見出し画像

理に落ちた 〈人類告発〉小説 : 吉村萬壱 『出来事』

書評:吉村萬壱『出来事』(鳥影社)

残念ながら、期待はずれだった。
私は吉村萬壱という作家を高く評価しているが、何を評価しているのかと言えば、それは彼の「皮膚感覚」あるいは「動物的直観」のような部分であって、「分析」能力ではない。
ところが本作は、帯背面の惹句に『哲学小説』とあるとおりで、いかにも「理に落ちて」しまっている。
言い変えれば、本作は「吉村萬壱らしくない作品」であり、そこが残念な「失敗作」だとする所以なのである。

私は、吉村萬壱の前著である短編集『前世は兎』を論じて、amazonレビュー「「何なの、この下らない世界は」」に、次のように書いた。

『表題作「前世は兎」の語り手は、人間に生まれ変わりながら、兎であった前世の記憶を持つために、人間の「分節化され意味化された世界認識」に違和感を表明するが、たしかにすべての生物の中で、人間の世界認識ほど異様なものはないであろう。その異様さの中心にあるのが、たぶん「意味」だ。
人間は、進化の過程で世界を分節化して意味化し、詳細に把握することで世界を効率的に利用できるようになった。そして、この地上の覇者になった。「意味」こそ、人間の生み出した、最大の武器であったのだ。だが「意味」とは「実在」するのだろうか?

(※ キリスト教神学者の)シュトッシュは大胆にも、神の実在を理性的な思考によって証明することは出来ないと言う。しかし、神がいなければ、人間はこの世界で「正しく生きる」根拠を失うのではないか。この世界は元来無意味であり「善も悪もない」という認識を持つしかないのではないか。ならば、人はどのようにして希望を持って生きていけよう。そう考え、そこにこそ神の存在の神義論的突破口を探ろうとしている。

たしかに、そうだ。この世には「善も悪もない」「意味などない」と言ってしまうことは簡単だ。だが、それでは「力によって意味をでっち上げた者が勝ちだ。即ち正義なのだ」という考えが当然出てくるし、現に今のこの世の中は、そのとおりになっている。

だが、そんな世界は狂っている。「意味」に憑かれた我々も狂ってはいるだろう。だが「意味」に憑かれていながら「意味」を見失った世界は、もっと狂っている。そんな世界に、私たちはやり切れなさを感じるのだが、本書に収められた作品には、この度しがたい世界への押し殺された嫌悪と諦念にも似た怒りが満ち満ちている。

やはり、吉村萬壱という作家は、今の時代と誠実に対峙している作家なのだ。』

.
このように私は、吉村の前作を絶賛したわけだが、本作『出来事』は、私がここで「解説」したことを一歩も出ることなく、すべてここに「無難に収まってしまっている作品」だと言えよう。それでは、困るのである。

それにしても、こうした「失敗」は、どうして起こってしまったのか。
それは、前述の「帯背面の惹句」にあるような、「吉村萬壱の長所への誤解」が、吉村自身にも多少なりともあったからではないだろうか。

『きれいごとを吹き飛ばす圧倒的描写力によって日常世界がめくれあがる。見慣れたはずの外界が何かおかしい。人間の嘘がべろりと浮かび上がる。人間とは何ものなのか。一見そうは思えないが、本書は脳と文明の虚妄をあばく恐るべき哲学小説である。』(帯背面の惹句全文)

この惹句作者は、これで本作を誉めているつもりなのだろうが、実際には逆で、本作の弱点を語ってしまっている。

ここでは、吉村萬壱という作家は、「人間の見苦しい部分」に対するその容赦ないの「描写」において、人間の「虚飾」を暴く作家だと考えられているわけだが、人間が「虚飾」に満ちた存在だなんてことは、誰でも自分の胸に手を当てて考えれば分かることでしかなく、それがわからないのは、現実逃避のための「きれいごと感動エンタメ」しか読まないような人たちだけだろう。
つまり、「人間には、汚く見苦しい部分がある」というのは「当たり前」のことなのだが、それをもって、『きれいごと』は『嘘』や『虚妄』だ、という「告発」もまた、短絡的思考の産物でしかない。

人間の「汚く見苦しい部分」を「現実」とするなら、「美しく崇高な部分」もまた「現実」なのだ。
そもそも、「美醜」「善悪」「真偽」などは、すべて「意味」でしかなく、「無い」と言えば、どれも「(存在しない)虚妄」なのである。
したがって、「美」や「善」や「真」や「崇高」の方が「稀少」だとは言え、そうした「肯定的な意味」もまた、人間にはたしかに存在していて、これは「どちらか一方だけ」などという「単純な問題」ではない。
まただからこそ、「善悪の問題」は難しいし、「哲学」の対象たり得るのである。

しかし、それが、この惹句著者には、まるでわかっておらず、自分がさも、この作品の長所(意味)を理解していると思いこんでいるところが、どうにも度しがたい。

「帯前面の惹句」の著者である富岡幸一郎は、さすがに、そんな浮ついたことは書いておらず、無難な推薦文を寄せている。曰く『仮想と現実、脳内と世界を巡回する圧倒的な言葉の力』。
そもそも、キリスト教徒である彼には、「帯背面の惹句」著者のような、浮ついたことなど書けるわけもないのだ。
なんとなれば、キリスト教を含む「宗教」こそが、「帯背面の惹句」著者が言うところの『脳と文明の虚妄』の最たるものであり、富岡なら、それを「虚妄だ」などと言って済ませられるような問題ではないと知っているからである。

したがって、本書は、人間の文明を構成する「意味」とは「虚妄(フィクション)だ」という「凡庸な、哲学的世界理解」によって、人間の文明を「告発しているだけ」の、いささか薄っぺらな「哲学小説」に終ってしまっている。そこが、小説として、おおいに問題なのである。

本書が「哲学小説」として優れたものであるためには「(人間の)文明は、すべて虚妄である」などという、哲学的には「わかりきった話」で「告発」するに止まらず、むしろ「その先」を書かなければならない。

「生物としての生き残り」のために「脳」を進化させた結果、「意味」という武器を手に入れて、生物の頂点に立ち、やがて「意味」という「道具=人工物」を「自然物」と思いこみ始めた今の人類の大半にとっては、なるほど「意味とはフィクションだよ」という指摘は衝撃的かも知れないが、しかし、それを理解している人には「だからどうしろというのだ」ということでしかない。

つまり、「意味」に生きるしかない人間に対する、「世界には元来、意味など無い」というような「薄っぺらに賢しらな指摘」など、それこそ「無意味(無価値)」であって、おのずと私たちが求めるべきは「最良の意味を求めること(創作確立すること)」でしかないのである。

無論、「最良の意味(回答)」などというものは、確定的なものとして存在するわけではない。
そもそも「意味」とは「状況依存的」なものだからであるが、しかし、それでも人間が「意味の動物」であるかぎりは、「最良の意味」を求めつづけるしかないのだし、それこそが「哲学」という営為なのである。
そして、「哲学小説」もまた、週刊誌的な「暴露エンタメ」ではなく、文字どおり「哲学小説」でなければならない。「意味探求小説」でなければならないのだ。

初出:2019年12月22日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○



 ○ ○ ○





この記事が参加している募集

読書感想文