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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(6)

第二部、 隋・煬帝の高句麗遠征と東突厥との緊張

1、「鉄」が結んだ突厥・高句麗の交流


 文帝の後を継いで即位した、隋の二代皇帝・煬帝ようだい(名は楊広ようこう)【生没年・569~618年 / 在位・604~618年】も、父の離間策を用いた対異民族外交を継承します。

煬帝は、東突厥や鉄勒てつろく※1 など、既に臣従させた異民族諸国の武力と説得力を活かして、菅沼愛語氏の言われる、「以夷制夷(って夷を制する)」※2 の対外戦略を展開していきます。



7世紀初頭の東アジア



新たにその矛先が向けられた先は、朝鮮半島の隣国・高句麗こうくりでした。第二部では、突厥から見た「煬帝の高句麗遠征」と、その先に待ち受けていた隋・東突厥関係の命運に迫ります。



 まず、「突厥の交易」に着目して、隋の高句麗遠征への過程を考えてみます。当初、東西分裂前の突厥は、551年に高句麗を攻撃をしていて、高句麗と敵対関係にあったのです。

しかし、経済面でみると、高句麗の交易圏はシベリアまで達しており、南シベリアを本拠地とした突厥との交易があったことが伺えます。この両者に共通する代表的な生産品が「鉄」でした。
 

 僕は、突厥-高句麗 間の交易が開始された背景が、突厥と、隋・高句麗などとの「製鉄法」の違いにあると考えます。

製鉄法は大きく二つに分けられます。中国で発明され、朝鮮半島にも伝わった「間接製鉄法」と、突厥などの遊牧民族が用いた「直接製鉄法」(日本の「たたら製鉄」の原型)です。

間接製鉄法が武器の鋳造ちゅうぞうに向いていたのに対し、直接製鉄法は、主に農具や調理器具の製造向きでした。今後の本格的な中国侵攻のため、強靭な武器を求めた突厥が目を付けたのが、中国式鉄器の輸出が盛んな高句麗でした。

この頃の高句麗は、敵対する半島内の隣国・百済くだら新羅しらぎの侵攻や、国内の後継者問題に悩まされていました。そこで突厥は、こうした高句麗の混乱を突く形で、高句麗への武力侵攻を行ったのです。

結果、突厥は国力を集中して迎撃に当たった高句麗に敗れます。皮肉にも、高句麗は突厥の侵攻を機に、「再び挙国一致体制を取り戻した」とも言えるのです。

その後は両者が争った記録はなく、交易という形で交流が始まり、突厥は高句麗から中国式鉄器を、食文化が盛んな高句麗は突厥から調理器具などを、それぞれ入手したものと想像されます。

やがて、巨大な隋帝国が出現すると、高句麗は、同じく隋と国境を接する突厥という盾を用いて、隋の脅威を防ごうとしたのだと、僕は思います。

 高句麗は突厥と結ぶ傍ら、鉄器不足の周辺国に鉄器を供給することで、それら諸国からの崇敬を集めていました。契丹きったん※3 もその一つで、突厥の支配下に置かれると、高句麗は契丹からの亡命者を国内に受け入れています。

ところが、598年、高句麗に身を寄せていた亡命契丹人が、本国に従って隋に帰順する動きを見せます。高句麗はその離反を阻止しようとする中で、隋領の遼東へ侵入してしまいます。

これには隋の文帝も激怒し、高句麗への出兵を命じて、ここに「第一次高句麗遠征」が勃発します。しかし、戦闘を交える前に高句麗王が謝罪してきたため、隋軍は撤退し、この遠征は実戦を回避して終わることとなります。


年表5



(次回へつづく)




※1 突厥に従属していたトルコ系民族。以下を参照。

※2 臣従した異民族諸国を用いて、まだ隋に従っていない他の異民族諸国
   を従わせること。
※3 モンゴル高原東部の遊牧民族。


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