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吉村萬壱 『みんなのお墓』 : 開放と死

書評:吉村萬壱『みんなのお墓』(徳間書店)

どう評していいのか、困ってしまう作品である。
例えば本書の帯(背面)には、伊坂幸太郎による次のような推薦文が刷られている。

『 吉村萬壱さんは、
 虫を観察するかのように、
 天体を観測するかのように
 人間の営みを描いていく。

 深刻な話なのに、
 どこか可笑しく感じてしまう。
 こういうのが
 僕の好きな文学なんだ。

 倫理的にどうかと思う人たちが
 たくさん出てくるけれど
 読み終えた今も僕は
 彼らのことを気にかけている。

 「面白い文学」を探している
 人たちに届いてほしい。

  吉村作品の昔からのファン
         伊坂幸太郎 』

この推薦文は、たしかによく「吉村萬壱の作風」を捉えている。

だが、これだけでは、本作がどんな小説なのかは、さっぱりわからない。
『どこか』と書かれているように、「どこが」可笑しいのか語られていないし、伊坂自身、それをはっきりと把握できてはいないのではないだろうか。だからこそ『気にかけている』のではないか。
それがはっきりと言語化できるようなものなら、吉村萬壱の作品を気にかけて読み続ける必要などないし、その「簡単には言い表せないもの」を描こうとするところにこそ、「純文学の純文学たる所以」があるのではないだろうか。

例えば、Amazonの本書紹介ページには、次のような「内容紹介文」が掲載されている。(ゴシック強調は、原文のとおり)

『 私たちの視界には、いつもお墓があった。

裸になる快感を追い求める主婦。
「真理」がわからないと言う小学四年生四人。
夜コンビニに出ることだけが日課の引きこもり男性。
「真・神塾」という塾への合宿参加を決めたギャル。
潔癖症の妻を持つ中年。
皆それぞれに悩みを抱えつつ、しかし必死に生きていこうとしている面々だった。

彼らはなぜ「内藤家之墓」に引き寄せられてしまうのか。
最後に入る世界・お墓は私のためか誰かのためか。
芥川賞作家が描く悲喜交々の群像劇。』

本書を読んだ人なら、この内容紹介が「間違ってはいない」というのは、わかる。
たしかに「登場人物」は、こんな人たちだし、本書では「墓と変態行為」を描いて、「死と生」の関係性を描いているというのも、確かなことだろう。

だが、このように要約してしまうと、それはもはや「吉村萬壱の小説」ではなく、「よくある何か」に変貌してしまう。
この紹介文には、吉村が好んで描く「おなら」も「ゲップ」も無ければ、屋外での「排便排尿」も無い。
『裸になる快感を追い求める主婦』と「深夜の墓地で、ロングワンピースの前を全開にし、下は裸という格好でうろつき回り、墓石の角でオナニーしたり、地面にそのまま排便排尿して、汚れた尻を拭うことすらしないような露出狂の主婦」とは、明らかに別物である。

無論、「内容紹介文」の方も「嘘」を書いているわけではないのだが、意図的に「肝心な部分を書き落としている」と、そう言って良いだろう。
なぜそんなことをするのかといえば、吉村萬壱の描くものをあけすけに紹介してしまうと、普通の人は、それだけで本書を忌避してしまうと予想されるからであろう。その強烈な個性的描写にとらわれ、その不穏さを恐れて敬遠してしまうに違いないからである。

しかし、「吉村萬壱の小説」において、あるいは「純文学」において大切なのは、明示的な「メッセージ」や「テーマ」や、ましてや「面白い物語」などではなく、この、いわく言い難い「それを描く」ことなのだ。

「人はそれぞれに欠落を抱え、その欠落ゆえの闇を抱えて生きており、それを埋め合わせてくれるものは、たぶん自己破壊的なまでの死への欲動なのだ」といったようなことを「書く」のが「文学」ではないし、ましてや「純文学」ではない。

