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〈2.0〉は転けた 『サルまん』ラシュディ : 相原コージ、 竹熊健太郎 『サルでも描ける まんが教室』

書評:相原コージ、竹熊健太郎『サルでも描けるまんが教室』全3巻 (Big spirits comics)

1990年代前半に大ヒットした名作マンガ、通称『サルまん』こと『サルでも描けるまんが教室』である。

なんで今ごろ、こんな「古典的名作」を読んだのかと言えば、(一一最近よく書いていることなのだが)定年間近になったので、新作を読む数を減らして、読み残した名作を少しずつ片付けているためである。

では、なぜ大ヒット当時に本作を読まなかったのかと言えば、当時すでに私は「活字派」になっており、意識的にマンガは読まないようにしていたのと、当時は「新本格ミステリ」の勃興期で、そっちにのめり込んでいたため、マンガにはあまり興味がなかったせいだ。

それでも、アニメの方は見ていたし、「活字」本として、アニメ評論やサブカルチャー論なども読んでいたから、その中で何度も名作『サルまん』の名を目にはしていた。
しかしまた、それでも読む気にならなかったのは、私はマンガであれアニメであれ、小説であれ映画であれ、基本的には「ギャグもの」「喜劇」「お笑い」「ユーモアもの」の類いを、積極的に鑑賞する気がなかったからである。端的に言って私の好みは、「硬派」な「男性的」作品だったのだ。

その上、『サルまん』の場合は、どうにもその「絵柄」が好きではなかった。
幼い頃から絵を描くのが好きで、中学では美術部、高校ではあった漫画部員だった私は、マンガやアニメに関しては「シャープでスッキリした、しかし柔らかさと強さを兼ね備えた描線による、流麗な絵柄」を理想としているから、「デッサンが狂っている(デッサン力がない)」とか「描線にシャープさがなく、線が整理されていない、暑苦しいだけの絵柄」というのが大嫌いなのである(したがって「ヘタウマ」系マンガや、泥臭い「劇画」も、絵柄的には好きではない)。

(相原は器用に絵柄を変える画力は持つが、魅力的な絵が描けるわけではない)

そうなると、『サルまん』の表紙絵や、作中の「劇画調」の絵柄は、最悪に私の「嫌いなパターン」だった。
まして「下ネタギャグ」など論外で、私は、少年マンガをかたっぱしから読んでいた子供の頃でも、『がきデカ』派ではなく、『マカロニほうれん荘』派であり『ストップ!! ひばりくん!』派だったのである。

(山上たつひこ『がきデカ』より)
(鴨川つばめ『マカロニほうれん荘』より)
(江口寿史『ストップ!! ひばりくん!』より)

そんなわけで、長らく気にはなりながらも、ブックオフで手に取っては、表紙を見て「やっぱり無理だ」と棚に返すということを繰り返してきた『サルまん』だったのだが、歳をとった今なら、「絵柄」には目をつむって読むこともできるのではないかという気になってきたので、今頃になってチャレンジし、なんとか読了することができたという次第である。
(とは言え、本当は、第1巻を読み終えた段階で「この調子で続くんなら、もう止めようかな」と、いったんは考えた。だが、すでに買ってあった第2巻をめくってみると、第1巻ような露骨に「マンガ批評ギャグ漫画」ではなく、いちおうは「ストーリー漫画」的な形式に軌道修正(?)したようだから、これなら読めそうだと思い、読み続けることにしたのだ)

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前述のとおり、第1巻は、第1章の「まんがの描き方(テクニック)」検討から始まり、第2章以降は「各種ジャンルまんがの描き方」を紹介したもので、要は、ジャンルまんがのジャンル的特徴を剔抉し、その独特の「癖」を誇張して際立たせ、ギャグに仕立てる、というのが『サルまん』という批評マンガであった。

(一時期「レディースコミック」というのが流行った)

