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三島芳治 『児玉まりあ 文学集成』 : 言葉で創られた〈世界〉の破壊と創造

書評:三島芳治『児玉まりあ文学集成』第1巻(torch comics)

高校時代に「マンガ部」に所属していたとは言え、どちらかと言えば、私は「マンガ」よりも「文学」寄りの人間である。だから、このタイトルを見た時、これは無視できないと思った。

とは言え、本作のヒロイン児島まりあについて、当初の語り手であった笛田は、彼女を、

 『彼女の言葉は 文学的である』(P6)

と評した後、次に、

 『児島さんは まるで 詩のように 改行の多い 話し方をする』(P7)

と評するので、少々警戒させられた。私は、詩歌が苦手だからである。

実際、そのあと、まりあが笛田に課す文学的レッスンは、あまりに詩歌方面あるいはレトリックに偏りすぎているように感じられて「これは私の趣味ではないかもしれない」と思った。

しかし、この物語の仕掛けが露出する第5話で、まりあは次のように語る。

 『 文学少女には二種類あるの
  「どんなことを書くか」に意味を求める人と
  「どのように書くか」に興味がある人
  私は あとの方
  文学という形式のテクニカルな面だけに関心がある』(P92〜93)

じつにわかりやすい説明だ。まりあが求めているのは「どのように書くか」であり、それが意味するのは「どのような世界を創るか」ということである。この世界を創っているのは、まさに「言葉」だからだ。

しかし、すでに「世界」は創られている。
「言葉」によって「世界を創造する」と言っても、「すでに在る世界」が、それを容易には許さない。言葉によって創られた世界は、その確固たる「有意味」性において、新たな世界の構築に、頑強に抵抗することだろう。

だからこそ、この世界には『「どんなことを書くか」に意味を求める人』が存在するのだ。
彼はその「すでに在る世界」の持てる「意味」を「言葉」にする。そして「この世界は、こういうものである」という「意味説明」において、世界を分節化して解体し、「しかし、世界は、このようにあらねばならない」という「意味付与」において、「世界の再編・再構築」を行なおうとする。そして、その際に必要なのが、世界を腑分けし解体するための鋭い刃物としての、「どのように書くか」という形式のテクニカルな側面なのである。

したがって、児島まりあの「言葉による新たな世界構築」には、弱点がある。
彼女は、「すでに在る世界」を解体するという手続きを踏まずに「新たな世界」を構築しようとして、それが可能だと思い込んでいる。なぜなら、笛木にはある障害によって「在るべき世界が失われている(存在しない)」と思い違いしているからである。

だから、児島まりあの「企て」は、最初から挫折を定められたものだ。そして、それを挫折させる「あらかじめ在ったにもかかわらず、見えなかった世界」とは、無論、笛木の内面世界である。

しかしまた、そんな「笛木の見えない内面世界」こそが、「新たな世界」を構築する力ともなるだろう。なぜなら、私たちが「すでに在る世界」と思っているもの(見えている世界)と「笛木の(見えない)内面世界」は、完全に等価だからである。

形式としての「言葉」だけが「世界」を創るのではない。
意味としての「言葉」が「世界」を充溢させて、安定させるのである。
つまり、文学には「意味と形式」の二つがあるが、それは「好みのどちらか一方」を選択して済ませられるようなものではないのだ。

こうした観点から、私は「児島まりあ」の世界の「解体と再創造」の物語に立ち合えることを期待している。

初出:2020年9月9日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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