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山崎裕侍監督 『ヤジと民主主義 劇場拡大版』 : 殺されたくなければ、ヤジくらい言わせろ。

映画評:山崎裕侍監督『ヤジと民主主義 劇場拡大版』

「殺されたくなければ、ヤジくらい言わせろ。」という本稿のタイトルを見て、ドキッとした人もいるだろう。まさにそれを狙ったタイトルなのだが、なぜ、あなたはこのタイトルに「ドキッとした」のだろうか。一一それが問題なのである。

現に、安倍晋三元総理が殺されたからだろうか?

それもあるだろう。だが、このタイトルが意味しているのは、「ああいう事件を起こさないためにも、言論の自由はしっかりと保証されるべきである」ということであり、「防犯」的な趣旨のものだから、これは何の問題のない「正論」すぎない。
ああいう事件が起こらなくなるというのは、亡き安倍晋三首相も望んでいるに違いないし、それでこそ「殺され甲斐」もあったというものではないだろうか?

あの事件が起こったために、みんなが「国民の声を聞かない政治家など、やっぱり殺すしかない」と考えるようになり、それを実行しだしたとしたら、多くの人は「安倍晋三が、森友加計問題桜を見る会問題など、やりたい放題をやった上に、自分に都合のいいように検察庁長官をすげ変えようとしたりなんかしたから、あんな目にあったんだし、こんな国になったのだ」と言い出したりしたら、安倍晋三元首相だって死んでも死に切れないで、殺害現場付近で地縛霊になって「うらめしや」と出たのではないだろうか。それでは、できない成仏も、やっぱりできない。

(書籍版『ヤジと民主主義』)

したがって「殺されたくなければ、ヤジくらい言わせろ。」というのは、ヤジを言いたい側の思いであるばかりではなく、政治家を守る側の意見でもあろう。元警察官の私が言うのだから間違いない。
たとえ、生涯一巡査にすぎなかったとしても、40年も警察の飯を食って、組織の内部のあれこれを見聞きしてきた人間だというのは間違いのない事実なのだし、40年前の「警察学校・初任課」の同級生には、方面本部長クラスになった奴だっているのだ。

つまり、総理大臣なんかを「警護」する立場の警察官や警察幹部が「殺されたくなければ、ヤジくらい言わせろ(言わせてやれよ。法律でも保証されていることなんだから)。」と言ったとしても、なんら不思議ではないのだし、非公式な場でなら、そういうことを口にしている、かつての私のような警察官も、確実に存在するのである。
ただし、そういう人間は出世はできないのだが、私が出世できなかったのは、そのせいではない。単に、出世する気も、出世のための試験勉強をする気も無かっただけの、すべてはあくまでも自己責任である。くそつまらない法律や判例の勉強なんかをしてるヒマがあったら、他の本を読むよということで、その通りにやっていただけの、純粋な自業自得なのだ。

(ありし日の安倍晋三氏)

そんなわけで、「殺されたくなければ、ヤジくらい言わせろ。」あるいは「殺されたくなければ、ヤジくらい言わせてやれよ。」というのは、「ヤジ」を言われて「不愉快な気分」になる当事者である政治家当人以外には、何の問題もない「正論」なんだし、当然のことながら、政治家には「国民の声に耳を傾ける義務」があるのだし、無論、その「国民の声」の中には「耳に痛い意見=批判=嫌な意見」も含まれるのだ。だから、ヤジられたって、ありがたく拝聴しろということである。

ともあれ、政治家を「警護」する警察官の仕事は、あくまでも警護対象である政治家の「身の安全」を守り、犯罪被害に遭わないようにすることであって、気持ちよく演説するための環境を整えることではない。
むしろ、「安倍さん、頑張れ!」「安倍、屁をこいて寝てろ!」といった多様な意見が、自由闊達に交換できる交流の場を、安心安全のうちに確保するように努めるべきなのだ。

