見出し画像

國分功一郎 『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』 : 「わかりやすい」という〈陥穽〉

書評:國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』(講談社現代新書)

本書は、一読、平易で「わかりやすい」という印象を与える。だから「初心者向け」だとか「入門書」だと評する人もいるだろう。「わかりやすい」から、そのように考えるわけだが、しかし、著者の訴えるところは、それとは真逆である。

『 もしもあなたがスピノザ本人に会いに行ったとして、「スピノザ先生、あなたの考える確実性とはなんですか?」と訊いたとします。あなたの懇願に負けてスピノザは一生懸命に説明してくれるかもしれませんが、どれだけ本人から説明を受けたところで、そのように説明を受けただけではスピノザの考える確実性を理解することはできないでしょう。なぜならば、確実なものを認識してみなければ、確実性とは何かは理解できないからです。』(P144〜145)

どういうことかと言うと、例えば、ある小説家が「失恋の痛み」という言葉をつかったのに対し、その意味がよく分からなかった「恋愛未経験者」が、その小説家に説明を求めた場合などが、そうだ。
当たり前の話だが、その小説家が言葉を尽くしていかに平易に説明したところで、その意味するところを「恋愛未経験者」が理解することはできない。

しかしである、その「恋愛未経験者」は、懇切な説明を受けた結果、「失恋の痛み」を理解できなかったとしても、他の人に「失恋の痛み」についての「説明」をすることならできる。それを理解していなくても、さも理解しているかのごとく説明し、得々と語ることは可能なのだ。

また、その「恋愛未経験者」は、この「説明できる」ということを持って「失恋の痛み」を理解したつもりになる、といったことも往々にしてある。
しかし、無論これは「勘違い」でしかない。「理解していない」のに、「理解した」つもりになっている、という「勘違い」である。

そして、こうした「勘違い」は、「哲学趣味」を持つ人にはよく見られるもので、あの哲学者の思想も、この哲学者の思想も、じつにうまく説明してくれる(説明できる)し、その説明自体は決して「間違いではない」。
しかし、彼は、その哲学者が「理解」したものの「実態」を、じつは何も「知らない」し、だから「理解」してもいないのだ。

したがって、スピノザの語る概念について、スピノザ本人が一生懸命説明してくれたところで、「説明」だけでは、その概念が意図するところのものは理解できない。ましてや、スピノザ本人ではない國分功一郎がいくら一生懸命平易に説明したところで、スピノザが語ろうとしたところのものを理解させることなどできるわけがないのである。

つまり、本書を読むことによって、スピノザが語ろうとしたところを、「わかった(理解した)」つもりになることこそが、何よりの「勘違い」なのだ。
著者自身が「私の説明で、スピノザの語ろうとしたところが理解できたつもりになってはいけない。理解とは、そういうものではないのだ」と(いう趣旨のことを)言っているのだから、これは間違いない話なのである。

ところがまた、本書を読んで、スピノザの語ろうとしたところを「理解したつもり」になっているからこそ、そうした読者は、本書を「わかりやすい」とか「初心者向け」とか「入門書」だなどと評してしまう。一一これが、私が言うところの「わかりやすさの陥穽」なのだ。

では、どうすれば、スピノザの哲学を「理解できるようになる」のだろうか。
「説明できるようになる」ではなく、「理解できるようになる」である。

無論それは、自分が(多彩な読書を含めて)いろんなことを「経験」し、それについて自分なりに思索を深めるしかない。
人は、そうした「経験」を通して、物事を体得的に「理解」をしていく。たとえ、それを言語化できなかったとしても、それはその人なりに「理解した」ということなのだ。
先ほどの「失恋の痛み」の喩えで言えば、失恋を経験した人は、それが「どういうもの(実態)」かを(一定程度)理解しているが、うまく「説明」はできないかもしれない。しかし、ある作家が、それをうまく表現していれば、「まさにこれだよ、これ!」というかたちで、自分の中の「失恋の痛み」に「表現」を与えることができるし、言語化されることで「理解が深まる」のである。そして、彼の言葉(説明)も「空疎な借り物」ではなくなるのだ。

スピノザの語ることについても事情は同じで、スピノザが語らんとしたことを「経験」してない人には、それは決して「理解」できない。しかし、「経験」していれば「これだ!」と実感できるはずで、それは「説明ができる」などといったこととは次元の違う、「理解」の確認なのである。

このようなことから、本書では、スピノザの哲学を紹介して『「賢者」とは楽しみを知る人』(P71)であるとか『主体がレベルアップしなければ真理に到達できない』(P150)とか『真理の私的性格への気づき』(P163)といったことが語られている。
これらを言い変えるなら、哲学する人とは「世界を多様な面で、深く楽しみ経験する人」であり、そのことによって「その人の世界認識が豊かになり深まることによってしか、真理に至ることはできない」。つまり「真理の理解とは、教えてもらうこと(他者の経験の伝聞によって)では不可能であり、あくまでも自分個人の私的な経験においてしかあり得ないのだ」ということである。

だから、くり返すが、他者から「平易な説明」を受けて、それで「理解するべきものとしての真理」が「理解できた」と考えるのは、間違いなのだ。それは、単に「言い換えとしての説明を憶えた」ということにすぎない。

したがって、本書における最大の誤読は「わかったつもり」になることである。
そうではなく、本書が教えているのは、スピノザの語るところを真に理解するためには、読者自身がスピノザに劣らぬ豊かな経験と思考努力をしなければならない、ということなのだ。

そうした基本理解がないまま、「説明できる」ようになったことで「理解できた」という満足を得たとしたら、その人はむしろ、「哲学できない説明上手」に終ってしまう怖れすらあるのだと、そう肝に銘ずるべきなのである。

初出:2020年11月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○










 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文