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原子力と〈幻視力=想像力〉

書評:戸谷洋志『原子力の哲学』(集英社新書)

本書で語られる「原子力」とは、一般に「負の原子力」の象徴である「原子爆弾」などの原子力兵器であると同時に、「正の原子力」と考えられてきた「原子力発電」という両極を含む、全体としての「原子力」のことである。このような両極性をもって見られる「原子力」の本質とはいかなるものなのか。それを思考したのが「原子力の哲学」というわけだ。

本書では、ハイデガー、ヤスパース、アンダース、アーレント、ヨナス、デリダ、デュピュイという7人の哲学者の「原子力」観が紹介されている。
そこでの議論においておおよそ共通するのは、(原子力の巨大性と共に)「原子(力)は見えない」ということなのではないだろうか。私たちは、それが見えないからこそ、対応を誤ってしまう。「見誤ってしまう」以前に、「見えない」から、それへの対応を誤らざるを得ないのだ。

したがって、私たちに要請されるのは「想像力」である。
「見えないものを見る」という意味で、「原子力」と引っかけて、「幻視力」と呼んでももいい。「原子力」に対抗するのは「幻視力」なのだ。「見えないもの」としての「原子力の危険性」や、それによってもたらされる「未来の危機」を、リアルに「幻視する力」だ。

そうした意味で、興味深いのは、本書で紹介された7人の哲学者のうちの実に3人が「文学作品に親しむことのススメ」をしている点であろう。
まさか「原子力」問題を考える上で、「小説を読め」などと言われるとは、ふつうは誰も考えないからである。

『自然科学に頼るだけでは問題を解決できないのだとしたら、どのようにすれば原子力の脅威に抵抗できるのだろうか。これに対して提示されている方法も三つに分かれるように思える。
(中略)
 第二に、想像力を鍛えることである。前述の通り、原子力の脅威を人間は正常に想像することができない。そして、この想像不可能性こそが原子力の脅威への対応を不可能にする。しかし想像力は鍛えれば拡張することができる。そうした想像力の拡張に有意義なのは、たとえば、サイエンス・フィクション文学(アンダース、ヨナス)や、あるいはギリシャ悲劇などの古典的な文学作品を読むことである(デュピュイ)。』(P232〜233)

文学ファンの私ですら思いがけなかった提案だが、言われてみれば、当たり前の話でもあろう。「文学」作品を読解することすらまともに出来ないような単細胞な人間に、「科学と政治」が絡まり合う「複雑な現実」としての「原子力」問題に、どうして的確に対応することなどできようか。

むろん、「文学」作品を読んでいるだけではダメだ。それに自足しているような「オタク」に、この「考えたくもない、嫌な現実」と向き合うことなどできる道理はない。
アンダースやヨナスやデュピュイが私たちに求めているのは、「現実逃避」ではなく、「想像力」なのである。小説家の想像力ではなく、それに触発されて、鍛え上げられる「読者」の側の想像力なのだ。

だから、「文学」作品くらいは(若いうちから)しっかりと読んで、それを「現実逃避の具」たる単なる「娯楽」として消費するのではなく、その読解を通し、読者個々が「現実」と、そして、その中でも難敵である「見えないの原子力」と向き合うために、自らの「想像力=幻視力」を鍛えなければならない。
そしてその上で、「科学」と「政治」の現実を学び、両「専門家」である科学者や政治家にしばしば欠けてる「想像力」の部分を補って、「原子力」と「向き合う」ことをしなければならないのだ。

「原子力兵器」は無論のこと、「原子力発電」などのもたらす未来について、私たちは「絶望的な未来」など考えたくはない。
理性的に考えれば「絶望的な未来」を想定できるがゆえに、かえってそこから無意識的に目を逸らしがちで、例えばそれは「地球温暖化」といった急迫的な危機についてなどにも明らかだろう。私たちは、そうした「巨大な危機」が、ほんの数十年先という「目の前」に迫っていながら、「レジ袋をやめて、マイバックを買ったから」といった程度のことで「現実逃避」的に安心しようとし、「思考停止=想像力停止」をしてしまう。

まして「原子力」は見えない。見ないようにしなくても、「原子力」はもともと見えないのだから、私たちは「安心」して、「原子力」をなかったことにしてしまう。
一一だが、「原子力」は存在するのだ。だからこそ、「原子力兵器」も「原子力発電所」も、現に存在し得ているのである。

「人類の滅亡」というのは、SF作品に描かれる「絵空事」ではなく、人類の「近い未来の現実」だと言っても過言ではないだろう。あなたの孫やひ孫の時代には、かなりの高確率で直面しなければならない、リアルな危機なのである。

しかしながら、そうした「現実」を直視し、私たちが「当たり前に持ってしかるべき危機感」を共有した時にのみ、私たちは「原子力」のもたらす「危機」を回避することもできるし、もしかすると、それを適切に運用できるようになるのかもしれない。

だが、それもまた、すべては「原子力」を直視した上の話なのだから、私たちは「科学と政治」という狭い視野にとどまるのではなく、「未定の未来」における「必然的な滅亡の危機」という現実に、その鍛え上げられた「想像力=幻視力」を持って挑まなければならない。

私たちは今、自らが、「想像力=幻視力」という杖を持たずに、よろよろと断崖絶壁の峰を歩んでいる「盲人」であることに気づくべきなのである。

初出:2020年12月24日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)

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