むしろ、そのようなかたちでの「定式化」を許さない「生きることの何か」を、それの周いを旋回しながら弄り、舐めまわすように描こうとするのが「純文学」なのである。その意味で「文学」とは、「描写」が命であり、「文体」が命なのだ。

そして、そうした意味において吉村萬壱は、間違いなく「純文学」作家だし、それも「稀有な」純文学者だと言って良いだろう。ただし、そうした「稀有性」というのは、おのずと「一般読者」を遠ざけてしまうことにもなる。

誰だって、自分が「おならやゲップやウンコ」をひり出す存在なのだと、わざわざ確認したくなどはない。
それが事実であり現実だとしても、そんな「現実」からは目を逸せて、「きれいな現実」だけを見ていたい。たとえそれが「現実の一部」でしかないのだとしても、それも「現実」なのだから、それで良いじゃないかと、そう考える。一一しかし、恣意的に「編集された現実」は、もはや「現実」などではない。

もちろん、吉村萬壱の小説も「恣意的に編集された現実」ではあるのだけれど、彼の編集方針は、世間のそれとは違って、明らかに自覚的なものであり、ある意味で、世間とは真逆な、「変態的なもの」だと言って良いだろう。だからこそ、彼の小説には「存在意義」がある。

これは、吉村萬壱が「私たちが目を逸せている部分を、意図的に突きつけている」ということとは、ちょっと違うように私は思う。
そういう、自覚的な「方法論」によるものではなく、吉村萬壱の「変態趣味」や「汚物趣味」は、彼にとっては「自然なもの」であり、さらには「好ましいもの」なのであって、無理をして「嫌なものを描いている」というのではないと思うのだ。
しかし、だからこそそれは「本物」だし、私たちはそれを突きつけられて「怖れ」をなし、そこから目を逸せてつつ、それを凝視せざるを得ない。

それが「嫌だから」、目を逸らせたり凝視したりするのではなく、それに「魅せられてしまう自分」が目を覚ましそうで、それが恐ろしいのだ。社会に、当たり前に、無難に順応して生きている自分の中にも眠っている、その「怪物」が、いましも目を覚ましそうに思えて、それが「怖しい」のだ。
また、それと同時に、その恐怖感が「解放のマゾヒズム」を、どこかで刺激して「怖気持ちいい」のである。
一一まるで、本書に登場する『裸になる快感を追い求める主婦』と同様に。

『それは、どこか自分と似たところのある母が、時として舞い上がりそうになる己の異常な欲望を引っ張り戻す碇として、この謹厳実直な男を飼っているらしいということだった。金子林万作の話には息が詰まったが、この男の唯一の良い所は、俘実が馬鹿な行為をした理由を全く問い質してこないところだった。』(P195)

私たちの「秘密」に対して、墓は何も語らない。問い質しもしない。
墓は、人々の「秘密」を黙って聞き、それを封じ込めて、沈黙の中に安らぐ場所なのだ。
だが、そんな欺瞞を許したくないという気持ちもある。

だから彼らは、墓石でオナニーしたり、墓場で排便排尿したりといった、「冒涜的行為」をするのではないだろうか。
その「安らかな死に顔」の下に隠され封印された、あれやこれやを知っているから、わざわざそこへ「呼び起こし」に行っているのではないだろうか。

『自分の中から出た汚物の堆積物に打ちひしがれたいという奇妙な欲望のせいだったが、どうしてそんな欲望が自分の中にあるかはよく分からなかった。』(P188)

その意味では、そうした行為は「冒涜=汚す」行為なのではなく、むしろ「隠蔽された汚れ」に対する「許し」であり「解放」を意味するものなのではないか。

そうした、生きることの「汚れ=穢れ」の解放とは、最終的な「自由」の獲得であると同時に、やはり「怖しい」ものなのでもあろう。

私たちはたぶん、あまり自由にはなりたくないのである。
なぜなら、自由における「無防備」さは、「死」に隣接したものだと直観されるからなのであろう。



(2024年5月23日)

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