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中国ぎらいのための中国史/日本人にとって歴史はファンタジー

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)です。20年弱続けた会社員生活を辞めて、アラフォーの無職、大学院生です。

安田峰俊さんの『中国ぎらいのための中国史』という本が発売されました。帯には、「三国志やキングダムは好きだけど、現代中国はイヤになったというあなたへ!」とあります。

本の感想をTwitterに書きました。インプレッション(表示された回数)は2件で12,000回を超えまして。多い方は25リツイート、44イイネがつきました。しかし、Twitterという媒体の特性に鑑み、意見のほのめかしの留めて、自分の考えを書いてないです。
noteで思っていることを書こうと思います。研究のなかみは書きません。研究よりも手前(現実社会、皆さま)に近いレベルの話なので、noteに書いてもいいかなという判断です。

日本人は古い中国の歴史を、ファンタジーの元ネタとして親しんでいます。ぼくが研究している三国志や、始皇帝の天下統一を題材にして日本で複数回の映画化がされた『キングダム』など。
現代中国の習近平政権は、三国志や始皇帝に限らず、中国史のさまざまな事件や人物に、政治の文脈で言及します。日本におけるファンタジー素材としての中国史と、現代中国の政治素材としての中国史。ギャップを埋めるために、中国史を解説しますという本。

ファンタジー素材、政治素材ということばは、安田さんは使っていませんが、ぼくにとって便利なので使わせていただきます。

ここからぼくの意見です。
恐らくですけど、歴史(過去)を、現実の政治や経済活動に使うこと、つまり「政治素材としての歴史」のほうが、人類では一般的な扱い方でしょう。

国家の歴史とか言うとイメージしづらい。
会社で考えます。会社ならば、創業者の言葉を重んじたり、歴代社長の功罪が語られたり、発売してきた商品のラインナップを並べて飾るのって、普通にやってますよね。そりゃそうで、現代のすべての組織や活動は、過去とつながっている。過去の試行錯誤は、教訓や参考になります。もしくは叩き台、反面教師になります。

たびたび歴史を引きあいに出し、現在の政策を正当化する中国は油断ならないぞ、というニュアンスが持たれがちですが、ぼくは逆だと思います。習氏政権が恣意的に過去を捏造・曲解して主張している!のではなくて、歴史(過去)の取り扱いは、それが通常運転。
中国だから、権力志向が強いから、ではない。

わざわざ終わったこと、歴史(過去)を振り返る動機、言及して研究する動機は、現代の目線から役に立つから。抹殺・無視されるのは、現代に無用になったから。発掘・再発見されるのも同じ理由。みんな歴史について知ろう、知らせよう、知るべきだ、という主張がなされるのも、現代に使うからであり。研究論文が書かれるのも、同じ理由です。

安田さんの本のなかで、現政権に歩調を合わせた歴史の論文が書かれることに触れ、恐らく批判的なニュアンスです。しかし、どんなものが「学術的」とされるか、という定義と評価もさまざまだとぼくは思います。

かたや日本で「政治素材としての歴史」は好まれません。政治家が歴史のこと(故事)を引き合いに出すことはない。引用しようものなら、猛烈な批判に晒されそうです。
政治家がバカだから歴史を知らない?国民がバカだから歴史の話をしても通じない?いずれも違うでしょう。もしも、「政治素材としての歴史」が実用として機能しているなら、政治家は歴史を知っているし、国民は歴史を知っているし、素材が時点時点で加工されて流通すると思います。

ぼくがツイートで触れましたが、日本人には中国史ではなく日本史ですら、ファンタジー素材です。
『キングダム』や三国志は、時間や地理が隔たっているからファンタジー素材なのではなく、日本人にとって歴史はファンタジーなんです。その理由は「言ってはいけない」ことになっていますが、「政治素材としての歴史」を使って、1940年代に失敗したからでしょう。※言い方が遠回りですし、ここを太字にすることすら憚ってしまう

現代日本人は、過去からのつながりで現代の政策を語ることはタブーというか、苦手です。学んで発言しても全方位から攻撃されるなら、そもそも学びたくなくなりますから、学びません。政治家が政策の説明に歴史を使うことがない。いかなる文脈でも、過去を想起させるようなことを言えば、20世紀前半の悪い部分の再来だ、と見なされるからです。※その事態がすでに高度に「歴史的」なんですけど

現実と接続した歴史に言及することが社会的に許されるのは、引退後の経営者ぐらいです。お金と立場が揺らがず、高齢だから逃げ切れる。経済的に成功したから何を言ってもいい、という免罪符がある。

