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非業の皇太子・劉拠

劉拠は西漢(前漢)の武帝の長男で、皇太子に立てられていた。
晩年、武帝は江充という人物を寵愛し、監察官の地位に就かせていた。江充は皇族であっても恐れず弾劾し、劉拠も弾劾したため、劉拠は江充と対立することになった。
この頃、丞相・公孫賀の子の敬声が、横領が発覚し捕らえられた。公孫賀は、大侠客の朱安世を捕らえて子の罪を贖おうとしたが、朱安世は公孫敬声が武帝の娘と密通していること、離宮への道に「まじもの」を埋めて武帝を呪詛していることを告発した。公孫賀は投獄され獄死した。

武帝

その後、武帝は離宮へ行幸したが、そこで病に臥せってしまった。武帝の病気を知った江充は、皇太子の劉拠と対立していたことから、武帝崩御後に自分が誅殺されるのを恐れ、武帝の病気が巫蠱によるものと上奏した。武帝は周囲の者がみな巫蠱で呪詛を行っていると疑った。巫蠱の摘発を命じられた江充は、これに付け入り、宮中を捜索して太子宮で「まじもの」を「発見した」。驚いた劉拠は、守り役の石徳に相談した。石徳は江充を捕らえて陰謀を暴くよう勧め、江充の動きの速さを見た劉拠は石徳の勧めに従って江充を捕らえて処刑した。
江充に従って宮中を捜索した蘇文は、武帝に劉拠が反乱を起こしたと訴えた。武帝は疑って劉拠を召し出そうとしたが、その使者は劉拠のもとへ行かず、「殺されそうになった」と嘘の報告をした。武帝は激怒し、丞相の劉屈氂(りゅうくつり)に鎮圧を命じた。謀反人とされた劉拠に従う者は少なく、敗れた劉拠は長安の城外へ脱出した。その後、劉拠は金策が原因で居場所がばれ、自殺した。
事件の終結後、武帝は江充が行った巫蠱にまつわる一連の密告を調べ直した。すると、その多くが冤罪であり、武帝は劉拠に反乱の意志が無かったことを悟った。そこで、田千秋が劉拠の冤罪を訴えて上奏したのを機に、江充の一族と蘇文を誅殺した。田千秋は高祖劉邦の廟を管理する役人に過ぎなかったが、上奏の功で直ちに大鴻臚に出世し、数ヶ月後には異例の早さで丞相となった。一方で、劉屈氂を始め乱に関わった者は多くが非業の死を遂げた。
武帝の死後、末子の劉弗陵が即位した(昭帝)が早世し、劉拠の孫の劉病已が民間から探し出されて即位した(宣帝)。宣帝によってようやく劉拠の名誉回復がなされ、戻太子と追号された。

宣帝

江充に巫蠱の疑いをかけられた劉拠に反乱の意志はなかったが、江充の与党であった蘇文らの画策で父・武帝との間を引き裂かれ、最後は非業の死を遂げた。劉拠の死については特に不自然なところはなかったようだが、民間では劉拠は生存しているという噂が早くから流れていたという。
武帝の子・昭帝の代になった始元五(紀元前82)年、一人の男が長安に現れ、「自分は太子の劉拠である」と名乗った。丞相の田千秋、御史大夫の桑弘羊を始めとする大臣たちが面接したが、男があまりにも劉拠に似ているために、困惑して何もできなかった。しかし、遅れてきた京兆尹の雋不疑は、「太子はかつて、先帝に刃を向けている。罪は罪であり、赦免の詔勅が出ていない以上、今やって来たとて罪人に変わりはない」と言って男を捕らえてしまった。取り調べの結果、男は成方遂という名(張延年という異伝もある)で、太子の家臣の知人であり、顔が似ているのを利用して一芝居打ち富貴を得ようとしたと白状した。男は騒擾の罪で処刑された。


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