言うまでもないことだが、警察は「不偏不党・公正中立」でなければならない。個人的に安倍晋三が好きだろうと嫌いだろうと、そんなことは関係ない。
私だって、安倍晋三の警護員だったなら、身を挺して安倍を守ったことだろう。一一まあ、「警護員」にならないかという話が来たら、「嫌です」と断るだろうし、仮に警護員にならないとクビだと脅されてイヤイヤなったとしても、安倍晋三担当だと言われたら、すごく嫌だと思うだろうし、いくら私が野獣のように俊敏だとしても、「死んだらいいのに」と思っているやつを守るとなったら、いざという時に、一瞬躊躇するんじゃないかなと、そっちが心配になる。
また、それがあるからこそ、「警護員」なんてものは、やる気のあるやつしか採用されないのだ。「やれ」と言われて、納得もしてないのに命を賭けられる方が、どうかしているのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本作『ヤジと民主主義 劇場拡大版』は、私のような人間には、とても面白かった。
ヤジる方の気持ちもよくわかるし、安倍の街頭演説の現場から彼らを排除した警察官の側の気持ちもよくわかるからだ。

本作の「内容」は、次のようなものである。

『2019年7月15日、安倍元首相の遊説中に政権批判の声を上げた市民を警察官が取り囲んで移動させた「ヤジ排除問題」を4年間にわたって追及したドキュメンタリー。

表現の自由と民主主義がおびやかされたとして、当時メディアで大きく報道されたヤジ排除問題。北海道放送が2020年に放送したドキュメンタリー番組「ヤジと民主主義」はギャラクシー賞や日本ジャーナリスト会議賞など数々の賞を受賞し、書籍化もされた。その後、排除された市民2人が原告として警察側を訴え、1審は勝訴したものの高裁では判断が分かれ、双方が上告し裁判は続いている。

この問題を4年間にわたって追い続ける取材班が、当事者および専門家たちに追加取材を行い、テレビや書籍では伝えきれなかった問題の深刻さを浮き彫りにする。作家の落合恵子がナレーションを担当。』

「映画.com」・『ヤジと民主主義 劇場拡大版』解説

話は、実に簡単である。

安倍晋三が現役首相時代に、応援演説のために北海道にやってきた。現場は、札幌駅前と、直近の駅前大通である。
例によって、選挙カーの上に、候補者とともに上がった安倍晋三は、にこやかに挨拶をして演説を始める。選挙カーの周囲には人だかりができており、「安倍総理を支持します」みたいなことを書いた、同じプラカードを持った人が何人もいて、日の丸ではないみたいだが、自民党旗か何かの小旗を振っている人も大勢いる。きっと、総理が応援演説に来るというので、自民党の地元組織が党員に動員をかけたのであろう。
もちろん、そうした「サクラ」ばかりではなく、「桜を見る会」の主役だった安倍総理を見物する、通りがかりの物見高い人たちも多かったのだろう。だが、「サクラ」による雰囲気作りもあって、現場はおおむね、安倍晋三首相に対して「好意的」な雰囲気であったようだ。

ところが、その数百人ではおさまらない聴衆の中で、「安倍、やめろ!」等と連発でヤジを飛ばした男性が一人だけいた。
周囲の人々は「何だこいつ?」と驚いた様子で眺めていたが、中には、そのヤジ男性を、他所でやれと言わんばかりに押し除けようとする「暴行犯」の中年男性も一人いた。この男性は、後に、北海道の自民党議員であることが明らかになれるが、そこはあまり重要ではない。

問題は、ヤジを飛ばした男性の周囲の一般聴衆は、件の自民党議員氏ををのぞいては、彼を手をかけようとする者などおらず、ましてや袋叩きにするとかいったような雰囲気ではまったくなくて、いかにも日本人らしく「遠巻きにして冷笑する」だけだったのだ。

