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吉村萬壱 『CF』 : 罪ある者は、 石を投げ打て

書評:吉村萬壱『CF』(徳間書店)

『汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて』
 (ヨハネによる福音書)

今回は、萬壱印の「変態趣味」も「暴力」も抑えて、「社会派的なテーマ」を扱っているように見える作品であり、その意味では、『ボラード病』以来ひさびさの「異色作」と、そう言えるのかもしれない。「普通の人」でも、おおむね、眉をひそめずに読める小説になっている。

だが、そこは「純文学者」吉村萬壱だから、「社会的なテーマ」を、声高に訴えるような作品にはなっていない。
むしろ、そうした「社会的な責任」あるいは「責任」という、今の日本において問われている「倫理問題」を扱いながら、それを「社会問題」として扱うのではなく、「人間の本質」において、そもそも「責任」とは何なのか、それが持つ意味とは何なのか、といったレベルで問うた作品になっている。

だから、一見、テーマのはっきりしたわかりやすい作品のように見えるが、どうして、いつもどおりに「人間存在の、本質的な捉えどころのなさ」を描いている作品なのではないだろうか。

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『罪の責任を取る必要がない「無化」を行ってくれる超巨大企業・Central Factory。
加害者のみならず被害者の苦しみも取り除いてくれる夢のような技術を持ち、世を平穏へと導いている。
が、それに疑問を持つ男がひとり。男はCFへのテロを計画していた。

人生に上手く馴染めないキャバクラ嬢、能面のような夫の表情に悩む主婦、少女へ恋する中学生、自由を持て余すホームレス、CFの布教に勤しむ老婆、CFでの労働によって犯罪の清算をする中年、社長の著作代筆作業に行き詰まるCF広報室長。そして、CFの欺瞞を暴こうとテロを計画する男。

CFCFCF。CFをめぐり、人々は交錯する。
罪とは何か。責任のとり方を問う群像劇。』

「罪の責任」を物質化して廃棄する、政府系の企業「CF」の存在をめぐって、それに振り回される老若男女の、群像劇である。
そんな「ありえない」化学技術が、少なくとも作中の世界では「本当に開発されたのか否か」、それをはっきりさせないまま、物語は展開していく。物語の最後で、この謎については、一応の回答が与えられるが、それはこの物語において、必ずしも重要なものではない。

つまり、そんな技術が「もしもあったら」私たち個々は、それに対してどのように向き合うだろうかが問われており、実際にそれがあるのか無いのかというのは、作中においても、本質的な問題ではないようだ。
「もしもあったら」あなたは、どうするだろうか? 「もしもあると言われたら」あなたは、どうするだろうか? その結果として、社会は、どう変わるのだろうか? それとも、今のまま、なのだろうか?

そもそも、そんな技術など無くても、「責任を引き受ける気のない者」など、現実にいくらでもいる。作中でも描かれているとおり、自分がやった不正の尻拭いをさせて、自殺者まで出しておきながら、決して責任を取らない政治家など、今の日本では、むしろ当たり前に類する存在だ。

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そして、ネトウヨならばともかく、そんな政治家を「優れた政治家だった」とか「国葬に値する、偉大な政治家だった」などと言って、射殺された現場まで行って献花してくるような人までいる。私に言わせれば、宗教(的盲信)か鳥頭としか思えない。

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ともあれ、彼らは、「責任を取る」のではなく、正確には「責任を取らされる場合はある」というに過ぎない。
自分の意思として「責任を引き受ける」のではなく、自分より力のあるものから「責任を押し付けられて、嫌々ながら、責任を取らされる」のである。一一だが、そんなことで「責任を取った」と言えるのだろうか? そもそも、その人の取らされた「責任」とは、何なのだろう?

作中人物たちは、それぞれに「犯した罪に対しての、取るべき責任」が存在していると信じて、その「責任」をどうするかで、右往左往している。
「責任を取る者」「責任を取らない者」「責任を取らせようとする者」「責任を取らされる者」といった具合に、作中人物たちは「責任」の存在を自明視しているけれども、果たして「責任」とは、アプリオリに「存在しているもの」なのだろうか?