だが、こういう「メタフィション形式の批評」作品というのは、当時こそ斬新であったからウケたのだろうが、いま読むと「こんなに同じパターンを延々とやるなよ」と言いたくなってしまう。端的に言えば、飽きるのだ。
ギャグ漫画とはそういうものなのかも知れないが、私はもともとギャグものは好きではなく、また「批評」として読めば、この繰り返しは、冗漫以外のなにものでもなかったのである。

それに第1巻で、鼻についたのは、この『サルまん』(第1巻)がどのように「批評」されるかまで事前予想し、『サルまん』書評をタイプ別に実例を書いて示していた点だ。
それらは『サルまん』批評としてあながち間違いではないものであって、「メタ批評」作品としては「そこまでやる」ところが大したものだとは思う一方、ある意味では、これは「先回りの予防線」だとも感じられたので、この「批評」を寄せつけまいとでもしているかのような態度には、あまり好感は持てなかったのである。

ただ、第1巻とは違って、第2巻、第3巻は、第1巻の内容を「作中の、相原コージと竹熊健太郎」が描いていた作品と明確に位置付け、作中の彼らが、その後、本格的に作家デビューして、こうした「批評マンガ」ではなく、実際に「ウケるマンガ」を目指して連載を始めるという「実践編」的な展開になる。つまり「作中作」の部分が、連載マンガの体をなすようにように描いた上で、その連載作品を描いている「作中の、相原コージと竹熊健太郎」の作家的苦労が「裏話」風のマンガとして、批評的に描かれるのである。

前述のとおり、第1巻では既成のマンガのパターンを誇張してギャグにし、それを高みから批評しているようなマンガだと感じられる部分があったけれど、第2巻以降は、「リアルの相原コージと竹熊健太郎」が、自分たちで実際にストーリーマンガとして連載まんがを描きつつ、それをネタにしてギャグ漫画を描くという困難な「二重性」を、全面的に引き受けることになったのだ。

これは、傍目にも極めて困難な作業であるというのが窺われ、第1巻のスタンスがあまり好きではなかった私でも、第2巻以降の「セルフ・ツッコミ」的なパターンには好感が持てた。作者たちが、本当の意味でのマンガ創作の苦労を引き受けているのがわかったからこそ、その「実験性」や「新しさ」よりも、その当たり前の「創作の苦労」に共感したのである。

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ただ、全体として言えば、もともとギャグ漫画は好きではないので、マンガ作品として十全に「楽しめた」とは言い難いし、さらに批評作品としては、マンガの形式を採ったがために、(その範囲内でよく頑張ったとは言え)特別に感心もしなかった。

私の「好み」が、本書作者たちのそれと相反するものではなく、その上でさらに、本作を連載当時に読んでいたら、もっと楽しめたのかも知れない、とは思う。

しかし、「私が別人だったら、もっと楽しめたかも知れない」といった想定は、批評においては意味を持たない。そんなことを言ったら、どんな作品だって「傑作」だと考える人はいて、その人なら傑作だと評価するだろう、といった話になってしまうからである。

たしかに当時においては「マンガ批評のギャグ漫画」というのは、「新しい」し「刺激的」でもあったろう。何よりも、世間も「バブル経済の末期」で、まだ元気な頃だったから、こうした作品で大笑いする余裕もあったのであろう。
だが、2010年代も後半になってから『サルまん 2.0』が描かれても、それはウケなくて当然だったと思うし、私も今更、そこまでお付き合いする気にはなれない。

(作中の相原コージ)
(かなりリアルな竹熊健太郎)

と言うのも、仮に『サルまん 2.0』が、同時代のマンガを的確に批評したマンガ作品であったとしても、しかし、その『サルまん 2.0』が、同時代の若い読者にはウケないということを、あらかじめ見抜けなかったところに、作者の「マンガ批評」の限界があったのではないかと、そう考えざるを得ないからである。

(※ 「まんが」「マンガ」「漫画」の表記は、あえて統一しなかった)

(2021年12月23日)

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