間前
3

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(4)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂4、「レビラト婚」と後継者  突厥が東西分裂した翌年の584年、千金公主がついに文帝・楊堅と和解し、その養女となって「大義…

tomodhl
1か月前
2

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(3)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂3、突厥、東西分裂へ  沙鉢略可汗はかねてより、弟・処羅侯(のちの莫何可汗)の人望の高さを内心、疎んじていました。 千…

tomodhl
2か月前
5

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(2)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂2、「千金公主 降嫁」の思惑  582年、隋の武将・長孫晟【552~609】は、文帝・楊堅に、「今は武力による突厥征伐の時ではな…

tomodhl
2か月前
5

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(1)

 400年ぶりに中華統一を果たした「隋」と、その後を継いで300年に渡る繁栄を築いた「唐」。「分裂」と「統一」とを繰り返してきた長い中国史の中で、二つの帝国の誕生は、…

tomodhl
3か月前
4
「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(6)

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(6)

第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥と             の緊張1、「鉄」が結んだ突厥・高句麗の交流

 文帝の後を継いで即位した、隋の二代皇帝・煬帝(名は楊広)【生没年・569~618年 / 在位・604~618年】も、父の離間策を用いた対異民族外交を継承します。

煬帝は、東突厥や鉄勒※1 など、既に臣従させた異民族諸国の武力と説得力を活かして、菅沼愛語氏の言われる、「以夷制夷(夷を以

もっとみる
「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(5)

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(5)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂5、隋の中華統一と「東突厥の統一」

 589年、隋は南朝の陳を平定し、ついに念願の中華統一を果たしました。しかし、間もなく突厥では、都藍可汗と再婚した大義公主が、滅んだ陳に自らの故国・北周の滅亡を重ねた詩を作ります。

こうして、文帝と大義公主との仲は再び険悪となります。間もなく大義公主は、「隋からの亡命者」や西突厥の可汗と反乱を企てたとして、公主の身分

もっとみる
「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(4)

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(4)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂4、「レビラト婚」と後継者

 突厥が東西分裂した翌年の584年、千金公主がついに文帝・楊堅と和解し、その養女となって「大義公主」に改封されます。夫・沙鉢略可汗も晴れて隋に帰順して、「臣」を称しました。

「沙鉢略可汗の下での突厥の存続」を目指した処羅侯・染干父子の願いが叶った瞬間でした。

張啓雄氏によれば、こうして文帝と沙鉢略可汗が義理の父子となり、

もっとみる
「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(3)

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(3)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂3、突厥、東西分裂へ

 沙鉢略可汗はかねてより、弟・処羅侯(のちの莫何可汗)の人望の高さを内心、疎んじていました。

千金公主の降嫁に随行して以来、突厥の内情を熟知していた隋の長孫晟は、これに目をつけて、処羅侯に調略を仕掛け、隋に内応させます。


ですが、公的な政治・軍事面においては、沙鉢略・処羅侯兄弟は協力関係にありました。そこで僕は、処羅侯の隋へ

もっとみる
「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(2)

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(2)


第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂2、「千金公主 降嫁」の思惑

 582年、隋の武将・長孫晟【552~609】は、文帝・楊堅に、「今は武力による突厥征伐の時ではなく、大可汗の沙鉢略可汗と弱小の可汗らを離反させ、十数年の後、これを一挙に討つべき」と説きました(『資治通鑑』)。

まだ建国から間もない隋が、突厥対策に十数年という長期間をかけたのには、いかなる思惑があったのでしょうか。

もっとみる
「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(1)

「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(1)

 400年ぶりに中華統一を果たした「隋」と、その後を継いで300年に渡る繁栄を築いた「唐」。「分裂」と「統一」とを繰り返してきた長い中国史の中で、二つの帝国の誕生は、石見清裕氏曰く、

を意味するとされます。

 一方でその陰には、同時にその異民族との熾烈な攻防がありました。その異民族が、中国の北方に君臨した中央ユーラシアの覇者・突厥です。

突厥は隋・唐両帝国にとって、最大の脅威であるとともに、

もっとみる