例えば、良い行いをした時には、普通、その行為に対する「責任」は問われない。「責任」とは、「義務」に対して発生するものであり、その果たすべき「義務」を果たさなかった時に、その「責任」が問われる。
例えば、「犯罪」行為において「責任」が問われるのは、「法律を守る」という「義務」を果たさなかったから、そのことによって「責任」が問われるのであって、そもそも「法律」に代表される「決まりごと=守るべき義務」が存在しないところでは、「責任」など発生しないだろう。
言い換えれば、何をやっても良い場所では、「罪」は存在しないし「義務」も発生しない。何をやろうとやらなかろうと、それは完全に自由なのだから、「責任」などというものは、そもそも発生しないから、存在もしないのだ。
つまり、義務とは、「対他関係」において発生するものであり、その意味で「社会の存在」において発生するものであって、アプリオリに存在するものではない、ということになる。

だとすれば、逆に「他者」がいるかぎり、二人以上の「社会関係」があるかぎりにおいて、「責任」は自動的に「発生」するものであって、この作中人物たちのように「加害者と被害者が、双方共に責任意識を失えば、それで責任は消えた」ということには、ならないのではないだろうか。
当事者同士がいかに納得しても、社会的行為における「責任」は発生したまま存在しており、消えることなどないのではないか。
よく言われるように「おかした罪の責任は取りきれない」というのは、「責任」とは、当事者間のものではなく、本質的に「社会的」なものだからなのではないか。だから、いくら当事者双方が納得しても、「責任」は完全には解消されない。

例えば、被害者が敬虔なクリスチャンで、その教えである『人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。』(ルカによる福音書)に従って、加害者を許したとする。そして、神の奇跡(愛)によって加害者も「罪の意識=責任意識(負い目)」が消え(て救われ)たとすると、それで「責任」そのものも、消えたことになるのだろうか?

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私はならないと思う。
なぜなら、「責任」とは、当事者の間で完結するものではなく、「社会的」なものであり、いくら被害者が「加害者を許します。恨みも消えました」と言い、加害者も「もう、罪の意識は消えて無くなりました」と言っても、実際には「責任」は消えて無くなりはしないだろう。つまり、それだけでは「世間が許さん」ということになるからである。

したがって、もともと客観的には存在せず、人間が「社会的動物」として生き始めてから、社会的な「約束」に伴うものとして設定された観念が、「責任」なのではないか。だから「社会」が存在するかぎり、「責任」が消えて無くなることはない。
なのに、あたかも「責任」が消しうるもの、回避しうるものと考えるのは、誤認であり、それは「責任を回避したい人間」の「願望的幻想」でしかありえないのではないか。

だとすれば、そういう「責任回避」が、あたかも可能であるかのように横行している、現在の日本とは、実のところ「一部の、無責任な人間」がそれをしているということではなく、大半の人間が、その「幻想」を、自ら望んで受け入れてしまっているから、「責任回避が可能である」かのように、見えているだけなのではないだろうか。

『「CFによる責任の無化を受ける人間が多ければ多いほど、無化の効果は高まりますからな」宝月誠仁はいつになく早いピッチでワインを呷った。
「それはどういうことかね?」
「誰かがひとたびCFの世話を受けると、責任の無化はその分だけ既成事実化するということです。先生も、御自分一人だけだと本当に責任は消えたのかと不安に思われるでしょうが、同じような仲間が何百万人も何千万人もいれば疑念も晴れて御安心でしょう?」
 山口邦武はその時、胃が捩れるような不快感を覚えた。』(P201〜202)

これは、そうした事情を説明しているのであろう。

したがって、私たち自身が「責任」を引き受ける意志を持っているかぎり、「責任回避」は不可能であり、それは他者の「無責任」や「責任回避」に対しても同じなのではないか。

つまり、問題は、「他者を許す」ことではなく、「私が許されたい」ということ、なのではないだろうか。
「私が許されたいから、他者を許す」という誤った考え方によって、「無責任」や「責任回避」が可能になっているというのは、いかにも「日本的」に、ありがちなことなのではあるまいか。

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本作の中でも、登場人物の多くが、人の「責任」は問うても、自分の「責任」を引き受けようとはしないから、「CF」は力を持ってしまっているのではないか。つまり「CF」を生んだのは、私たち自身の「無責任」だということなのではないだろうか。

つまり、問われているのは、読者である「私」自身なのであって、「社会悪としての他者」なのではないのではないか。

本作に満ちている「勧善懲悪を許さない、割り切れなさ」とは、問題の本体が、「読者」個々の中に潜むものだからなのであろう。


(2022年8月15日)

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