だが、雑踏警備及び要人警護に当たっていた、札幌警察署と北海道警本部警備部の面々の対応は素早かった。ヤジ男性が、3、4度ヤジを飛ばした時には、すでに4、5人の私服警官が彼を取り巻いて、その腕を捉えるなどして、その場から排除しはじめた。
また、その周囲には、さらにそれを取り巻く警察官が、私服と制服含めて5人ほどいた。つまり、1人のヤジ男を、10人ほどの警察官が取り巻いて、力づくで排除したのである。

(肩にショルダーバッグを掛けているのは私服警察官。ヤジの男性は中央左の顔の見えていない人物。前後左右をガッチリブロックされての「強制排除」となった。)

こうした状況は、マスコミのカメラや、ヤジ男性の同伴者などの多数が動画撮影しており、音声も残っている。
ヤジ男性の腕をとらえ、体を押すなどして、現場から移動させた警察官たちの口にしていた言葉は、

「そんな大声出さないで」
「みんながびっくりしてるでしょう」
「そんな大声を出したら迷惑だよ」
「落ち着いて」
「ちょっと、そっちの方で話を聞かせてよ」

と大筋このような、言葉の内容も、口調も、基本的には穏やかで、決して「命令口調」であったり「叱りつけたり」と言ったものではなかった。
ただ、口調はどうあれ、やっていることは「強制排除」に他ならなかった、ということが問題なのである。

その後、その現場を見ていた若い女性が、その場では声があげられなかったものの、自身それを情けなく思い、男性が排除されてしばらくしてから、彼女も同様のヤジを飛ばし、やはり現場から排除された。
また、現場排除後も、またヤジられるのを警戒してであろう、私服の女性警察官2人が、彼女にしつこくつきまとうことになる。
女性被疑者に対する身体接触が必要な場合は、女性警察官がこれにあたるというのは、昨今の常識なのである。

(写っているだけで、1人の女性を8人の警察官が囲んで、現場排除。これで「任意」だそうである。これが警察の昇任試験問題なら、明らかに誤答

ところで、このヤジ女性につきまとった、私服の女性警察官の言葉も面白い。
基本的には、先に紹介したのと同じような内容なのだが、現場から離れてつきまとっている際には、

「あんなに大声を出して喉が渇いたでしょう。おまわりさんがジュースを奢ってあげようか? なに飲む?」

なんて言っているのだ。
要は、ヤジの邪魔をされただけではなく、力づくで現場を排除され、しかもしつこくつきまとわれたために、当然のごとく「何の権利があって、そんなことをするのですか?」などと攻撃的に質問してくる女性を「宥めつつ、質問への回答を回避しよう」としていたのである。

こうした警察側の言動から窺えるのは、

(1)「ヤジを飛ばすこと自体は、合法である」という認識がある。
(2)しかし、上からの指示・命令があって、ヤジを野放しにすることはできない。
(3)したがって、相手が言葉による「要請」に従わないのであれば「腕を取る、肩を押して促す」といった、「露骨な強制行為」には渡らない範囲で、しかし、断固として「対象」を、現場から排除しなければならない。
(4)しかしまた「腕を取る、肩を押す」といった「身体接触」を伴う「要請」は、法的にはすでに「強制力の行使」の範疇になるから、せめて言葉だけは「柔らかく」して、あくまでも「強制」ではなく「要請」であり「説得」、つまり「任意」行為なのだという体裁を整えておかなければならなかった、ということであろう。
要は「万が一の時」のための「アリバイづくり」である。

よって、映画の中で、法律学の先生(大学教授)がたが仰っているとおり、この事例における警察官の行為は、「法的根拠のない実力行使」であり、要は「犯罪」である。

警察官が「実力行使」を認められているのは、「法的根拠」があるからで、その「法的根拠」から外れた「実力行使」をすれば、それが「暴行」罪になるというのは、警察官だって同じことなのだ。
むしろ、法を守るべき警察官であるからこそ、一般人よりも重い刑が課せられる「特別公務員暴行凌虐罪」と言ったものさえあるのである。ただの「暴行罪」では済まされないのだ。

