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夢としての悪夢・ 悪夢としての現実 : 吉村萬壱のフィクション 『流しの下のうーちゃん』

書評:吉村萬壱『流しの下のうーちゃん』(文藝春秋)

吉村萬壱の現時点での著書17冊で、読み残していた3冊のうちの1冊。
残りは、『バースト・ゾーン 爆裂地区』と『回遊人』だ。

さて、今回の『流しの下のうーちゃん』だが、果たしてこれは、漫画なのか、絵物語なのか、イラストエッセイとでも呼ぶべきなのか。
一一まあ、吉村萬壱の作品をして、「べき」論は無意味であり、野暮でしかないのでやめておこう。

著者自身「あとがき」で『当初は絵本か絵日記のようなものを描くつもりで臨んだが、終わってみれば一応ストーリーのあるものになっていた。』と紹介している作品である。

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最初の方は、自身の「作家的日常」を描く「絵日記」風のエッセイ漫画なのだが、途中から、語り手の「吉村萬壱」は、飼いウサギのうーちゃんに導かれて、「ワンダーランド」に転がり込んでしまう。

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無論このあたりは、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を踏まえたものだ。つまり、うーちゃんは「三月兎」であり、語り手の「主人公」である、作中の「吉村萬壱」は、アリスというわけだ(う〜ん…)。

当然、ただでさえ「不思議の国」は怪しい人物怪物がつぎつぎと出てくるのに、本作の場合、アリスからしてアリスなんだから、その怪しさが、世間受けのしない方向で、さらに増すのは必定。

まず登場するのは、まつげが長く、それでいて髭の濃い、ワイシャツにネクタイ姿のサラリーマン風中年男。これが、萬壱のいく先々に現れ、彼を避けようとする萬壱に執拗につきまとい、時には映画『マトリックス』のエージェント・スミスよろしく増殖までして、最後は萬壱を拉致誘拐し、怪しい「労働キャンプ」に収容してしまう。

そこでは、内容物不明の大きな布袋を、指定の場所まで背負って運ぶという、あまり意味なさそうな単純労働が強いられる。そして、その労働キャンプで語られるのは、労働の中身を問わない「労働の美徳」である。

無論「労働の美徳」になど共感しそうにない萬壱なのだが、他の人たちと同様、働いているうちに、それが楽しく感じられるようになってしまう。
そんな、洗脳されたとしか思えない萬壱を、労働キャンプのある異世界から逃がしてくれたのは、萬壱が惹かれる「美しい巨女」であった。なぜか彼女は、萬壱をそこから、現実の世界へと送り返してくれたのである。

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現実世界に戻った後、なぜか失っていた創作意欲を回復した萬壱だったが、それもつかの間、また創作意欲を失ってしまう。そこで、創作意欲を取り戻せるのではないかと、街を彷徨しながらも巨女の面影を追う萬壱だったが、彼は、いつの間にか「異世界の労働キャンプ」で背負わされた布袋を自ら背負っており、周囲の人たちもすべて、同様の巨大な布袋を背負っているのであった。

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これはたぶん、「創作への欲望と労働嫌悪のジレンマ」といったところを描いているのだろうと、一応は解釈できる。
しかし、こんな解釈は、当たり前すぎて面白くもないし、当初の『絵本か絵日記のようなもの』が、描いているうちに『ストーリーのあるもの』へと変わっていったように、このストーリーやオチ自体も、半ば自動書記的に描かれたもので、ハッキリした「意図やテーマ」など設定されていなかったのではないかとも考えられる。

しかしまた、これが「何の意図もなく、自動的に描かれた」作品だとまで言えるかというと、無論そんなことはあり得ない。作者は、多かれ少なかれ、作品の流れをコントロールしながら描いているはずだし、そうでなければ、こんな「まとまった作品」にはならないはずだ。

そもそも、当初の「作家の日常を描いた、イラストエッセイ」みたいな部分でも、実際には存在しているはずの、作者・吉村萬壱の妻が、全く登場せず、まるで存在していないかのような描かれ方なのだ。
つまりこれは、吉村萬壱が、現実そのものを、そのまま描こうとしたわけではない、と理解すべきなのだ。

吉村萬壱という作家は、あくまでも「内部の真実」を描く小説家であって、「現実」を写生する自然主義文学者でもなければ私小説家でもない。だから、この作品は、最初から最後まで「フィクション」であり、同時に吉村萬壱の「内部の真実」を描いた作品だとも言えるだろう。

そう考えると、問題は「巨女」の存在である。

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周知のとおり、長編作品『臣女』で、「巨女」への偏愛執着をあからさまに描いて見せた吉村萬壱であったが、その『臣女』では「妻」が「巨女」であったのに、本作では、どこからともなく現れて、なぜか作中の萬壱を救出してくれる「女神」のごとき存在になっている。

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しかしまた、「巨女」に救出されても、結局、萬壱はまた「労働」の呪縛にとらわれてしまうわけだが、では、萬壱を「労働」の呪縛から(一時的に)救い出してくれる「巨女」とは、いったい何を象徴した存在なのだろう。
それは、端的に「束の間の自由」を象徴しているのだろうか。それでは、なぜ「束の間の自由」の象徴が「巨女」なのか。それは単に「巨女」が好きだから、肯定的なものの象徴として「巨女」のイメージを当てただけなのだろうか。

吉村萬壱という作家は、意外に隠し事の多い作家なのではないかと思うが、それを、作品を通して読み解こうとすることも、吉村萬壱読者の楽しみであるというのは、間違いないところであろう。またその意味で、吉村萬壱は、間違いなく「純文学」作家なのである。

(2022年4月24日)

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