このあたりは、占いと似ているかも知れません。占いを参考にしていますと言うと、良識を疑われて社会的に抹殺されます(それも変な話ですが)。しかし引退後の経営者は、お金と立場に裏打ちされ、占いの話ができる。成功したという結果から遡って、じつは占い師のアドバイスを参考にしていたと言ってよい。占いやオカルトと、歴史に学びました、歴史を参考にしました、という出版物も色合いが似ている。

現代日本では、歴史を見て見ぬふりをするのが良識とされる。
しかし、自分たちと同じ人間(日本史ならば同じ「日本人」)の営みですから、調べると面白いんですね。しかし、現実との連続性によって捉えることは許されない。過去について「使えるから調べる」「調べて使う」という、当たり前のループから締め出されると、

・ファンタジー素材としての歴史(創作)
・あらゆる意味を剥がした客観的事実のみ探求(研究)

という2つの方向に逃げるしかありません。
これは、それ自体が「好き」でやっているのではなく、そこしか逃げ場がないからこのようになっているのではないか。ゼリーを押しつぶしたら、スキマから、ぶちゅっと出てきた……みたいなイメージです。

ファンタジー素材としての歴史は楽しいですよ。『キングダム』『逃げ若』おもしろいです。別方面の出口、あらゆる意味を剥がした研究活動についても思うことがありますが、別の話題なのでこの記事では触れません。

このnote記事をまとめにかかりましょう。

過去のこと(歴史)を好きなように選び出し、好きなように解釈して、今日の政策の正当化に使うほうが、むしろ普通?というか、「人間がやりそうなこと」だと思います。歴史を見て見ぬふりをしてきた現代日本人は、まずはこれに立ち返って、「人間って、そうだったかも知れないな」と思い返すのは、第一歩としてアリだと思います。差分の認知です。

すると、歴史を政治利用している政権を、そのこと自体(歴史の政治利用)をもって強権的で危険で偏向的だ、嫌いだ、と思わなくなるでしょう。
ただし、くれぐれも注意したいのは、歴史に言及した特定の政権の言説について、歴史を尊重すればこそつねに賛成すべきだ、とはなりません。彼らが現在、どういう筋道でどんな過去を利用しているんだろう?と、調べる入口に立ってもよいかも、という程度の温度感です。

歴史がおもしろいのは、この前提を値引きせずに正面から受け止めた後ではないでしょうか。※そこまでは全員には強いません

現代日本人は、「歴史は無用で知る価値なし」という、高度に歴史的な(過去からの経緯に強く規定された)価値観を持っています。われわれにとって歴史は無数の趣味の1つで、ファンタジーの素材です。ですから、歴史についての知識が乏しいし、リアリティをもって学ぶのが不得意です。そのように時代や社会によって、訓練?を受けてきているから、忌避感があるのも当然なんですよね。
この件について、もちろん個人の悪者はいないし、とつぜん学校教育が悪いというつもりもないです(学校教育もさまざまな経緯とパワーバランス、環境などの制約条件の産物なので)。

自分たちが目を背け、苦手であることにも気付かないようにしてきた分野(政治素材としての歴史)というものがあって、しかしそれは強力な教訓や道具としてあちこちで使われているものだ、という認識は、あってもいいような気がします。あんまり目を背けてると、不利になっちゃうかも知れないので。

架空の某国では、過去に「弓矢」を得意としたが、大きな戦いに負けた。以後、弓矢はタブーとされ、遠距離攻撃は投石のみで戦いました。小回りがきかずに、ますます衰退しました……では悲しいです。※寓話

歴史に関心を持つための、遠めの入口として、歴史物のファンタジーがあってもいいような気がします。
ぼくも環境の制約を受けているので、「いまこそ積極的に歴史を学んで、政策の正当化に活用しましょう」とは思いません。「ファンタジーをより深く楽しみ、自分でも二次創作するための歴史学習」が落ちつきどころかと。ファンタジー素材になっていることにも相応の理由がありますからね。

株価や為替のテクニカル分析と同じで、その付近に前例や実績が少ないと、一気に極端なところまで突き抜けちゃうんです。サポートライン、レジスタンスラインがないという。※いきなりトレードの話をしてすみません
相場でつかうテクニカル分析も「歴史」の経済的な利用ですけどね。※うまいことを言ったつもり

おもしろい本なので、皆さまもどうぞー。

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