だが、こうした「ヤジの排除を、上司から指示命令されているけれど、それを合法的に行うことは、実質的に不可能」だという状況に置かれた現場警察官は、じつに哀れである。そもそも「できないことをやれ」と言われているからであり、それを「できません」と言ってしまえば、その警察官は、警察組織の中では一生、日の目を見ることができなくなる、つまり出世できなくなるというのは、目に見えた話なのだ。

もちろん、私のように「嫌なことはしたくないから、それをしないで済むように、出世はしないし、嫌なことからは可能なかぎり逃げる」という手はある。
だが、これはこれで、それなりに非凡な覚悟がないと、できることではない。
例えば「あそこのご主人、警察官をなさっているそうなんだけど、あの年で、まだ平巡査なんだそうよ」などと、ご近所の奥様方に噂話をされたりしたら、女房子供が可哀想だ、などと思う人は、一つか二つくらいは階級を上げておかないと「格好がつかない」などと考えるものなのだ。いわゆる「世間体」や「見栄」というやつなのだが、これがけっこうバカにできない。

実際のところ、一つや二つ階級が上がったところで、給料がグッと上がるなんてことなどまったくないのが、今の警察の現実だ。なにしろ、今の警察は、下手をすると、巡査より巡査部長の方が人数が多いほどなのだから、その多い人数に、決まった予算の中から、より多くを割くわけにはいかないのである。

では、なんで給料も上げてやれないのに、階級ばかり上げる(昇任させる)のかと言えば、それは「仕事をさせるため」である。
階級を上げて、下級とはいえ「幹部」ということにすれば、「幹部としての自覚を持って、仕事をしろ」と言えるし、「幹部は率先して仕事をしろ。部下に模範を示せ」などという、ご立派なことが言える。
また、昇任試験の面接では、幹部としての心構えを問われて、それへの模範解答として、上のようなことを答えるから、どうしてもその言葉に縛られてしまうのだ。やっぱり警察官は、根が真面目な人が多いのである。

ともあれ、私が若かった頃みたいに、若手の巡査が外を走り回って、交通切符を切って帰ってくると、交番でテレビを視ていた「主任さん(巡査部長)」に、まるで一緒に切符を切ってきたかのように、取扱者欄にサインをしてもらって、成果を山分けにする、なんてことも、もう30年も前にはできなくなった。しかし、こんなのは、かつては当たり前に行われていたことだし、新米は走り回って仕事をする代わりに、先輩に仕事を教えてもらうし、いざという時は先輩が矢面に立って守ってくれるのだから、これくらいの貢献は当然のことだと、そんなふうに思っていたのだ。

だが、後になれば、それが、厳密には「公文書偽造」ということになるというのを理解したし、警察組織としても、現場にいなかった警察官が、いたかのようにサインしているというのは「裁判沙汰になった場合にまずい」ということで、「現場にいなかったのなら、絶対にサインをするな」というお達しが下るようになった。
「後輩の仕事にたかるのではなく、自分の成果は自分で出せ」というのが一応の建前ではあったのだけれど、そんなお達しを下してくる上の人たち自身も、若い頃は同じことをやっていたのだから、それが本音ではないことは明らかだ。
要は、自分たちはすでに出世したから、後輩に交通切符を切ってもらう必要はない。一方、そんなつまらないことで裁判で負けたり、そのせいで本部長が議会で吊し上げられたりしたら、自分たちの出世に関わるというので、下っ端たちについては、原理原則を厳しく適用するようになったという、ただの「保身」なのである。

