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藤井おでこ 『幼女社長』 : 「癒し系ギャグマンガ」という、 私の評価

書評:藤井おでこ『幼女社長(1)』(KADOKAWA)

突き抜けたところはないものの、全体によく描けており、安定感がある。
また、いくつかは星5つの作品(エピソード)もあって、それだけでも買いだ。

ちなみに、私のベスト3は、正論が光る「くれーむ」、意外なオチを仕掛ける「すろーがん」、オチが正論の「ざんぎょう」だろうか。

「いい話」も悪くはないが、「正論がギャグにされながらも肯定される」という二重の捻りのある作品(エピソード)が、私の好みだった。
この「正論がギャグにされながらも肯定される」という二重の捻りによって、本作は「(正論のとおらない)企業社会」批評にもなってもいるのだ。

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さて、ここで「評価」ということについて書いておきたい。ここからが本題だ。

私が、上で「私のベスト3は」と書いたのは、これは「絶対的なベスト3」ではない、という意味であり、あの3作を選んだ「理由」を書いたのは、そうした「選定基準」によって選んだものであることを示すためであった。

つまり、別の「選定基準」は当然あるし、そちらの「選定基準」であっても、まったく問題はない。なぜなら、作品(対象)の何(どの側面)を重視するかは、評価者の個人的な価値観に由来するものだからである。

言い換えれば、作品の「すべての面」を評価基準にできる人はいない。
人は、すべてを一度に見ることはできず、自ずと個人的な重要度(好みや思想など)による優先順位があるからだ。
そのため、作品評価というのは、ほほ確実に「私の(個人としての限定された)評価」であって、「絶対評価=神の目による評価」ではない。

もちろん、極めて単純な属性しか持たないものなら、絶対評価に近いことは可能なのだろうが、小説であれマンガであれ、そうした物語創作物は、極めて多くの構成要素を持つ複雑な構築物なので、原理的に絶対評価は不可能なのである。
そしてそれは、本作のような「癒し系ギャグマンガ」であっても、なんら変わりはしない。

だから、こうしたマンガとて、そう簡単に「私の評価=絶対評価」だなどとはいうことはあり得ないのだが、そこで問題となるのが、評価者にその自覚があるのか否かである。

例えば、本作に「いい話」を求め「感動による癒し」を求める人が多いのは当然で、作者の狙いや願いも、意識的か無意識的かは別にして、おおむねそのあたりにあろうから、そうした読者が多数派なのは間違いないだろうし、そうした立場はまことに正しい。

しかし、だからといって、それが「唯一の評価基準(立場)」ではないこともまた事実である。
なぜなら、作品は完成して作者の手を離れ、読者に委ねられた瞬間から、作者の恣意を離れて、個々の読書との間に存在する「多様な可能体」となるからだ。

ところで「なぜ、こんなに面倒くさいことを」とお感じの方も多いだろう。

私が、この「一見して批評とは縁の無さそうな作品」のレビュー欄に、こうしたことを書いたのは、こうした話(評価論)は、芸術や文学といった世界では、当たり前の話なのだが、マンガの世界、マンガ需要者の世界では、必ずしもそうではない現状があるからだ。

たしかに、作品はどのように読もうと勝手、ではあるのだけれど、しかし、そこにはそれ相応の理由と限界があるのだということを、ここまでの議論は示している。
そしてこうした議論は「作品を尊重する」という立場に発したものなのだ。

だから、マンガの愛読者にも、マンガ作品を本当の意味で、尊重してほしいと思う。
「どう読もうと勝手(自由)」という言葉の意味は、読者が「暴君としての読者」であることを意味してはいない。
読者には「すべての面」を評価することはできず、「絶対評価=完全な評価」はできないということを自覚し、謙虚に「私の評価」の限界を認識して、その上で「より多面的な評価」を考えるような姿勢を持ってほしいと思う。

ただ、作品に「求める」だけではなく、作品に「貢献する」ようなマンガ読者の存在が、一人でも増えてほしい。そうすれば、マンガももっと自由で豊かな表現形式になれるし、そうなってほしいと願うからである。

初出:2019年5月3日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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