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『ブラック霞ヶ関』→『ブルシット・ジョブ』→『新人世の「資本論」』

書評:千正康博『ブラック霞ヶ関』(新潮新書)

著者は、元厚生労働相の官僚。本書のタイトルや帯文を見ると、中央省庁の「ブラックな労働環境」を告発した本かと思ってしまうが、そうではない。

本書は「なぜ、霞ヶ関(中央省庁)の官僚の仕事に、各種の問題が生じてきたのか」「その問題を解決するには、何が必要か」という観点から、中央官庁の労働環境の「積極的な改善案」を、現状の問題を紹介しながら、提案した本である。

つまり、「告発本」ではなく「前向きな提案本」であり、だから「物足りない」と感じられる部分もあるし、この、いかにも「優等生」的なスタンスに、まるっきりの嘘ではないにしろ、鵜呑みにできない部分を感じてもしまうのである。なにしろ、著者は官僚を辞めても生きていけるほど、きわめて優秀な人なのだから、これで済むと「本気で信じているわけではないだろう」と。

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著者によると、近年、中央官庁の官僚たちは、その仕事量の極端な増加に忙殺されて、本来の仕事すらままならなくなっており、「国民のことを考える」時間としての余裕も失われている、と言う。
つまり、著者は「官僚が楽をするため」の提案しているのではなく、あくまでも「官僚が、本来の仕事である国民のための仕事ができるようにするため」に、本書における各種の提案をした、ということなのだ。

たしかに「無駄に仕事量が増えている」と、私も思う。しかし、著者が提案するような「現場的な具体的改善案」だけでは、いかにも不十分に思える。著者の提案の本質は、要は「無駄を省く」ということなのだが、それで十分だとは思えないのだ。

というのも、「資本主義」社会が進展すると「社会的な各種サービス」が増えていく。これは無論、良いことだし、私たちは日々、こうしたサービスの恩恵を受けており、しかもそれをほとんど「意識していない」。当たり前になって(享受して)いるのだ。
しかし、「サービス」が増える分だけ、労働力も増えなければならないのだが、中央省庁の官僚を含む「公務員」の人数は増えていない。むしろ、減っている。
もちろん、技術革新によって、必要な人的労働量が減っているとは言え、それでフォローしきれていないからこそ、人手不足の問題が生じてくる。

例えば、男女差別のない雇用・労働環境整備の問題だが、なぜ女性が差別されるのかと言えば、それは「出産休暇」を取るからであり、男は「出産休暇」など取らずに、ずーっと働くのが「当たり前」だったからだ。
だから、この問題を解決するには、男女ともに同じだけの「出産休暇」が十分に与えられなければならない。「なら、与えれば良いじゃないか」という話だが、問題は、そうして発生した「莫大な労働量の減少」を、どうやって「穴埋め」するか、である。

現実によくあるのは「残った者が、仕事量を増やして穴埋めをする(ただし、その分の給与は出ない)」というものだが、これをやると「出産休暇取得者」が憎まれるのは必然だろう。彼らに罪はないとは言っても、実際に「休んでいるやつの分まで余計に働かされて、何の見返りもない」となれば、つい「お前らはいいよな」となってしまうのは、人情として致し方のないことではないだろうか。

では、どうすれば良いのかといえば、もちろん労働者を増やすしかない。つまり、「出産休暇」などで足らなくなる分を見越して、あらかじめ労働者を雇っておくのである。しかし、無論、営利企業がこんなことをしたがらないというのは、理の当然であろう(公務員の場合だって、国民が許さない。その結果、コロナ禍で保健所職員が足らなくなった)。
では、臨時雇いにすれば良いのかといえば、そんな簡単な話ではない。臨時で雇われた「仕事を知らない人」に、抜けた人の穴埋めはできないからである。

ならば、どうすれば良いのか。
要は、企業が「儲けを減らす」しかない。儲けを減らして、一人当たりの労働量を減らすのだ。つまり、企業の営利を無限に拡大することを目指すのではなく、「適正労働」という前提に立った、「適正利益」を求める「適正規模」の営業形態を受け入れるのだ。
だが、これでは「資本主義」は成り立たないだろう。

「資本の拡大」を諦めて「適正規模経済」を目指すというのは、単に「企業」が頑張るという問題ではなく、国民全体が「より恵まれた社会」を諦めるということと、ほとんど同義語である。それこそ、現在、小ブームになっているマルクスの「共産主義」社会を目指すしかないのではないか。
もとよりそれは、現在まさに「贅沢な生活など望めない」人たちによって支持されているのだが、社会全体が「最小必要限度の贅沢に止める、平等な社会」を、はたして受け入れることができるだろうか。

もちろん、私は、やや極端な話をしているのだけれども、「男女雇用の均等化」という問題ひとつ取って見たところで、それを本質的に解決するには、社会の全的な変革が必要であり、小手先の誤魔化しではどうにもならないからこそ、この問題は一朝一夕には解決できないでいるのである。
だから、その他の問題だって、事は同じで、その根本的な解決を図ろうとすれば、官僚が頑張ればとか、役所が頑張ればとかいった話ではすまない。どうしたって、国民全体の意識改革であり、相応の「覚悟」が必要となってくる。それをしないことには、「必要な労働量」は増える一方であるのに、人口の減少によって「労働力」は減る一方のこの社会は、とうてい立ち行かないのではないだろうか。

だから、本書『ブラック霞ヶ関』が提示する問題は、著者の提示するような「現場的改善案」では、まったく不十分なのである。
無論、そうした改善は必要なものであるし、やらないよりはやったほうが良いに決まっているのだけれども、問題の本質は「霞ヶ関界隈」だけで片付くようなものではないのだということを、私たち「国民」一人ひとりが、我が事として認識する必要があるのだ。

私自身「無駄遣い」が大好きな「趣味人」であり、今日明日の生活に困っている人に対しては、後ろめたいという気持ちもないではない。だからこそ、気休めにでも「弱者」の側に立っているのだけれど、問題の解決はむしろ、そんな後ろめたさなど感じていない、大半の国民の「意識」にあるのではないだろうか。これは決して、私一人の責任回避の言辞とばかりは言えないと思うのだが、いかがだろう?

私たちが、これまでどおりの「経済成長」を求め続けるかぎり、評判になった経済学者デヴィッド・グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』で描かれた「ブルシット・ジョブ」は増え続けていくだろう。私たちのこの社会の方向性を改めることなく、対処療法的に「ブルシット・ジョブ」を減らそうとしても、限界があるのは明らかで、その意味において本書『ブラック霞ヶ関』における著者の提案は、明らかに限界があるとしか思えない。

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では、これもベストセラーになった経済学者・斎藤幸平の『新人世の「資本論」』が示唆するように、私たちは今すぐ「資本主義」を捨てて「共産主義」へと移行し、「身の丈に合った」生活を受け入れるべきなのであろうか。

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たぶん「そうなのだろう」と、私個人は思うのだが、そんなことが今の日本人に可能かと言えば「無理だろう」と思う。日本人の大半が「貧困層」に落ちるくらいまで行かないと、たぶん誰も「共産主義」などという不自由そうなものを選び取ったりはしないだろう。

となれば、日本はどうなるのだろうか。
私たちは、もはや「奇跡」を待望するしかないのだろうか。

しかし、その前に、日本だけではなく、地球規模で人類はダメになるだろうと思えてしかたない。つまり、それが人類自身の手になる「最終的解決」となってしまうのではないだろうか。

はたして、この未来予想は悲観的に過ぎようか?

初出:2021年5月23日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年6月7日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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