そんなわけで、警察官も「現場はつらいよ」なので、ヤジ男さんやヤジ子さんを現場で「任意に強制排除」せざるを得なかった「下っ端警察官」には、同情を禁じ得ない。

だがまた、「警察」という国家権力機構に所属して、そこから給料をもらっているからには、そのような理不尽な命令を下される可能性もあるということを、日頃から考えておかなければならない。
そのくらいのことに気がつく程度には、「日本の近代史」や「世界の警察情勢」は知っておけ、昇任試験だけが勉強じゃないぞ、ということである。

たとえば、私がまだ現役警察官であった頃に「香港の民主化運動」が「国家権力」によって叩き潰されるという事件を、目の当たりにした。かつて「香港警察は、世界一民主的な警察」だと言われていたのに、政府が中国本土の操り人形になってしまうと、当然、あっさり警察も右へ倣えとなってしまったのだ。
それでも当初は、民主化運動に共感的だった警察官も多かったのだが「背に腹はかえられぬ」ということで、結局は、民主化運動を実力で叩き潰す側へと転向した。これが理由で、警察を辞めた人というのは、限られていたのである。

(民主化運動を実力行使で鎮圧する「香港警察」)

だから私も、このニュースを見ながら「もしも日本がこんなことになりそうになったら、そうなる前に警察を辞めなければいけない。でも、その覚悟が自分にはあるだろうか? できることなら、そんなことにならないでほしい」と、心底そう思ったものである。
幸い、そんなことにはならなかった。しかし、私は独り者だから、いざとなれば辞めやすいとは言っても、それでも当時は高齢の母を抱えていたから、そうした事態に直面したとしても、気易く辞めることなどできなかったのである。

そんなわけで私は、ヤジ男性などを排除した「現場警察官」たちに、同情しはするのだけれども、その一方で、たぶん彼らには、私ほどの問題意識が、日頃から無かっただろうとも思うのだ。私は、彼らとは違って、筋金入りの「読書家」であり、「警察的な知識」よりもむしろ「非警察的な知識」の方が圧倒的に多いような変わり種だったからこそ、そのような問題意識も持ち得たが、彼ら「下っ端」はもとより、本部長クラスだって、私ほどの読書家はおらず、私同様の「非警察的な問題意識」など、持ちようがなかった。
たしかに、本部長クラスになると、叩き上げではなく、国家上級職試験に合格した、いわゆる「キャリア」であり、要は「学歴エリート」たちだから、「お勉強」ができるというのは間違いないし、「下っ端」よりは「教養」もあるだろう。だが、今の私に言わせれば、そんな「教養」など、多寡が知れている。東大卒や京大卒の作家の書くものを読んでみればいい。別に大したことは考えていないのである。

ところで、映画の後半で紹介される、「ヤジに対する強制排除の違法性を問うた裁判」では、一審において、警察側が「現場警察官の職務執行は適法であった」という証拠として、「ネット言説」のコピーを提出したというのは、「なんとレベルが低い」と半笑いで呆れてしまった。

(裁判所に向かう原告団)

ヤジを排除した警察側を支持するネット言説なんて、簡単に言えば、私が日頃から「アホ馬鹿」呼ばわりしている「ネトウヨ(ネット右翼)」的な輩によるものが大半なんだし、「おまわりさん、ご苦労さん」などと言っているのは、私が「クソ」呼ばわりした、元大阪府知事の松井一郎なみの人間である。
そんな「低レベルな人間の、低レベルのネット言説」を「世論は警察の適切な執行を認めている」と証する資料として裁判所に提出するなんて、北海道警の本部長以下、担当部署は「バカばっかりか?」と呆れざるを得なかった。

あと、直接訴えられた警察官(6名ほど)の「取扱状況報告書」だか「供述書」だかを、警察側が、二審に移ってから提出したという話が紹介されており、なんで最初から出さないんだと指摘されていたけれど、もちろん、それはなるべく「現場の者=被告本人」を表には出さずに、組織として(訟務担当者が)対応したかったからに他ならない。

