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二上剛 『黒薔薇 刑事課強行犯係 神木恭子』 : 人間を描かない 〈リアル〉

書評:二上剛『黒薔薇 刑事課強行犯係 神木恭子』(講談社文庫)

実を言うと、私は本作について、小説としては興味が無く、まったく期待しないで読んだ。興味があったのは、著者が「元警察官」だという点であり、そこから読みとれるものを、「警察の現実」を検証する材料にしたいと考えただけだった。つまり「資料として読んだ」のだ。
だから、読み終えてみると「意外に読めるじゃないか。エンタメとしては十分水準に達している」と思った。
無論、小説として「傑作」だなどとは思わない。テレビの2時間ドラマの刑事物が「それなりに楽しめる」のと同じような意味合いでの、「エンタメ」的な面白さであり、その程度の「娯楽小説」だとも思う。

こう、偉そうに書くと、なかには反発なさる方もおられようが、私はこれでもミステリは、それなりに読んでいる。少なくとも、著者の数十倍は読んでいる。したがって、著者のように「好きなミステリ小説」として、(二上を作家デビューさせた)島田荘司の『占星術殺人事件』と、高村薫『マークスの山』(二上と同じく、高村は大阪在住で、同作は刑事ものの直木賞受賞作)の二つを挙げるほど、ミステリにナイーブでも無知でもない( 二上剛「黒薔薇 刑事課強行犯係 神木恭子」特設サイト参照)。
史上最初のミステリについて、ソフォクレスの『オイディプス王』を挙げる論者もいれば、日本のミステリ界では、常識的にポーの「モルグ街の殺人」だと考える人が多い、というくらいの「常識」はあるし、どちらも読んでいる。つまり、世界のミステリ史も日本のミステリ史も、ざっと語れるくらいの知識は持っているし、読んでもいる。
だが、私が好きなのは「ロジックとトリックのミステリ」、つまり「本格ミステリ」というジャンルであって、そのほかの「ハードボイルド」「冒険小説」「警察小説」といったものは、よほど評判になった作品か、「本格」味のある作品しか読んでいない。だから、初手から「本格」要素が薄いと予想された本書を、ミステリとして読もうという気は起こらなかった。あくまでも、私の興味は「現実の警察」であり「警察官のリアルな実感」を探るというところにあったのである。

そして、本書を一読して感じたのは、やはりこれは「元警察官が書いた小説」だということであった。

詩人として著名なW.H.オーデンが「罪の牧師館 探偵小説についてのノート」の中で、「オイディプス王」などに言及しつつ、ギリシャ悲劇と推理小説の共通点として「登場人物の性格が変わらない」という特徴を挙げている。
どういうことかと言えば、ギリシャ悲劇も推理小説(本格ミステリ)も、「必然性という運命=論理的整合性」によって支配されているからだ。つまり、ギリシャ悲劇においては「罪を犯した者は、その罪を償う運命(因果応報)を、神によって与えられる」し、推理小説においても「罪を犯した者は、その罪において身を滅ぼす(機械仕掛けの神である名探偵によって、謎が解かれ、罪が暴かれる)」ようになっている。その意味で、こうした物語は「首尾一貫」しておらなければならず、登場人物の「性格」が途中で変わってしまったのでは、「神=必然性=因果応報」という理路整然とした形式性(美)が崩れてしまうからだ。

ところが、古き良き「推理小説=本格ミステリ」とは違い、現代の「ミステリー」の中には、こうした「運命」とは縁も所縁もない作品が多数存在している。それらの作品においては、「首尾一貫性」など必要もなければ、求められてもいない。その時々、もっともらしく楽しめれば、それでいいのである。
そして、本作『黒薔薇 刑事課強行犯係 神木恭子』もまた、そんな「読み捨ての娯楽小説」としての「現代ミステリー」だと言えるだろう。

幾人かの(※ 同書単行本)レビュアーが指摘しているとおり、本作における「人物描写」には、およそ一貫性がない。当初はどう見ても嫌な奴だったのが、だんだんと良い面を描かれてゆき「本当は良い人だったのか」と思えてくるが、そういうわけでもない。良い面も悪い面も、ともにその人物の現実なのである。
だから、そうした一貫性のない人物描写がなされていても、それが「破綻」だと感じられはしない。むしろ「人間って、そういうものだよね」という、ある種の「リアリズム」を感じることすらできる。そして、そうした点で、たしかに本作は「面白い」のである。

しかし、こうして描かれた「リアルな人間像」とは、じつは、ながらく「文学」が描こうと努力してきた「人間」あるいは「人間の実存」とは、まったくの別物なのだ。

「文学」が描こうとしてきた「人間」あるいは「人間の実存」とは、人間一般の「本質」であり、表面の奥に隠されたものと理解されてきたのであり、それを「剔抉する(抉り出す)」ことこそが「人間を描く」という「文学的営為」だと理解されてきたのだが、本作においては、もはやそんな「人間」あるいは「人間の実存」や「人間の本質」など無いと、断念的に観念されている。
その時その時、状況に応じて喚起される「表面的な感情」が、その人のそれまでの性格を逐次変容させながら再構成されていく。結局、人間には、固定的な本質があるのではなく、変容していくものの総体的な束(「川」のようなもの)でしかない。その時その時の「表出」以外は存在しない。表面の「奥」にひそむ「本質」など無い、という実感なのである。

『「(…)月並みな言い方になるけれど、絶対的真実の発見は不可能で、我々刑事のできることは、相対的真実にすぎんのや」』(文庫版 P256〜257)

そのとおりである。
しかし、それだからこそ、「文学」は「人間」の「実存」や「本質」を剔抉しようとしてきた。「人間の見かけ(表層)」だけではなく、「人間(そのもの)」を描こうとしてきたのである。
しかし、本書の著者には、そういう「文学」的な精神が無い。あるのは、「元刑事」らしい、ある種の「断念というリアリズム」だ。

著者の二上剛は、自作『ダーク・リバー 暴力犯係長 葛城みずき』についてのインタビューで、同作において『警察組織の腐敗ぶりが徹底的に描かれていますが、このリアルさは、二上さんが刑事だった時の見聞が元になっているのでしょうか?』という質問に対し、

『その通りです。放っておいてはいけない組織の一面を書きました。小説的に膨らませている箇所もありますが、ベースは今、現実に起きている腐敗です。組織もその一面をよく解っていながら黙認しているという、その問題点を突きました。無理だとは解っていますが、組織の反省の願いを込めて書いています。』

と答えて、自作に「警察批判」的な意図のあることを認め、否定してはいない。
しかしそれは、自分なりの古巣への、ある種の「恩返し」であるというニュアンスを含ませてもいる。

しかしまた、そうした「立派な(社会派めいた)意図」があるにもかかわらず、著者がいくら「現実の警察の暗部」を描いたところで、所詮、それは「娯楽フィクション」として消費されるに止まり、読者の誰も、それを本気で問題にしようとは思わないだろう。著者の小説には、「現実」を撃つほどの力は無い。
なぜならば、著者自身、自分に不都合な現実の描写を避け、あるいは美化している以上、そんなものに、現実を撃つ力など籠ろうはずもないからである。

初出:2020年3月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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