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「隋唐帝国 対 突厥 ~外交戦略からみる隋唐帝国~」(5)

第一部、 隋・文帝の離間策と突厥の東西分裂

5、隋の中華統一と「東突厥の統一」


 589年、隋は南朝のちんを平定し、ついに念願の中華統一を果たしました。しかし、間もなく突厥では、都藍とらん可汗と再婚した大義たいぎ公主が、滅んだ陳に自らの故国・北周の滅亡を重ねた詩を作ります。


文帝・楊堅


こうして、文帝と大義公主との仲は再び険悪となります。間もなく大義公主は、「隋からの亡命者」や西突厥の可汗と反乱を企てたとして、公主の身分を剥奪はくだつされました。

 そのような中、都藍可汗の従兄弟・染干せんがんが独自に、文帝に「自身への公主降嫁」を願い出ます。その目的は、猜疑さいぎ心の強い都藍可汗への恐れから、これを機に都藍可汗からの独立を狙ったと考えられます。

この時期の都藍可汗は、強勢となった弟を警戒して滅ぼしたり、大義公主らに扇動されて、隋への朝貢ちょうこう(貢ぎ物)も絶っていました。

都藍可汗と隋が争う事態となれば、隋と協力関係にある染干は、都藍可汗の猜疑心をあおる対象となります。

染干の生き残る道は、自分も隋の公主を娶ることで、都藍可汗に対抗できる強力な後ろ盾を得ることだったのです。隋から染干に届いた返答は、「大義公主を殺害すれば婚を許す」というものでした。

 染干の讒言ざんげん※ を信じた都藍可汗は、自ら大義公主を手にかけます。597年、突利とつり可汗(小可汗)と称していた染干は、隋の公主を娶りました。都藍可汗もまた、隋に新たな公主の降嫁を求めます。

しかし、隋から許可が降りることはありませんでした。やがて、隋は染干の要請を受け、都藍可汗の討伐を行います。激怒した都藍可汗は染干を攻撃し、染干は長孫晟とともに、わずか5騎で長安ちょうあんの文帝の元へと逃げ延びます。

染干は文帝から大可汗に擁立され、ここに啓民けいびん可汗【在位599~609】が誕生します。この時、以前に嫁いだ公主は既に亡くなっており、啓民可汗は新たに義成ぎせい公主【?~630】を娶りました。

間もなく、隋の再討伐を受けた都藍可汗は、部下の裏切りに遭って殺されます。最終的に生き残ったのは、「大義公主を娶らなかった染干・啓民可汗」でした。
 


 文帝の離間策は、「啓民可汗の擁立による東突厥の統一」を以って完遂しました。その最大の目的はやはり、大義公主をはじめとした「親・北周派の掃討」にあったと思います。

大義公主の謀反に協力した「隋からの亡命者」については、都藍可汗に反乱の計画を「いつわりて言ふ」(資治通鑑)とあります。都藍可汗は彼を匿おうとしますが、長孫晟がすぐに発見して捕えています。

このことから、実際にはこの人物は亡命者ではなく、隋が送った「間者」だったと、僕は考えます。その目的は、大義公主を焚きつけて謀反を起こさせ、粛清する大義名分を作るためでした。

 文帝は、陳の平定以前は、婿の沙鉢略可汗・養女の大義公主夫妻を「偽装家族という曖昧なベール」で安堵させて後顧の憂いを断ちました。

そして、中華統一後は満を持して都藍可汗・大義公主夫妻を滅ぼし、傀儡かいらいとして扱いやすい啓民可汗と相互共存の関係を築くことで、東突厥を「完全な親隋国家」に変えたのでした。

それが成し得た原動力はまさしく、都藍可汗以上の、「文帝自身の猜疑心の強さ」だったのです。


年表4



(第二部へつづく)



※ 相手を陥れるための偽りの悪言。

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