(無理やり排除されて、激しく抵抗するヤジの男性。警察は、制服よりも私服の方が多い

たぶん、訴えられた「現場警察官」は、「上の指示どおりにやっただけなのに、貧乏くじを引いた」と思っているだろうし、それなのに組織は「現場警察官の適切な判断による、職務執行であった」と言って、要は「上からの指示」を否定している。
これは、それを認めると、その指示が、どこから降りてきたものなのかという話になるからであり、要は、自分の出世のために、より「上の方を守るため」の措置なのだが、またそれがわかるからこそ、「現場判断」ということにされてしまった「現場警察官」は、当然のごとく、腹を立てている者もいるはずなのだ。

だからまた、そうした当然の不満に対する対策として、「絶対に悪いようにはしない。最後まで責任を持って面倒を見るから、ここは組織のために堪えてくれ」と丸め込まれている、つまり「懐柔策としての交換条件が提示されている」というのも、まず間違いない(出世とか、最悪でも天下り先の保証)。
言い換えれば、すべての責任をなすりつけられて「被告人」になり、それで黙っているほど、組織に忠実な人間など、今どきの日本人にはいないのである。

そんなわけで、訴えられた「現場警察官」たち自身の「取扱状況報告書」だか「供述書」というのもまた、裁判用に、後で作ったものに他ならない。
というのも、万が一、実際の取り扱い直後に、そんなものを作っていたとしたら、裁判沙汰を十分に想定しないまま、そこに「正直なこと」を書いている蓋然性が高く、それを法廷に出すのは、いかにもまずい。かと言って、いったん作った「公文書」を、正当な理由なく廃棄するのも、それはそれで犯罪になるからである。
したがって、「取扱状況を、あったことそのまんま書いたような報告書」など、わざわざ作成されてなどいないと、そう見るべきなのだ。後から提出されたものなら、それは裁判用に、いろいろな配慮の上で書かれたものに他ならないのである。

例えば、私のような「不勉強な現場警察官」が、「ヤジは迷惑だから、排除していいんだ」と本気で思い込んでいて、それをやったのだとしよう。そんな彼が、報告書を書けと言われたら、きっと、やったことをそのまま書くはずだけれど、警察組織的には、それではまずい。
だからこそ、警察の報告書というのは、報告当事者が書いたものを、ノーチェックでそのまま通すわけではない。どこの会社でも、そうだろうが、上司や専門担当者が内容をチェックして、まずいところに「朱」を入れて書き直させた上で、決済印を押すのである。

だから、私のような不勉強な警察官が「いや、私はそう言ったのだから、そう書きます。何もやましいところはない」と言ったところで、上司は「これこれの理由で、このまま通せるわけないだろう」と訂正されるだろう。説明されれば、なるほどと思わないでもないのだから、まずは引き下がって訂正するしかない。そもそも、訂正しなければ、その報告書は完成しないからである。

ほんの2年ほど前、定年退職が視野に入り、だんだん怖いものがなくなってきて、堪え性が薄れてきた時期に、こんなことがあった。

ある交通物損事故現場に、私が交番から最初に到着した。
事故当事者双方から事情聴取をしたり、交通整理をしたりと、あれこれ一人で忙しく第一次的な事故対応をしていたところへ、本署から交通捜査係員2人(巡査部長と巡査)がおっとり刀で現場臨場してきて、先着の私に「どういう状況なの?」と、主担課の専門家ヅラで尋ねてくる。交番の外勤警察官である私は、交通事故の一時的処理が担当で、最終的には交通捜査係に事故処理を引き継がなければならない立場だから、その段階で把握していた情報やメモを、その交通捜査係員に報告して引き継いだ。そしてその際に私は、事故当事者の片方が、以前から把握している、タチの悪い会社の関係者だったので、「ちょっといい加減なやつだから気をつけてください」と耳うちをしておいた。だが、専務員は、そんなことどうでもいいという感じで、ろくに返事もせず、聞き流していた。
ともあれ、そこで私の仕事である、初期対応は終わったので、専務員に事故を引き継ぎ、交番に帰って交番業務に戻った。一一普通はこれで、私の仕事はおしまいなのだ。

