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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(4)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂

4、「レビラト婚」と後継者


 突厥が東西分裂した翌年の584年、千金公主がついに文帝・楊堅と和解し、その養女となって「大義たいぎ公主」に改封されます。夫・沙鉢略さはつりゃく可汗も晴れて隋に帰順して、「臣」を称しました。

「沙鉢略可汗の下での突厥の存続」を目指した処羅侯しょらこう染干せんがん父子の願いが叶った瞬間でした。
 
張啓雄氏によれば、こうして文帝と沙鉢略可汗が義理の父子となり、「天下一家」の国際秩序ネットワークが整ったと共に、「中国と胡人民族にとって、「和親」は、和平共存を求め、後顧の憂いを断つための国交関係となった」とされます。

 
 587年、沙鉢略可汗が亡くなり、弟・処羅侯が莫何ばくか可汗【在位587~588】として即位しました。さらに翌年、沙鉢略可汗の子・都藍とらん可汗【在位588~599】が即位します。


突厥系図


ここで僕が着目したのは、千金公主改め大義公主の「レビラト婚の矛盾」という点です。
 
 本来、遊牧民族にみられた「レビラト婚」とは、先代の可汗の寡婦(未亡人)を新たな可汗が妻(可賀敦カガトゥン)として迎えるものでした。

しかし、大義公主は沙鉢略可汗の死後、次代の莫何可汗には嫁がず、「一代置いて」、都藍可汗に嫁いでいるのです。
 
池田知正氏は、「大可汗位は沙鉢略可汗から都藍可汗へ伝わった可能性が高く、僅差で(その間に)莫何可汗を経由した可能性が高い」とされます。僕は文帝の第二の離間策とは、「沙鉢略一家と莫何一家の分裂」だと推測します。
 
歴史書の記述を比較すると、『資治通鑑』が、「沙鉢略可汗の遺言によって莫何可汗が即位した」とするのに対し、『隋書・長孫晟ちょうそんせい伝』は、「長孫晟の立ち合いの下、莫何可汗が「隋によって」擁立された」とあります。
 
突厥における後継者の選択は、最高権力者の大可汗と有力者の協議によって決定されました。沙鉢略可汗以前の二代の大可汗は、いずれも先代の大可汗の「弟」ではなく「子」でした。

そのため僕は、突厥の有力者が推したのが、「沙鉢略可汗の子・都藍可汗」だったのではと考えます。

 
 これに対して隋は、結果的に最後まで対立しなかった沙鉢略・莫何兄弟を、内心苦々しく思っていたと想像されます。

そのため隋は、突厥全体が次期候補に推す都藍可汗ではなく、「沙鉢略可汗の弟・莫何可汗」を、「沙鉢略可汗の遺言による指名」という名目で即位させ、莫何可汗と都藍可汗との対立の火種にしようとした、と推測します。
 
他方、即位した莫何可汗は、「弟が兄に代わることは先祖の礼を失っている」(『隋書・突厥伝』)と述べ、何度も甥・都藍可汗に大可汗の座を譲ろうとします。

これは莫何可汗が、「大義公主を娶るのを避けるため」であったと、僕は思います。レビラト婚の習わしに基づけば、莫何可汗が大義公主を娶った場合、次に娶るのは息子・染干となり、都藍可汗の立場がなくなってしまうからです。
 
莫何可汗は、あくまでも自身を「中継ぎの大可汗」と位置づけ、都藍可汗に大義公主を娶らせることで、彼を「レビラト婚に基づいた正統な次期大可汗」とし、再び隋の離間策を平和裏に解決しようとしたのです。

翌年、莫何可汗が西方への遠征先※ で戦死すると、都藍可汗が即位して、大義公主を娶りました。


年表3

(次回へつづく)


 
※ 西突厥の達頭可汗、または、ササン朝ペルシア(イラン高原・メソポタ
  ミアなどを支配。イラン帝国。226年~651年)への攻撃とされる。


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