(交通事故処理車)

ところが、数時間してから、現場に来た交通捜査係の主任(巡査部長)から交番に電話がかかってきて「さっきの事故の取扱状況報告書を書いて提出してくれ」という要請があった。
そこで私は、普通そんな余計なものは作らないので「私が現場から引き上げた後、きっと事故関係者の言い分が分かれて、収まりがつかなくなったのだな」と、ピンときた。
しかしまあ、先着警察官として、必要なら報告書を作らないわけにはいかないので、見たとおり、やったとおりの報告書を作成した。
そして、翌日の非番日、交番から本署に引き上げた際に、その報告書を交通課に持参して、くだんの主任さんに提出しようとすると、その主任さんは「後で見ておくから、そこに置いといて」という態度だった。
私も、巡査とは言え、退職前のベテラン警官だから、階級が上でも若い幹部なら丁寧語で話でくれるのだが、この主任さんは私と同世代のベテランだったからか、いささか横柄な態度だったので、私はムッとしたものである。
だが、先にも書いたとおり、報告書というのは、上司や専務係員がチェックした上でないと受け取ってもらえず、仕事が片付かないので、私も「じゃあ、お願いします」と言って、その日はそれで帰ったのである。

それから数日して、交通課から「報告書に訂正して欲しい箇所があるから、交通課の部屋まで来てくれ」と内線電話があった。これは想定されていたことなので、私は素直に「出頭」して、「ここをこうしてくれ。ここはこうだろう?」といった説明を受け、特に問題のあるような訂正ではなかったので、そこを訂正し、完成した報告書を提出し、これで今度こそ、おしまいのはずだった。

ところが、それから1ヶ月も経った後だろうか、また呼び出されて、報告書の内容の一部訂正を求められたのだが、それは私の見ていない部分に関わることだったので、「そこは見てませんから、わかりませんし、書けません。それに、細かいことは、すでに記憶も薄れていますから、当日の報告書の訂正などできません」と断った。すると、その主任さんは「では、どうするのだ」と、こちらの責任のように言うので、カチンときて「それはそっちで考えることでしょう」と捨て台詞を吐いて、そのまま交通課の部屋を出た。

ところが、その主任さんは、階級が下の者に、露骨に楯突かれたせいだろう、嫌がらせのように、私の直属の上司である「地域課長」のところに電話してきて「書類の訂正を求めたのに、それに応じない」というような苦情を申し立てたようで、私は地域課長に呼ばれて「何があったの?」と尋ねられたので、「これこれこうです」と全部報告すると、地域課長は「そりゃあ、間違ってないよなあ。でも、もう一度来てくれって言っているから、顔だけは出してやってください。無理な報告書の訂正はしなくていいから」というようなことを、私を宥めるように言ったのであった。

(テレビドラマの署内セット。実によくできている)

それで、私は地域課長の顔を立てるつもりで、もういちど交通課まで行ったが、ただ同じことを言いに行くのも業腹なので、どうしてやろうかと考えた。結果、話を大きくして交通捜査係の主任さんを困らせてやろうと思いつき、主任さんのデスクの前に仁王立ちすると「どういうお話でしょうか? もう訂正する必要はないと思うんですが。よく考えてみたら、やはり今ごろ訂正するのはおかしい。それって、公文書偽造になるんじゃないですか?」と言い、さらに語気を強め、周囲にもよく聞こえるように、「それとも、主任さんは、私に公文書偽造をやれというんですか?」と言ってやったのである。

すでにその時には、交通課の部屋の中は、何やら、年寄り同士で揉めているみたいだぞと、耳をそばだてている感じになっていたのだが、私は、この「喧嘩」の内容を正しく周知させるためのポイントを、声を大きくしてアピールし、交通課長にも聞こえるようにしてやったのである。
要は、交通課長が知ってしまえば、そんな無理な訂正など求めて、万が一にも課長自身にも類が及ぶようなことを部下にはさせないだろうと、そう踏んだのである。たかが、ちょっと揉めているだけの物損事故でしかないのに、である。

で、そうなると、交通捜査係の主任さんも折れざるを得なくなる。「それじゃあ、それで結構です」みたいなことをムニャムニャと言うことしかできず、これで一件落着となったのだ。

ちなみに、なんで本来なら、必要にない報告書を、何度も私に書かせたのかと言えば、それはたぶん、自分たち交通捜査係員が見立てた事故状況を、私が「タチが悪い」と評した事故関係者が完全否認して、本来なら、簡単に片付くはずの「物損事故」が、片付けられなくなったからであろう。
つまり、彼らの見立てを補強するものとして、私に取扱状況報告書を書かせ、それを相手に示して「最初に現場に来たおまわりさんも、こう言っているじゃないか」ということで、相手を落とそうとしたのだが、それでも落ちない。
だから、私が見ていない部分についても、自分たちの見立てに合わせて、報告書を書き直させようとした、ということだったのだろう。
一一要は、私がわざわざ「気をつけろ」と注意してやったにも関わらず、専門家ヅラして聞き流した結果、タチの悪いのに引っかかって二進も三進もいかなくなって、こっちに頼ってきたということであり、しかも「地域課員なら、専務係の言うとおりにするだろう」という「上から目線」で、それを要求してきた、ということである。

もしもこれが、もっと丁寧な説明をした上で「明らかにあいつはゴネてるんだ。それで、そのあたりのことを思い出してもらって、補強してもらえないだろうか?」というようなかたちでの要請であったなら、もしかして私も「仕方ないな」ということになっていたのかもしれない。
しかし、その主任さんは、自分たちの失態を話したくないものだから、ただ、どこそこをこう直してくれとしか言わない。そんな態度だったので、最後は私も「俺を舐めるのよ。怒らせると怖いんだぞ」というのを思い知らせるためにやったという部分もあって、頑強に「訂正」を拒否したのである。

さて、個人的な思い出話を長々と書いてしまったが、私がここで言いたいのは、警察官の書く「取扱報告書」というのは、そういうものだ、という話なのだ。

その当人が、見聞きし、やったことを書いている形式にはなっているけれども、実際には、上司による組織的な検閲が入ったものであり、そのまま信用していい「証拠資料」とは限らない、ということである。
無論、こんなことは、弁護士さんはもとより、検察官でも裁判官でも、皆さん周知の事実なのだが、検察官や裁判官は、そうと知っていながら、意図的にその部分に目を瞑ることも珍しくない、ということなのである。

そんなわけで、私としては、この映画を観ながら、ヤジ男性やヤジ女性に「よくやった!」と賛辞を送り、「現場警察官」たちには「あんたがた、ついてなかったね」と同情をおぼえ、すべてを現場になすりつける「警察幹部」には、いつものことながら腹を立て、ヤジ男性の方について「原告敗訴」を申し渡した二審の女性裁判長には「出世主義のメス豚野郎」という悪罵を浴びせたのであった。

(一審は勝訴。二審判決では、男性の方だけ敗訴となった)

私の好きな作家、カート・ヴォネガットが言うように「世の中、そういうものさ」というのは、まったくそのとおりなのだが、しかしだからこそ、「ならば、やっちまえ!」というのが、本稿の結論なのである。

さて、この映画がオススメだというのは当然のこととして、私の思い出話の方も、楽しんでいただけただろうか?

これは「いつか書いてやろう」と思っていた、ネタなのである。
自慢じゃないが、私はしつこいのだ。



(2023年1月11日)

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